「上田城跡公園」の観光情報と、実際に観光した感想
この記事では、上田城跡や上田市立博物館などのある「上田城跡公園」の観光情報と、実際に観光した感想をまとめます。
「城の観光に興味がある方」「長野県上田市を観光する予定の方」などの参考になれば嬉しいです。
「上田城跡公園」の観光情報
- 営業時間:「上田市立博物館」と「上田城櫓」は9:00~17:00(入館は16:30まで)。公園自体は基本的に常時解放されています。
- 休館日:「上田市立博物館」と「上田城櫓」は水曜日、祝日の翌日、12月29~1月3日が休館日。「上田城櫓」のみ11月中旬~3月も休館。
- 見学料金:「上田市立博物館」と「上田城櫓」の共通券が大人500円、片方のみで大人300円。
- 所要時間:「上田城櫓」周辺だけなら1時間ほど。「上田市立博物館」が30分~1時間ほど。公園内の史跡全てをじっくり見ると3時間はかかると思います。私は「上田城櫓」「上田市立博物館」の他、公園の史跡6割ほどと、近隣の「上田藩主居館跡」を見学し3時間ほど。
※詳細は変更の可能性もあるため、訪問前には公式HPなどの情報をご確認ください
「上田城跡公園」とは?
「上田城跡公園」とは、簡単に言えば「真田昌幸によって築かれた上田盆地のほぼ中央に位置する「上田城」の跡地で、博物館や神社もある観光スポットの公園」です。
上田城は、第一次、第二次上田合戦で徳川軍を撃退した実績を持つ城で、2度の実戦で成果を上げた点では全国的にも貴重な城となっています(日本100名城の一つでもあります)。しかし、関ヶ原の合戦後に取り壊され、藩主の真田信之公も松代へ移封となりました。現代の城は、仙石忠政が江戸時代に再建築城したもので、近世後半には松平氏の居城となりました。
明治になり、廃藩置県で廃城となった上田城の土地・建物は民間へ払い下げられ、本丸にあった7棟の櫓は、西櫓を残して解体・売却されました。その後、売却された内の2棟の櫓は、市民の運動によって買い戻され、1949年に現在の北櫓と南櫓の場所に移築復元されました。
上田城跡公園内には「上田市立博物館」や「真田神社」などもあり、城跡とあわせて歴史的な観光スポットとして楽しむことができます。城下町は江戸期には中山道と日本海を結ぶ「北国街道」の宿場でもあり、こちらも観光地になっています。
4月上旬には「上田城千本桜まつり」、4月下旬には「上田真田まつり」、10月下旬~11月上旬には「上田城紅葉まつり」が行われます。上田城跡公園のライトアップは「日本夜景遺産」にも認定されていますので、ライトアップの時期の近隣に宿泊する場合、夜間に訪れてみてもいいでしょう。
「上田城」へのアクセス
住所は「長野県上田市二の丸2」です。
公共交通機関を利用する場合、電車では「JR上田駅」「しなの鉄道上田駅」「上田電鉄別所線上田駅」から徒歩で12分ほどです。
また、自動車で訪問する場合は「上田城跡北観光駐車場」と「上田城跡駐車場」がありますが、料金は駐車場と利用時間帯、イベントの有無などで異なります。このほか、バス専用の「上田城跡南駐車場」もあります。
「上田城跡公園」を実際に観光してみた(所要時間3時間ほど)
8:10頃、上田城跡公園の駐車場に到着。
主な観光施設である「上田市立博物館」と「上田城櫓」の営業時間は9:00からですが、公園自体はいつでも入れますので、神社や本丸跡などを見学することは可能です。
こちらは上田城跡公園の案内図です。
公園全体としては、野球場、陸上競技場、相撲場、弓道場、テニスコート、体育館と、スポーツ系の施設の敷地面積が大きいのですが、そもそも公園の面積自体がかなり大規模ですので、史跡部分だけでも長時間楽しめます。
尼ヶ淵(駐車場)
上田城の南の崖下が「尼ヶ淵」です。
かつては、城の近くまで千曲川の緩やかで深い分流が通っており、天然の堀として機能していました。
現在は崖の下は芝生広場となっており、そこに隣接するように駐車場があります(先の案内看板があったのが駐車場)。
こちらは、芝生広場から上田城の南櫓を見上げた場所。記念撮影のパネルだけでなく、地元の方向けと思われる運動設備もありました。
ちなみに、尼ヶ淵の崖は崩れやすい性質なので、築城から長く保護対策が行われ、大規模な石垣が設置されるようになったそうです。
こちらは、崖の下にあった「流転の浅間台溶岩」。浅間山の大噴火で東御市(上田城の南東)まで流され、その後に水害で流されるなどし、1959年(昭和34年)に上田駅前広場の一角に運ばれ、更に駅の再開発に伴って2002年(平成14年)に上田城跡公園に移設されたそうです。
上田城跡公園全体
上田城跡公園の細かな史跡については、簡単に説明していきます。上田城訪問前に、城としての詳細な見どころを確認したい場合、観光ガイドなどを確認することをおすすめします。
こちらは本丸跡の中央あたりにあった「戊辰役上田藩従軍記念碑」。あまり詳細な解説などは現地では見つかりませんでした。
上田藩は、戊辰戦争で新政府側について、「会津戦争」や「北越戦争」で戦いましたので、その際の従軍記念の石碑なのだと思います。
ちなみに、本丸の周辺の堀には現在も水がたたえられており、鬼門にあたる北東(丑寅)の方角は、土塁の隅を切り込むことで「鬼門よけ」とした「隅おとし」が見られます。
こちらは、二の丸(東側)の小高くなっている場所に設置されていた「平和の鐘」。すぐ横が「二の丸堀跡」となっており、そこも階段で下って散策することができます。
平和の鐘は、江戸時代には時の鐘として上田城下の住人に親しまれていたそうです。1925年(大正14年)に鐘の役目がサイレンに変わり、場所を転々とするようになって、1934年(昭和9年)に上田城跡に設置されました。多くの鐘と同様、第二次世界大戦にともなって供出されてしまい、一度は鐘楼のみの状態となりましたが、1972年(昭和47年)に上田自治会連合会によって復元運動が行われ、現在に至るそうです。
こちらは公園内の風景(二の丸)。庭園としても美しいです。
こちらは、上田市で生まれた「山極勝三郎博士の石碑」。
「山極勝三郎とは何者?」と思って調べたところ、世界ではじめて化学物質による人工癌の発生に成功した人物で、1925年、1926年、1928年と没後の1936年の4度、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされました。
1926年、同様の研究で成果を上げたとされていたフィビゲルと山極がノーベル賞候補となり、両者にノーベル賞を与える意見もありましたが、ワールブルク(1931年受賞)の方が将来の癌研究には重要であるという立場から、「そもそもフィビゲルと山極がノーベル賞に値しない」とする意見が出たため、最終的には山極より先にアイデアを持っていたフィビゲルのみがノーベル賞を受賞しました。
しかし、1952年にフィビゲルの観察した病変は癌ではないことが証明され、現在の人口癌における癌研究は、山極の業績の影響が大きい状態となっています。そういった事情から「幻のノーベル賞」として有名になっている人物です(ちなみに、日本人初のノーベル賞が1949年の湯川秀樹さんなので、その20年以上前に受賞があり得たことになります)。
こちらは、上田城跡公園内にある「旧上田市民会館跡」です。
巨大な施設なので、現在も利用されているのかと思ったら、2014年12月26日には閉館しており、2016年1月17日~2017年1月15日の間だけ「信州上田 真田丸 大河ドラマ館」として利用されていたそうです。
2018年の上田市教育委員会方針では「2020年度以降に解体」となっていたそうですが、コロナの影響なのか、物価高の影響なのか、私が訪れた2023年10月時点では、解体が進んでいるようには見受けられませんでした。
上の写真は、旧上田市民会館跡の入り口付近。これ以上は接近しないよう案内看板がありました。現在も、「信州上田おもてなし武将隊」の演舞がエントランスなどで披露されることがあるそうなので、イベントの際は開放されるかと思います。
こちは「信州上田おもてなし武将隊」の案内看板。残念ながら、武将隊は名古屋まつりへ遠征していたため、見学できませんでした。
ちなみに、出陣スケジュールは公式HPに記載されていました。雨天などで中止の可能性はありますが、興味がある方は事前にチェックしておきましょう。
上田城の資料の懸賞金の案内もありました。なんと総額500万円。ちなみに、看板の後ろ側は、「武者溜り」の整備に向けた発掘調査が行われていました。
眞田神社
眞田神社は、上田城本丸跡にある神社です。
神社の始まりは明治時代、上田城が民間に払い下げられた際、旧上田藩士・旧領内有志により松平家の先祖(初代忠山公、二代忠昭公、三代忠周公)を祀る神社を建立しようとする運動が起こされ、神社の建立に至りました。そのためもともとは、松平家の先祖を祀る神社で、松平神社と呼ばれていました。
第二次大戦後には、上田城を築いた真田氏や、その後をうけて上田藩政を発展させ、上田城の復興にもあたった仙石氏も合わせてお祀りするべきではないかという声が上がり始め、1953年(昭和28年)に、真田氏・仙石氏・松平氏の歴代全城主を合祀し、松平神社から上田神社と改称。更に、市内にある同名の神社と名前が混同されて紛らわしいということから、1963年(昭和38年)、眞田神社に改称されました。
こちらは、眞田神社を「東虎口櫓門」から撮影したもの。神社そのものはそれほど大きい物ではありませんが、見どころは多い神社です。
こちらは眞田神社の手水舎。特別な日ではなかったかと思いますが、美しく飾り付けられていました。案内の記載によると、花はマリーゴールドとトルコキキョウ、緑色の観は風船唐綿です。
こちらは「眞田赤備え兜」。武具を赤で統一した装いは「真田赤備え」と呼ばれ、中でも真田幸村が被った鹿角型の兜が「赤備え兜」と呼ばれるそうです。
この兜の下に箱のようなものがあります。この箱の中には、倒木の恐れのため切られた樹齢450年ほどのご神木が、切り株となって守られています。
こちらは、眞田神社にあった「登竜門」。眞田神社は、二度の徳川の攻撃で落ちなかったことから「不落城」とも呼ばれ、そのため受験や心願成就のために参拝される方も多いそうです。
ちなみに、こちらの登竜門は過去情報では期間限定の設置となっており、毎年10月頃~3月頃の設置となっているようです。合格祈願などで訪れたい場合は、その年の設置時期を確認しておくといいでしょう。
こちらは眞田神社の拝殿です(右側は御朱印所)。珍しく、電子マネー決済OKの神社になっていました。
拝殿横には、地元の高校の創立60周年記念で奉納された絵馬も飾られていました。こういう、地元らしいものがあると、神社がちゃんと地元の人に親しまれてるんだなあと感じます。
こちらは、真田幸村の青年時代の像。初陣とされる第一次上田合戦(1585年)頃をイメージしたものです。後ろにあるのは西櫓。
これは「真田井戸」と呼ばれるもので、この井戸に抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦に通じていました。抜け穴があったおかげで、城兵の出入りや兵糧の運び入れが可能だったそうです。
こちらは伊勢神宮の遥拝所。遥拝所とは、遠く離れた場所から、特定の神仏などを拝むために設置される場所です。ちなみに、伊勢神宮内宮までの距離は256399.839mと書かれていました。
ここは「願い玉」の納め所。後ろに見えるのは本殿です。
ここに願い玉を入れると、願い玉が本殿の下をくぐることで神の力を得て、願い玉が手元に戻ってきます(初穂料800円)。
ちなみに、神輿の渡御(神輿の隊列が氏子各町を行進する祭事)で、神輿の下をくぐり抜けると神様の加護を得られるという慣わしが、願い玉の元になっているそうです。
上田城の本丸西櫓
眞田神社の境内を西の端へ向かうと、上田城の本丸西櫓があります。
こちらが本丸西櫓。元は本丸には7棟の櫓がありました。その中で、唯一建築当初の部材を残し、ほぼ当時の外観のままで残っているのが西櫓です。南櫓と北櫓は内部の観光が可能ですが、こちらは観光では中に入れないようになっています(昭和4年頃は「徴古館」という名前で、内部で資料展示が行われていたそうです)。
こちらは、西櫓前から崖の下(尼が淵)を見下ろしたところ。元は崖の近くまで川が迫っていたそうなので、かなり攻めるのは難しかったのがうかがえます。
こちらは、崖の下にある芝生広場から西櫓を見上げた写真。川を越え、更にこの崖をのぼって戦うとなると、やはり厳しそうです。
上田城櫓(南櫓・東虎口櫓門・北櫓)
上田城の「南櫓」「北櫓」は一度民間に売却されましたが、市民の運動によって買い戻され、1949年に現在の場所に移築復元されました。
「南櫓」と「北櫓」の間にある「東虎口櫓門」も含めて、現在は有料で観光できる施設になっています。
こちらは「東虎口櫓門」を東側から撮影したもの。左側にあるのが「南櫓」、門を抜けて正面に「眞田神社」があります。
また、門の前の右側の石垣には「真田石」と呼ばれる巨石があります。当時、城主はその権威を示すため、石の大きさを競ったそうです。
こちらは、先ほどの写真を撮影した場所から、崖の下(左側)を見下ろした場所にある土止めです。
昔から空堀だったのかは確認できませんでしたが、昔は千曲川が近くまで迫っていたはずですので、やはり攻めにくい構造だとは思います。
ちなみに、崖下にある芝生広場から見るとこんな感じ。右が南櫓、左奥に見えるのが西櫓です。
先ほどの「東虎口櫓門」を抜け、西側から撮影するとこんな感じ。左側に見えるのが「北櫓」です。
先ほどの写真の右手に「上田城櫓(上田城櫓(南櫓・東虎口櫓門・北櫓)」に入るための階段があります。
こちらは、櫓内にあった鉄砲狭間。上田城櫓では、こういった防衛施設としての構造が色々とみられます。
こちらは、火縄銃が保管されていた木箱です。櫓には、武器庫としての役割もあり、こういった武器の保管もされていたと考えられます。
火縄銃を持って、籠城戦気分を味わえるコーナーもありました。記念撮影にも使えるスポットです。
で、火縄銃を櫓から構え、記念撮影してみた結果がこちら。近隣の園児を狙うヤバイ人の写真になりました……。
上田市立博物館
上田市立博物館は、上田地域の歴史・民族・自然史料などが展示されている博物館です。
ちなみに、上田城の博物館の歴史としては、
- 1929年(昭和4年):西櫓が「徴古館」として開館
- 1965年(昭和40年):現在の本館が開館
- 2016年(平成28年):旧山本鼎記念館が回収されて別館として開館
となっています。別館では、地質学的な自然史料や、眞田氏に関する展示が行われていました。
ちなみに、写真撮影は、部屋や展示物によって可・不可が異なります。
こちらは、仙谷秀久所用の「紺糸威二枚胴具足」。
兜のデザインが特徴的で、縁起物であるシダの葉を脇立てにしたものです(個人的には、蛾の触角に見える)。また、中央部分は縄で束ねた藁を象ったものらしく、豊穣の象徴だそうです。ちなみに、鎧の関係は写真撮影OKがけっこう多かったです。
こちらは松平忠周所要の鉄黒漆塗横矧五枚胴具足です。
上の写真の通り、胴が二か所窪んでいます。強度の証明の為に鉄砲を試し打ちしたとの説もありますが、凹みがきれいであることから、鏨で打って付けた凹みの可能性もあるそうです。
こちらは別館の一階の展示。ここでは、地質学的な展示が行われており、古生物の時代からの上田の歴史が展示されていました。
別館にあった日本遺産のポスター。上田城跡公園は含まれていませんでしたが、信濃国分寺から生島足島神社、別所温泉を通るレイラインを中心として、信州上田と塩田平は日本遺産に登録されています。
別館二階は、映像もついて真田などの歴史などが色々と展示されていました。写真撮影は不可でしたので、ここには掲載しません。
上田藩主屋敷門と堀跡(上田城跡公園外)
最後に、上田城跡公園から出て、近隣にある「長野県上田高等学校」の門と堀を見てきました。
上田高校は、上田藩主居館跡に立っており、その正門は上田藩主屋敷門が使われ、東側には現在も堀が残っています。
門は1789年消失後、翌年再建されたもので、藩邸時代には通常は左右の潜戸のみが使用され、中央の大扉は城主のみが通行できました。
現在は逆で、中央の扉が通常の出入り口となっており、左側の潜戸に至っては構造上開くことができないそうです。
こちらは、長野県上田高等学校に残された堀を撮影したもの。種類はわかりませんが、亀が泳いでいました。
「上田城跡公園」周辺の観光スポット
上田城跡公園も長時間楽しめる観光スポットではありますが、その周辺にも多くの史跡が残されています。真田氏と縁のある「大輪寺」「海禅寺」などの寺院や、北国街道の「柳町」などを訪れてみてもいいでしょう。
また、上田市は日本遺産の「レイラインがつなぐ『太陽と大地の聖地』」の地でもあります。日本で唯一の木造八角塔である「安楽寺八角三重塔」や、善光寺とあわせて両参りとなる「北向観音」、夏至の朝に太陽が東鳥居の真ん中を通る構造を持つ「生島足島神社」など、有名な観光スポットが日本遺産として登録されています。