妻籠宿の観光情報と、実際に観光した感想
この記事では「妻籠宿の概要と、実際に妻籠宿を訪れた際の感想」を中心にまとめます。
「江戸時代頃の町並みを楽しみたい方」「木曽路十一宿を観光予定の方」などの参考になれば嬉しいです。
「妻籠宿」の観光情報
- 営業時間:いつでも入れます(主な施設である妻籠宿本陣・脇本陣奥谷・歴史資料館は9:00~17:00営業で、最終入館は16:45)
- 定休日:なし(主な施設は年末年始(12月29日~1月1日)はお休み。ただし、2023年11月1日より、期限未定で妻籠宿本陣は平日休館中)
- 見学料金:なし(主な施設である「脇本陣奥谷・歴史資料館」は大人600円、子供300円。「妻籠宿本陣」は大人300円、子供150円 。3館共通券は700円)
- 所要時間:どれだけ建物に入るかで大きく異なります。私は中央駐車場~鯉岩までを往復し(若干脇道も入った)、妻籠宿本陣・脇本陣奥谷・歴史資料館を見学して2時間30ほど。
- 備考:2023年11月1日より、妻籠宿本陣は期限未定で平日休館です。平日に観光予定の場合は、最新の情報をチェックしましょう。
※詳細は変更の可能性もあるため、訪問前には公式HPなどの情報をご確認ください
「妻籠宿」とは?
妻籠宿とは、簡単に言えば「現在の南木曽町にあたる中山道の宿場で、400年前の町並みが残されている伝統的な町の一つ」です。
中山道と飯田街道の分岐点に位置する交通の要衝として栄えた宿場で、1843年時点では、妻籠宿には身分が高い人が泊まる「本陣」、それに次ぐ「脇本陣」、更に旅籠31軒があり、宿内人口は418人だったと記録されています。しかし、明治から、鉄道や道路網が整えられるとともに宿場としの機能は失われ、町は衰退していきました。
その後、過疎問題も深刻化する中、明治百年記念事業として、1968~1970年にかけて妻籠宿の寺下地区で全国でも初となる集落保存が行われ、町並みが修復されるとともに観光客が増えた事から、観光関連施設の整備が行われていきました。1973年、当時としては先進的な町並みの保存条例が制定された事もあり、全国的に失われ始めていた古い町並みが現代にも残されることとなり観光地として繁栄。2016年には『木曽路はすべて山の中〜山を守り山に生きる〜』の構成資産として、日本遺産にも登録されました。
観光施設としては「本陣」「脇本陣」「歴史資料館」が主なみどころ。その他「枡形の跡」や「高札場跡」などの街道そのものが見どころになっており、郵便局内にある「郵便資料館」では、郵便制度初期の資料も見られます。
現在も、時代を感じさせる宿泊施設があり(詳細はこちら)、隣の宿場まで歩いて移動する事も可能です。お値段も大人一人1万円前後と比較的安い宿もありますので、長時間とれるのであれば、中山道の宿場巡りを徒歩で行ってみてもいいでしょう。
「妻籠宿」へのアクセス
住所は「長野県木曽郡南木曽町吾妻」です。
公共交通機関では、最寄り駅であるJR東海の「南木曽駅」からバスで10分ほど。バスは保神線と馬籠線があるのですが、どちらも1日5本で、時間帯が被るタイミングもある為、1時間に1本未満と思った方がいいでしょう(詳細はこちら)。ちなみに、駅から徒歩40分ほどなので、足腰に自信がある人は、時間帯によっては徒歩の方が効率的です。
自動車の場合は中津川インターから30分ほど。駐車場は周囲に4カ所あり、どこも乗用車で1日500円。単車で1日200円でした。
この他、東京(新宿)や大阪(梅田)からであれば高速バスが出ていて、どちらも移動時間は5時間5分ほどの想定です。
「妻籠宿」を実際に観光してみた(所要時間2時間30分ほど)
妻籠宿の町並み
9:40頃に中央駐車場に到着。現地には、所々に上の写真のような案内図があります。中央駐車場は妻籠宿の町並みの南端の方にあります。
駐車場から川を渡ると、直ぐにタイムスリップしたように宿場町に入り込みます。地面はちょっと現代的ですが、この辺りはバリアフリーの関係でしょうか(馬籠宿との間にある山道には、石畳の部分もあります)。
江戸時代と言われてもおかしくないような宿場の町並み。しかも、現在でも宿泊できる施設が多数あります(しかも、1泊1万円程度で!)。
町並みの北の方にあった水車。中山道の他の古い町並みでも、水車を度々みかけました。私の友人の奥さんが、妻籠宿の徒歩圏内に住んでいるのですが、どうも宿場と関係ない部分にも残されてるらしいです(現役?)。
よく見ると、明かに近代的な服のお店もありました。それでいて、デザインはよくみると和風のものも。
こちら、恐らく妻籠宿を紹介する写真でよく出てくる木のある通りなのですが、残念ながら工事のためにカバーで覆われていました。
上嵯峨屋
通りを歩いているだけでも、住宅の中が公開されている場所を見学できます。
こちらは有形文化財に指定されている「上嵯峨屋」。江戸時代中期の建物と推定されていて、庶民向けの旅籠らしいです。すぐ隣には、馬屋跡もありました。
下嵯峨屋
こちらも有形文化財に指定されている「下嵯峨屋」。建造当初の長屋であったものの一戸分が、1968年に解体復原されたもので、庶民の住居としての形式(片土間に並列二間取)が残っています。
妻籠郵便局(郵便資料館)
こちらは「妻籠郵便局」で、建物内には郵便制度初期の資料が展示されている「郵便資料館」もあります。入場料無料で、それほど見学時間もかからないので、余裕があれば見学しておきましょう。
人馬会所
こちらは「人馬会所」です。人馬会所とは、公用の旅客に人馬を提供する場所で、こういった公用の旅客をサポートする事も、宿場の仕事の一つだったそうです。当時、人馬会所は本陣と脇本陣にあり(写真は本陣前)、半月交代での勤務が行われていました。
高札場
こちらは、北の端の方にある高札場。幕府や領主が決めたルールの掲示板です。他の宿場でも、町の端の方(恐らく、実質的に町の入口)に高札場が見受けられることが多いです。ちなみに、これは町並みの一部として復元されたもので、オリジナルは南木曽町博物館に収蔵されています。
口留番所跡
こちらは高札場の更に先にある「口留番所跡」。中山道を行く人を監視していた場所です。ここは、完全に跡地となっていて建物はありません。史料では、少なくとも17世紀中期頃までは口留番所があったそうです。
鯉岩(鯉ヶ岩)
口留番所跡を更に北に進むと「鯉岩」があります。ここが妻籠宿の観光地としては北の端になります。写真ではわかりにくいですが、かなり大きな岩で、しかも段差の上にあるので、落ちてきたらと思うと恐いレベルです。
伝説では、木曽義仲の子孫である義昌が砦を作っていた際、この岩の近くで部下が恋物語を囁いたという話があり、それがもとになって「恋野」の地名が妻籠に現在も残っているそうです(出典は信濃道中記)。
案内看板では、その伝説と岩に直接関係があるようには記載されていませんでしたが、恋野にあるこの鯉岩は、元は鯉の形をした巨岩だったそうです。しかし、1891年(明治24年)の大震災で形が変わってしまったとのこと。近くにある烏帽子岩(吾妻橋地区)兜岩(神戸地区)と共に「三大岩」として知られていたそうです。
ちなみに、先の伝説で出てきた木曽義昌は、近くにある妻籠城の城主でした。木曽氏は甲斐の武田氏に従っていましたが、妻籠城改築が行われた1582年に織田氏に寝返り、同年大軍が武田氏の甲斐へ攻め寄せ、武田氏は滅亡しました。この辺りは直前で訪れた高遠城での武田氏と織田氏の戦い(1582年)と関連していたので、旅先の歴史を調べると面白いなあと改めて感じました。
「脇本陣奥谷」と「歴史資料館」
妻籠宿の主なみどころである「脇本陣奥谷」と「歴史資料館」は敷地内でつながっており、入場券は共通になっています。
入口は「脇本陣奥谷」側。出口は「歴史資料館」側になります。
ちなみに、脇本陣とは、簡単に言えば身分の高い人が宿泊する「本陣」の次に高い格を持った宿で、「奥谷」はその屋号です。脇本陣の林家では酒造業なども行っていたため、江戸後期には脇本陣が本陣を凌ぐほどに栄えていました(一方、江戸末期には本陣は衰退していた)。そんな事もあって、1880年の明治天皇巡幸の際は、この脇本陣の建物を明治天皇が利用されました。現在は内部が有料で公開されており、ガイドの方が歴史や建物の見どころを無料で紹介してくれました。
こちらは、脇本陣奥谷の中。湿気や虫対策などの管理のため、現在でも囲炉裏で薪を燃やして建物を燻しています。これのおかげで、窓から差し込む斜光が美しく、撮影スポットにもなっています。ちなみに、建物の木材の滑らかな黒の色合いは、燻した際の煤が付着し、それを拭き掃除するなかで作られていきます。
脇本陣に入る斜光。上の写真は10月中旬ごろに撮影したもので時間帯は11時頃。当然ですが、時間帯によって光の差し込む向きが変わってきます。
こちらは脇本陣内にあった雪見窓。中央の窓だけ破損することなく初期に作られた窓が残っているため、外が若干歪んで見えます。現在の窓の製造技術では、逆にこの歪みは作れないそうです。
建物の出口付近では、脇本陣の酒造業としての展示が行われていました。江戸時代、普段は身分が高い人は本陣を利用し、本陣が使えない時の予備として脇本陣は空けておくようにしていました。そのため、日頃の収入として脇本陣は副業が許されており、酒造業として収益を上げていました。
ちなみに、本陣は宿としての機能に特化していたこともあって、宿場として利用されなくなるとともに衰退し、明治になって取り壊されました。一方、宿場以外の事情での収入もあったおかげで、古い建物が残り続けています。
脇本陣の出口前に案内図がありました。一度建物の外に出て、歴史資料館に向かうルートなのですが、実は途中に「脇本陣奥谷資料室」があります(写真の右上にある空白の四角です)。
建物からでて直ぐの風景。やはり歴史を感じさせます。正面にあるのが脇本陣奥谷資料室です。
脇本陣奥谷資料室は「妻籠宿の資料」というよりも、脇本陣の「林家」に残されていた資料が、二階建ての蔵の中で展示されている感じです。
歴史資料館は2階建てで、妻籠宿全体の歴史に関する展示が行われています。
展示は、宿場としてのものだけでなく、先土器時代から行われていました。
こちらは和宮から拝領した車付長持。1861年、公武合体の象徴として和宮が徳川家重と結婚する際、和宮が妻籠宿で昼食を取り、三留野宿に宿泊しましたが、その際に脇本陣の林家が、この車付長持を拝領しました。「たとえ車付きとはいえ、この先の峻険な木曽路を思って置いていったものでしょうか」と説明がありましたが、現代で「不便だから置いてく」なんてやったら、だいぶ炎上する気が……。
2階には「南木曾」と「妻籠」を解説する動画を観られるスペースもありました。ただ、5~7分の動画が最低でも14本あり、全部観ようとすると60分以上はかかるので、諦めて退館しました(これを全部見てたら、滞在時間が3時間30分超えたと思う)。
妻籠宿本陣
妻籠宿本陣は、作家である島崎藤村の母の生家でもあります。最後の当主は馬籠から伯父の所へ養子に来ていた藤村の実兄、広介でした(なお、馬籠の本陣は藤村の生家)。宿場としての機能が失われるなかで衰退の一途を辿り、明治に取り壊されましたが、1995年に島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに復元されました。有料で内部見学ができ、入場料は「脇本陣と歴史資料館」とのセットにすると安くなります。
ちなみに、2023年11月1日から期限未定で平日は休館になっています。観光予定の場合は最新情報を確認して、開館日を狙って訪問するといいでしょう。
こちらは本陣の入口にある門。平日の休館日でも、この門は開いているので、外観は見られるそうです。
当時を再現した本陣内の炊事場。釜や調理用の道具が見られます。
妻籠宿本陣の中入口辺りから撮影した建物内。靴を脱いで、写真左側辺りから入ります。
本陣内は、とくに入場の受付や、ガイドの方などのスタッフもおらず、一人で住宅内を歩きながら展示を見ていく感じでした。広い邸宅なので、歴史的な学習だけでなく、ちょっとした探検気分も味わえます。
ちなみに、建物内に何枚も注意の紙が貼ってありますが、カメムシが勝手に入り込んでいることが多いらしく(少なくとも10月頃は)、足元には注意が必要です。
「妻籠宿」周辺の観光スポット
妻籠宿は交通の便もそれほどよくない山の中にあるため「周辺」と言えそうな観光スポットは限られています。
徒歩での移動となると、「中山道」を辿ること自体がある種の観光と言えますが、わかりやすい「観光地」が近くにあるわけでは無いため、あくまでハイキングをしながら、小さな史跡を楽しみつつ、次の宿場へと向かう形になります。
妻籠宿を含む「木曽路十一宿」を巡るのであれば、北側が「三留野宿」で南側が「馬籠宿」です。観光地としては「馬籠宿」の方が充実しているので、旅先としては「馬籠宿」がおすすめです(というか、三留野宿は度重なる大火に見舞われたためか、あまり古い町並みが残っていない)。
ちなみに「木曽路十一宿」でも町並みが残された有名な観光地は、北から「奈良井宿」「福島宿」「妻籠宿」「馬籠宿」の4カ所になります。