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【桜の名所】高遠城址公園の観光情報と、実際に観光した感想

12月 1, 2023長野旅行【国内】公園・庭園,【国内】城郭

この記事では「高遠城址公園の概要と、実際に高遠城址公園を訪れた際の感想を中心にまとめます

「城跡に興味がある方」「伊那市周辺を観光予定の方」などの参考になれば嬉しいです。

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「高遠城址公園」の観光情報

観光情報

  • 開館時間:自由(桜のシーズンは8:00~19:00頃時(時期により変化の可能性あり))
  • 定休日:無休(周辺施設は月曜休みが多い)
  • 見学料金:無料(3月下旬~4月上旬の桜のシーズンは大人500円でした。もみじ祭りは2023年時点では無料)
  • 所要時間:公園の見学だけなら30~60分ほど。私は公園と『進徳館』だけ見学して60分
  • その他:さくら祭りが有名で、この時期のみ入園時間や入場料の制限がかかります。もみじ祭りも同様にイベントがありますが、2023年時点では入場料無料でした。

※詳細は変更の可能性もあるため、訪問前には公式HPなどの情報をご確認ください

「高遠城址公園」とは?

高遠城址公園とは、簡単に言えば「伊那市にある日本百名城にも数えられる城跡で、桜の名所にもなっている公園」です。

諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていましたが、1545年の高遠合戦で武田方に攻め込まれて落城。それから武田氏により改修され、信濃進出の拠点とされました。1581年には武田信玄の五男である仁科五郎盛信が城主となりましたが、翌1582年、織田信長による武田攻め(甲州征伐)で、織田信忠の大軍に攻め込まれて落城し、盛信や兄弟は戦死。今度は、高遠城は織田勢の甲斐侵攻の拠点となり、武田氏は滅亡しました。

江戸時代からは高遠藩の藩庁として利用され、城主は京極氏保科氏鳥居氏が交代しましたが、1691年からは内藤氏8代の居城となり、明治になって1872年に城が取り壊され、1875年から公園となり、1973年には国の史跡に指定され、2006年には日本百名城の一つに選ばれました。

城の取り壊し後、一時は荒れた土地となりましたが、高遠藩の旧藩士が「馬場」から桜を移植し、これが始まりとなって、園内には130年生以上の古木が20本、50年生以上のものが約500本、更に若木を加えて約1,500本のコヒガンザクラ植わっており、更に約250本のカエデが育っています

そういった背景もあり高遠城址公園は『さくら祭り』でも有名なスポットで、3月下旬~4月上旬頃は出店なども出て、夜はライトアップも行われます(「吉野山」「弘前公園」と並んで、日本三大桜名所と称されることもあります)。また、10月下旬~11月上旬頃は『もみじ祭り』が行われ、2023年は「新そば祭り」や「歴史ショー(武田・織田軍の決戦を再現したもの)」などのイベントが行われました。

    「高遠城址公園」へのアクセス

    住所は「長野県伊那市高遠町西高遠810-1」です。

    公共交通機関では「JR伊那市駅」から徒歩3分で伊那バスターミナルまで移動し、「JRバス高遠線」でバス停の「高遠駅」で下車。そこから徒歩20分ほどと、行くことは可能ですが、少し不便ではあります。

    自動車の場合、中央道伊那ICから国道361号経由だと30分、中央道小黒川スマートICからだと25分、中央道諏訪ICから国道152号線経由だと50分ほどです。

    ちなみに、桜のシーズンであればバスツアーも多いです。自動車が運転できないけど楽に移動したい場合は、ツアーを検討してもいいでしょう。

    「高遠城址公園」と「進徳館」を実際に観光してみた(所要時間60分ほど)

    高遠城址公園

    今回「さくら祭り」でも「もみじ祭り」でもなく、その上、周辺施設が定休日だらけの月曜日というあまり観光向きでないタイミングでしたが、近くを通過する機会がありましたので「高遠城址公園」を訪れてみました。

    高遠城址公園の駐車場にあった看板
    高遠城址公園の駐車場にあった看板

    「高遠城」は日本百名城にも数えられています。ちなみに、番号は30番で、百名城スタンプの設置場所は高遠城址公園ではなく「伊那市立高遠町歴史博物館」です。私は博物館まで訪れていませんが、建物の外にスタンプがあるので、閉館時もスタンプは貰えるそうです(開館時は御城印も貰えるらしい)。

    高遠城址公園の駐車場にあった看板。普段は無料らしい。
    高遠城址公園の駐車場にあった看板。普段は無料らしい。

    私が訪れた際は、入園料・駐車料金は無料でした。さくら祭りのシーズンは有料になります。

    高遠城址公園と周辺の案内図
    高遠城址公園と周辺の案内図

    こちらは園内にあった案内図。場所は北ゲート付近の「高遠閣」前あたりです。

    『さくら名所100選の地』の看板
    『さくら名所100選の地』の石碑。登録は平成2年3月3日

    看板の近くには「さくら名所100選の地」の石碑もありました。どう選ばれたのかはわかりませんが「日本三大桜名所」にも数えられているみたいです(残りは「吉野山」「弘前公園」です)。

    高遠閣(登録有形文化財)
    高遠閣(登録有形文化財)。月曜は休館日でした。

    こちらは「高遠閣」。町民の集会や観光客向けに建てられ、1936年に完成しました。珍しい昭和初期から残る大規模な建築物として、国の登録有形文化財にも指定されており、遠方からも眺められる高遠城址公園のシンボルとなっています(さくら祭りなどの遠景の写真で、赤い屋根が見られます)。

    高遠閣に入館する方法については情報が確認できなかったため、基本的に現在は入館不可なのかと思われます。ただ「さくら祭り」の際に一階が解放されていたという情報もネットで見かけました。

    二ノ丸跡
    二ノ丸跡。高遠閣の正面左側あたりです。

    上の写真は、二ノ丸跡です。外周部分は堀によって防備が固められていました。この場所の利用方法は時代によって変化するものの、役所向けの建物が多かったそうです。

    『天下第一櫻』の石碑
    二ノ丸跡にあった『天下第一の櫻碑』

    こちらは二ノ丸にあった『天下第一の櫻碑。1934年に、高遠出身の医師、内田孝蔵が建てたものだそうです。

    桜雲橋
    桜雲橋。桜のシーズンなら、橋の上も下も桜の花の雲に囲まれた感じだろうか。

    二ノ丸の周辺は堀に囲われているため、本丸への移動は橋を使います。上の写真は本丸へとつながる『桜雲橋』です。桜の季節なら、堀の上下で桜の花に囲まれた絶景ポイントなのかなと思います。

    高遠城にある堀
    高遠城にある堀。高遠城は堀が多く残されている。なお、撮影場所は桜雲橋とは別です。

    ちなみに、堀はこんな感じ(撮影場所は桜雲橋とは別)。高頭城址公園には多くの堀が残されており、城としての防衛機能を窺えます。

    問屋門
    桜雲橋を渡った先にある『問屋門』。この奥が本丸跡になっている。

    桜雲橋を渡った先、本丸前にある門が『問屋門』です。元は高遠城下の本町の問屋役所にあったそうですが、建物取り壊しの際に売却され、それを有志が買い戻して現在の場所に移築したそうです。

    本丸跡
    本丸跡。周囲には「太鼓櫓」や「新城神社・藤原神社」があり、桜の古木もみられる。

    こちらは本丸跡1582年からの織田信長による武田攻めで、織田信忠率いる5万3千の大軍に攻め込まれた際、城主の二科盛信は3千の兵で戦い、この本丸で戦死しました。

    太鼓櫓
    太鼓櫓

    こちらは本丸跡にある『太鼓櫓』。江戸時代には、時を告げる太鼓をここで打っていたそうです。廃城後は、対岸にある白山に太鼓櫓が新設されましたが、それが1877年頃に現在の場所に移されたそうです。

    新城神社・藤原神社
    新城神社・藤原神社

    こちらも本丸跡にある『新城神社・藤原神社』です。1831年、七代藩主内藤頼寧よりやすが織田の大群に敗れた二科盛信の霊を「新城神」として祀りました。また、城内には以前から内藤家の氏神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったため、1879年にはこの神社を合祀して『新城神社・藤原神社』となりました。

    神社には、宝物として内藤家の甲冑などがありましたが、現在は高遠町歴史博物館に保管されています。

    南曲輪
    南曲輪。その名の通り、本丸跡の南側に位置する。

    本丸から土橋を渡り、南へ移動すると『南曲輪』。江戸時代前期の大名である保科正之が幼少時代過ごしていた場所です。

    招魂碑
    靖国招魂碑。南曲輪にある。

    こちらは、南曲輪にある『靖国招魂碑』。南曲輪は、1897年頃までは荒れ地になっていましたが、日清戦争の戦没者や満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的に、この石碑が建てられ、周辺の整えられました。また、脇にある『忠骨蔵』には、上伊那郡から日露戦争に出征し、戦死した方々の遺骨・遺品が納められています。

    白兎橋
    白兎橋。南曲輪と法幢院曲輪(ほうどういんぐるわ)を繋いでいる

    上の写真は南曲輪と法幢院曲輪を繋いでいる白兎橋名前の由来は、廣瀬治郎左衛門の俳号である「白兎(はくと)」です。彼は、公共事業に尽力し、文政の百姓一揆では、米蔵の中身を百姓に与えて、混乱を防ぎました。後に、彼のひ孫が法幢院曲輪を買い上げ、公園として寄付した際、南曲輪へと移動できるようこの橋を作り、曾祖父の俳号から名付けたそうです。

    法幢院曲輪
    法幢院曲輪

    こちらが、法幢院曲輪城郭の南端で、ここから東に馬場が続いていました。元は法幢院というお寺がありましたが、一般の人も参詣できるよう、寺は城の東へ移り、現在は桂泉院かいせんいんと改名されています。

    廣瀬奇壁と河東碧梧桐の句碑
    廣瀬奇壁と河東碧梧桐の句碑。写真は、表面なので廣瀬奇壁が詠んだもの。

    こちらは、法幢院曲輪にあった、廣瀬奇壁と河東碧梧桐の句碑。先ほど出てきた廣瀬治郎左衛門のひ孫である廣瀬省三郎(俳号は「奇壁」)の句と、省三郎と交流のあった河東碧梧桐の句が刻まれています。

    この法幢院曲輪側から、公園の外に出ると直ぐ近くに『信州高遠美術館』、少し歩けば『高遠町立歴史博物館』があります。

    高遠名物の看板
    高遠名物の看板

    公園の周辺には、高遠のご当地の飲食店もありました。ただ、月曜という観光に向いていない曜日であったためか、残念ながらどこもお休みでした。

    進徳館

    進徳館は、高遠城内に開設された藩校です。場所は、高遠城址公園の中では無いのですが、北ゲートから出て徒歩1~2分という距離です。

    今回、月曜日ということで周辺のほとんどの施設が定休日でしたが、ここは原則年中無休なので、中に入って見学してきました。ちなみに、入場料もありませんので、時間に余裕があれば足を運ぶことをおすすめします

    『進徳館』の石碑
    『進徳館』の石碑

    北ゲートから坂道を下ると、公園の反対側に「史蹟 進徳館」の文字が刻まれた石碑が建っています。公園の案内図にも場所が記載されていますので、意図して向かえば迷うことは無いと思います。

    『進徳館』の外観
    『進徳館』の外観

    進徳館は、高遠藩主の内藤頼直が1860年に創設した藩校です。和学、漢学、兵学、弓術、馬術、宗述、剣術、砲術、柔術、後には洋学と、幅広く講義が行われたそうです。旧進徳館の主要建物は八棟造りの平屋茅葺でしたが、1871年の廃藩置県とともに閉鎖され、1872年の高遠城の廃城とともに部分的に取り壊されました。現在は、前通りの東西の二棟と、玄関と表門が残されています。

    『進徳館』の裏側
    『進徳館』の裏側。こちら側からだと、建物の構造がよくわかります。

    建物周辺はぐるりと回ることができ、裏側にも展示がありました。また、裏側の方が建物の中の構造がよく見えます。

    案内放送のスイッチ
    案内放送のスイッチ

    建物などの歴史に関する案内の放送は、スイッチを押すと聞くことができます。利用時間は7:00~19:00までです。

    「高遠城址公園」周辺の観光情報

    高遠城址公園の案内図にも記載がありますが、高遠城址公園周辺にはいくつか観光施設があります。

    今回紹介した「進徳館」も、一応公園外の施設であり、公園の南ゲート(法幢院曲輪側)側には『信州高遠美術館』や『高遠町立歴史博物館』があります。

    信州高遠美術館の外観
    信州高遠美術館の外観

    また、高遠町立歴史博物館の付属施設という形で、すぐ隣には江島囲み屋敷』があります。ここは、大奥のスキャンダルでも有名な「江島生島事件」で、将軍の生母に仕えた女中の筆頭である江島が、高遠に流されてから生活していた屋敷を再現したものです。ちなみに、この江島生島事件では1400人が処罰されたとされ、密会を疑われた江島と生島の話は、現代にいたるまで物語の題材に使われ、有名になりました

    また、高遠町立歴史博物館の直ぐ南側が、ダム湖百選にも数えられる『高遠ダム』のある高遠湖の展望台になっています。時間があれば、ここの風景も楽しみたいところです。

    12月 1, 2023長野旅行【国内】公園・庭園,【国内】城郭