【歴史能力検定3級(日本史)】年表風WEBテキスト(近代)
この記事では、歴史能力検定3級(日本史)の大問4(近代)の知識を、年表風にしてまとめました(実質、自分の勉強ノートの大幅強化版です。間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです)。
WEBテキスト利用の注意点
利用上の注意点(デメリットなど)を以下にまとめました。できれば一読いただいた上でテキストをご利用ください。
近代(江戸末期~明治)の歴史能力検定3級(日本史)の知識
出来事・用語 | 年代 | 内容 |
文化の薪水給与令 | 1806年 | 11代将軍、徳川家斉の代。外国船に水・燃料などの給与を認め、穏便に出国してもらうことを狙った法令。19世紀以降、外国船が日本に来航し、通商を求めていたことから作られた。しかし、文化露寇(1806年)でロシア側から日本側の北方拠点を攻撃されたことから、翌年には撤回。1808年のフェートン号事件もあり、1825年には異国船打払令が発令された。 |
フェートン号事件 | 1808年 | 11代将軍、徳川家斉の代。長崎港に、当時オランダと敵対関係のイギリス軍艦フェートン号が侵し、オランダ商館員を人質に、薪、水、食料を要求した事件。当時、オランダはナポレオン戦争でフランスの属国となっていた。また、フランスとイギリスは対立し、イギリスは東アジア貿易の独占を狙っていた。この事件は1825年の異国船打払令の発令につながる。 |
ゴローニン事件 | 1811年 | 11代将軍、徳川家斉の代。ロシア軍艦艦長、ゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月の間、日本に抑留された事件。背景に、文化露寇(正式の入港許可証を持ち、1804年に通商を求めたレザノフが、日本に拒絶された為、1806年に日本へ独断の武力行使をした事件)と、その結果でロシア船内払令(1807年)が発令されたことがある。日本人との交換でゴローニンは釈放。後に、ゴローニンが記した『日本幽囚記』は、日本文化などが海外に広まるきっかけとなった。 |
大日本沿海輿地全図 | 1821年 | 11代将軍、徳川家斉の代。幕府の事業として伊能忠敬を中心に作られた日本全土の実測地図。当時、ロシア南下の脅威に備え、幕府は蝦夷地海岸線の防備を増強する必要があった。忠敬は幕府の許可を得て、蝦夷地域の測量を兼ね、更に往復の北関東・東北地方を測量し、子午線1度の測定を行った。幕府としては、ロシアを始めとした西洋の艦隊に対策するために利益があり、忠敬としては、緯度1度に相当する子午線弧長を正確に測定したいという目標があった。測量は最終的に第10回まで行われ、範囲は日本全土に至る。忠敬の死(1818年)後、弟子が作業を継続して完成。「大日本沿海実測録(全国の主要地点の地名や緯度を収録したもの)」と共に、幕府へ提出された。 |
異国船打払令 | 1825年 | 11代将軍、徳川家斉の代。当時貿易をしていたオランダ・清以外の外国船が、日本沿岸に来航した場合に砲撃することを命じた法令。文化露寇、フェートン号事件、大津浜事件、宝島事件など、外国船によるトラブルが連続していたことが背景にある。また、水戸の漁民が、欧米の捕鯨船と物々交換を行っていたため、そういった外国人との交流を断つ目的もあったとされる。後の「モリソン号事件」や「アヘン戦争」が影響し、1843年には「天保の薪水給与令」が発令された。 |
シーボルト事件 | 1828年 | 11代将軍、徳川家斉の代。幕府の天文方・書物奉行の高橋景保に、シーボルトが『世界周航記』を贈ったお返しに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った事件。当時、地図は禁制品であり、高橋景保含む十数名が処分され、景保は獄死した。シーボルトは国外追放処分となるが、日蘭修好通商条約(1858年)締結で追放は解除となる。1859年、シーボルトは長男アレクサンダーと共に来日し、幕府の外交顧問となった。 |
天保の大飢饉 | 1833-1839年 | 11代将軍、徳川家斉の代。江戸四大飢饉の一つ。春~夏頃に、西国以外の地域で冷害が発生し、東北・北関東で不作となり、大飢饉に至った。この飢饉が、大塩平八郎の乱の原因にもなった。 |
大塩平八郎の乱 | 1837年 | 11代将軍、徳川家斉の代。大阪町奉行所の元与力、大塩平八郎らが起こした反乱。1833年の天保の大飢饉で、多くの餓死者が発生する中、大塩は私財を売却し救済に当たっていた。しかしこれを奉行所は「売名行為」とし、更に大塩が奉行所に提出した救済案を却下。大坂町奉行は、大阪の米を徳川家慶の将軍就任の儀式のため江戸へ廻送した。更に豪商による米の買い占めも発生し、決起に至った。決起は直ぐに鎮圧されるも、元与力が反乱を起こしたことは多方面へ影響し、各地で一揆や打ちこわしが相次いだ(生田万の乱など)。 |
モリソン号事件 | 1837年 | 12代将軍、徳川家慶の代。日本の漂流民を乗せたアメリカのモリソン号が、イギリスの軍艦と勘違いされ、浦賀や薩摩で砲撃を受け、帰港した事件。浦賀の大砲は殆どモリソン号に届かず、防備の脆弱性が露わとなった。また、一年後にはモリソン号が日本人送還も目的としていたことが判明。この事も幕府への批判へつながった。批判は「蛮社の獄」のきっかけにもなり、また「天保の薪水給与令」へとつながり、鎖国終了へと向かった。 |
蛮社の獄 | 1839年 | 12代将軍、徳川家慶の代。モリソン号事件と江戸幕府の対外政策を批判したため、高野長英・渡辺崋山などが捕らえられ、罰を受けた言論弾圧事件。長英は匿名で『戊戌夢物語』を書き、崋山は『慎機論』を書いて、それぞれ幕府の鎖国政策・モリソン号事件を非難した。処罰した幕府側だが、モリソン号事件以降の批判と、アヘン戦争に影響され、1843年には「天保の薪水給与令」を発令した。 |
アヘン戦争 | 1840–1842年 | 12代将軍、徳川家慶の代。イギリスと清の間で起こった戦争。イギリスは清から紅茶を輸入し、貿易赤字が発生していた。そこでインドで栽培したアヘンを清に売るという三角貿易を始めた。これに対し、清がアヘンの取り締まりを行ったため、戦争が発生した。清は敗北し、イギリスと「南京条約」を結ぶ。日本が「異国船打払令」を解除するきっかけにもなった。 |
天保の改革 | 1841年 | 12代将軍、徳川家慶の代。享保の改革・寛政の改革と並ぶ、江戸の三大改革で、中心人物は老中の水野忠邦。当時、天保の大飢饉、大塩平八郎の乱、アヘン戦争、モリソン号事件などで、幕府が揺らいでいた。更に11代将軍、徳川家斉の大御所時代に幕府財政は破綻に向かっていた。忠邦は、その状況を改善する為、賄賂を取り締まる人事改革、農業重視の経済改革、外国船対策の軍事改革、風紀の取り締まりを行った。具体的には、人返し令、株仲間解散令、上知令、相対済令(享保の改革のものが有名)の公布などが行われた。芝居小屋の江戸郊外への移転、寄席の閉鎖、歌舞伎への弾圧など、庶民の娯楽にも影響が出た。 |
株仲間解散令 | 1841年 | 12代将軍、徳川家慶の代。水野忠邦の天保の改革の一環。享保期以来行われた株仲間を介した物価・流通の統制システムを解体し、商品流通の自由を保証した。また、市場の価格調査も行われ、価格表示や価格引き下げが強制的に実施された。問屋株仲間による流通の独占が、物価の騰貴につながっていると考えた幕府は、自由化によって物価を引き下げることを狙った。しかし、株仲間の解散では解決にならず、反対に流通の混乱につながったと当時は認識された。一方、近年は発令直後の市場は混乱したものの、長期的には規制緩和につながり、地方の商品が中央市場に多く流入することにつながったとも評価される。 |
上知令 | 1842年 | 12代将軍、徳川家慶の代。水野忠邦の天保の改革の一環。大名・旗本の持つ江戸・大阪の周辺の高い収穫高が見込める土地と、幕府の年貢収入が少ない土地を交換させ、幕府の収入を上げようとした政策。また、主要な土地を直轄地にすることで、外国に対する警備強化を狙った。しかし、大名・旗本の反発が大きく、水野の上知令は実行されなかった。なお、上知令というと、一般に天保の改革の上知令をさすが、他にも上知令は存在し、明治政府からは寺院・神社に対して2度の上知令が出されている。 |
天保の薪水給与令 | 1842年 | 12代将軍、徳川家慶の代。異国船打払令を撤回し、遭難船に限り飲料水・燃料の給与を認める法令。モリソン号事件から高まっていた対外政策への批判と、アヘン戦争が影響して、幕府が行った対外政策の転換の一つ。 |
人返しの法 | 1843年 | 12代将軍、徳川家慶の代。水野忠邦の天保の改革の一環。江戸に流入し、没落した農民を送り返し、江戸の人口減少と、地方の農村人口の増加を目的とした法令。天保の飢饉も発令のきっかけとなっている。同様の政策で、松平定信の寛政の改革の一環で出された旧里帰農令(1790年)と類似しているが、旧里帰農令には強制力がなかった。 |
公武合体 | 1850年代-1860年代頃 | 朝廷と幕府・諸藩を結びつけ、幕藩体制の再編をはかろうとした政策。幕府は、日米修好通商条約の調印で悪化した朝廷との関係を回復させ、権威を強化する目的があった。また、薩摩藩などは、朝幕の連携にあわせ、有力諸藩も含む挙国一致体制を目指した。具体的な対応として、孝明天皇の妹、和宮と14代将軍、徳川家茂の結婚が行われた。しかし、これが尊王攘夷派を刺激してしまい、結婚を進めた安藤信正は水戸浪士に襲われ(坂下門外の変)失脚。また、公武合体派の薩摩藩と、尊王攘夷派の長州藩の対立は「八月十八日の政変」にも影響した。 |
日米和親条約 | 1854年 | 13代将軍、徳川家定の代。アメリカに対し下田・箱館の2港を開港し、下田に領事を置くことが規定された条約(通商は拒否した)。アヘン戦争で清が植民地化しつつある状況も、締結に影響した。日本側全権は林復斎、アメリカ側全権はペリー。この条約により鎖国が終了した。 |
日露和親条約 | 1855年 | 13代将軍、徳川家定の代。日本とロシアの間で締結された条約。ロシア側全権はプチャーチン。条約の内容は、箱館・下田・長崎の開港、国境の取り決め(択捉島とウルップ島の間に国境を引き、樺太は両国民の雑居地とした)、日本のロシアに対する最恵国待遇(後に双方向に変化)など。 |
日米修好通商条約 | 1858年 | 13代将軍、徳川家定の代。安政五カ国条約の一つ。孝明天皇から条約調印の勅許が得られないまま、井伊直弼が締結。アメリカ全権はハリス。アメリカ側の領事裁判権、日本に関税自主権が無い、日本のアメリカに対する最恵国待遇などの不平等条約であった。 |
安政の大獄 | 1858–1859年 | 14代将軍、徳川家茂の代。大老、井伊直弼による幕府・朝廷・諸藩など、多くの人々に対する弾圧事件。直弼は一橋派と争って将軍継嗣を徳川家茂に決定し、また、勅許を得ずに日米修好通商条約を結んでいた。これらに反対した一橋派や尊王攘夷派を100名以上処罰した事件である。また老中暗殺を狙っていた吉田松陰も処刑された。結果、1860年に江戸城近くの桜田門で、直弼は水戸藩士に殺害され、弾圧は終了した(桜田門外の変)。 |
安政五カ国条約 | 1858年 | 米・蘭・露・英・仏の5ヵ国それぞれと結んだ不平等条約の総称。全て勅許なく調印された。この条約により、海外との貿易が行われるようになると、輸出品では生糸が最大で、貿易相手国では英が最大となった。一方、安価な綿糸の輸入により、綿産業が大打撃を受け、輸出により発生した品薄で国内物価の急上昇も発生した。 |
桜田門外の変 | 1860年 | 14代将軍、徳川家茂の代。「安政の大獄」により、怒りを買っていた井伊直弼が、江戸城近くの桜田門で、水戸藩士らに殺害された事件。井伊直弼は、一橋派や尊王攘夷派から怒りを買っていたが、とくに水戸藩は「戊午の密勅(孝明天皇から水戸藩への幕政改革を指示する勅書)」の件で家老が切腹させられており、恨みは深かった。変の結果、尊王攘夷運動が激化するきっかけになり、幕府の権威も大きく失墜した。また、幕府は尊王攘夷派を牽制するため、公武合体政策を推し進めることとなる。 |
五品江戸廻送令 | 1860年 | 14代将軍、徳川家茂の代。生糸・米・水油・蝋・呉服の五品を、江戸の問屋を経由して流通するようにした物流統制の法令。背景として、横浜港の開港に伴い、商人が生活品などを高値で輸出し、結果品薄になった江戸の物価が高騰したことが上げられる。違反に対する罰則がなかったため、商人は法令を無視し、外国人からも反対の圧力をかけられたことで、実質的に同法令は放棄された。これにより、物価高騰は止まらず、生産農家による「世直し一揆」も発生し、倒幕へとつながった。 |
南北戦争 | 1861–1865年 | 14代将軍、徳川家茂の代。北部のアメリカ合衆国と、合衆国から分離した南部のアメリカ連合国による内戦。戊辰戦争ではこの戦争で使われた中古小銃類が大量に輸入され、とくにガトリング砲(武田観柳の武器で有名)は、戊辰戦争ではじめて本格使用されたと言われる。また、この戦争及び戦後処理でアメリカは混乱した為、幕末の時期の日本への影響力は減少した(倒幕側はイギリス、幕府側はフランスが支援した)。 |
坂下門外の変 | 1862年 | 14代将軍、徳川家茂の代。江戸城坂下門外で、尊王攘夷派の水戸浪士が老中、安藤信正を襲撃し、負傷させた事件。信正は「桜田門外の変」の影響もあり、尊王攘夷派を抑え込もうと公武合体をすすめていた。その具体策として、孝明天皇の妹、和宮と14代将軍、徳川家茂の結婚が行われたことが背景にある。この結婚が、尊王攘夷派を刺激してしまい、結婚を進めた信正は襲われ、失脚した。 |
寺田屋事件 | 1862年 | 14代将軍、徳川家茂の代。伏見の旅館、寺田屋に滞在していた薩摩藩を中心とする尊皇攘夷派の志士が、同じく薩摩藩の実質的指導者であった島津久光によって鎮圧された事件。久光は公武合体を推し進め、幕府改革を目指していた。そんな久光の上洛を、薩摩藩の尊王攘夷派である有馬新七らが、倒幕に利用しようとする。その計画を知った久光は、藩士を派遣し有馬新七らの説得を試みるが失敗。乱闘になり、切腹含め9人が死亡した。事件後、薩摩藩の尊皇攘夷派志士は京都から追放され、島津久光は江戸に出向き幕政改革を成し遂げる。しかし、帰京の途中で生麦事件(1862年)が発生し、これが薩英戦争(1863年)につながる。 |
文久の改革 | 1862年 | 14代将軍、徳川家茂の代。開国からの混乱した情勢により、非常時の体制で行われた改革。そのため、主導者は幕閣ではなく、薩摩藩主の父・島津久光や朝廷の公武合体派であった。主な内容は、将軍後見職として一橋家当主・徳川慶喜を任命、新設の政事総裁職として前越前藩主・松平慶永を任命、京都守護職の新設、参勤交代の緩和、西洋技術の研究推進、軍事改革など。外様大名の父である久光や、朝廷の圧力で改革が行われた事は、幕府権威の失墜につながり、相対的に朝廷などの影響力が上昇した。 |
生麦事件 | 1862年 | 14代将軍、徳川家茂の代。幕府改革を行い、江戸から帰京中の薩摩藩主の父・島津久光の行列を、武蔵国の生麦村でイギリス人達が遮ったとして、薩摩藩士に殺傷された事件。薩英戦争が勃発するきっかけとなった。 |
京都守護職 | 1862年 | 14代将軍、徳川家茂の代。文久の改革の一環。幕末の京都の守衛を行った幕府の役職。ペリー来航後、尊王攘夷派が京都に集まり、幕府の開国政策への反対や、倒幕への働きかけを行っていた事に対し、反幕府勢力の鎮圧を行った。また、非正規部隊として、配下に新選組を置いた。 |
奇兵隊 | 1863年 | 14代将軍、徳川家茂の代。藩士以外の武士・庶民も含まれる混成部隊で、下関戦争の後に、長州藩の高杉晋作らが発案したもの。奇兵隊は長州藩の常備軍の1つとなった。なお、有名な奇兵隊は長州藩のものだが、その他にも奇兵隊は存在する。 |
下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件) | 1863–1864年 | 14代将軍、徳川家茂の代。長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの間における戦いで、2回行われた。尊王攘夷思想がとくに盛んであった長州藩は、下関海峡を通過する外国船に次々と砲撃。その報復として、諸外国から攻撃を受けた(先の長州藩の攻撃を「下関事件」、報復を「四国艦隊下関砲撃事件」と区別できる)。長州藩の降伏後、長州藩は幕命に従ったのみと主張し、結果、賠償金は幕府が支払わされた。 |
薩英戦争 | 1863年 | 14代将軍、徳川家茂の代。生麦事件の補償、解決を求め、武力で迫るイギリスに対し、近代化された武力で防衛しようとする薩摩藩兵による戦い。薩摩とイギリスの双方が相手を詳しく知るきっかけとなり、以後は一転して両者が接近することとなった。 |
八月十八日の政変 | 1863年 | 14代将軍、徳川家茂の代。孝明天皇、薩摩藩、会津藩など幕府への攘夷委任(交渉による鎖港)を支持する勢力が、三条実美、長州藩などの攘夷親征(攘夷戦争を支持)勢力を、朝廷から排除した事件。長州藩が京都から追放され、薩摩藩、会津藩が力を付けた。 |
池田屋事件 | 1864年 | 14代将軍、徳川家茂の代。京都の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の組織、新選組が取り締まった事件。新選組による京都市内の捜索や土方歳三による拷問により、尊王攘夷派の志士が「御所の焼き討ち」「天皇の誘拐」などを計画している事が判明。池田屋で計画を立てている尊王攘夷派を急襲した(計画は、新選組の捏造説もある)。この事件の恨みが、長州藩による禁門の変につながり、また新選組が有名になるきっかけにもなった。完全な余談ですが、新選組は多摩地域の剣道場出身者が多く、私の家の近くにも土方歳三などが修行した道場がありました。 |
禁門の変 | 1864年 | 14代将軍、徳川家茂の代。「八月十八日の政変」で京から追放された長州藩が、池田屋事件で同士が殺害された事をきっかけに、京都で薩摩・会津・桑名藩と武力衝突した事件。蛤御門の変、元治の変とも呼ばれる。「禁門」は皇居の門の意味。背景には、公武合体派(会津・桑名藩・幕府)と尊王攘夷派(長州藩)の対立もあった。結果、長州藩は敗れ、御所に対して発砲を行った事から朝敵にされ、「長州征討」へとつながった。 |
第一次長州征討 | 1864年 | 14代将軍、徳川家茂の代。江戸幕府が長州藩の処分のため出兵した事件。背景として「禁門の変」で御所へ発砲し、長州藩が朝敵となっていた事がある。開戦の前、西郷隆盛が条件付きで長州藩に降伏を説得し、大きな犠牲は発生しなかった。この説得は、西郷が勝海舟から幕府の衰退と、新政府樹立の必要性を説かれ、長州征伐を平和的に解決した方が得策であると考えを改めたことが影響した。事件後、薩摩藩と長州藩は接近し「薩長同盟」を締結した。 |
薩長同盟 | 1866年 | 14代将軍、徳川家茂の代。「雄藩」と呼ばれ、影響力が強かった薩摩藩と長州藩による政治・軍事的同盟。幕政改革を求める薩摩藩と、反幕姿勢を強める長州藩は、元は対立していた。しかし、第一次長州征伐で長州藩は窮地に陥り、またこの時期に薩摩藩は強硬論が高まってきていた。結果、第一次長州征討を機に両藩は接近し、坂本龍馬らの仲介もあり、同盟を締結した。薩長同盟により、第二次長州征伐は幕府側の失敗に終わり、倒幕を決定づけた。 |
第二次長州征討 | 1866年 | 14代将軍、徳川家茂の代。江戸幕府が長州藩の処分のため出兵した事件。最終的に休戦となるが、実質的に長州藩が勝利。背景として、第一次長州征伐以降、長州藩で倒幕を掲げる派閥が活気づき、幕府との関係が悪化していたことがある。幕府軍の約15万人に対し、長州軍は約1万人であったが、薩長同盟により薩摩藩から西洋式の軍備、戦術が入った長州軍は健闘。大坂城への出陣中に14代将軍、徳川家茂が亡くなり、幕府軍は総崩れとなった。結果、幕府の権威は失墜し、江戸幕府の崩壊を決定づけた。 |
大政奉還 | 1867年 | 15代将軍、徳川慶喜の代。慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、幕府が持っていた政権を朝廷に返還した事。討幕の機運が高まる中で先手を打った対応で、この時点での慶喜は、一定の権力を握り続けようとしていた。しかし、その後の「王政復古の大号令」や「小御所会議」で立場は悪化し、旧幕府勢力は戊辰戦争に至ったが、敗北した。 |
王政復古の大号令 | 1867年 | 15代将軍、徳川慶喜の代。大政奉還を受けて明治天皇より発せられた勅令。江戸幕府や摂政・関白の廃止、三職の設置などが宣言された。また、直後に「小御所会議」も開かれ、慶喜の官位と領地の剥奪(辞官納地)が決定された。 |
戊辰戦争 | 1868年 | 薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中心とする新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟などが戦った内戦。15代将軍、徳川慶喜は「王政復古の大号令」「小御所会議」(1867年)により、地位や領地が奪われる決定を受けた。小御所会議の決定を拒否した慶喜は、大阪城へ入城。兵力を集め、京都へ進軍する。京都での鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、戦いが始まった。しかし、新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、賊軍とされ動揺した淀藩・津藩などが新政府側につき、旧幕府勢力は早々に敗走。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の交渉で、江戸は無血開城、慶喜は謹慎となったが、旧幕臣は北上しつつ各地で戦いを続けた。最終的に旧幕府勢力は箱館五稜郭で抗戦するも、翌年には降伏した。この戦いにより、反対勢力を一掃した新政府軍が日本全国を統一した。 |
五箇条の御誓文 | 1868年 | 明治政府の基本方針で、明治天皇が神に誓う形式で出した文章。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」などが有名で、身分に関係のない人材登用を示した。国民や外国に、幕府から明治政府に政権が移った事を示す目的もあった。 |
版籍奉還 | 1869年 | 全国の藩が治める土地・人民を朝廷に返還させた政治改革。また、藩主は非世襲の知藩事に任命された。これにより、明治政府による中央集権化が段階的に進められ、廃藩置県(1871年)により、明治政府が全国に影響力を及ぼせる体勢になる。 |
殖産興業政策 | 1870年代~ | 明治政府が、列強諸国と張り合えるように行った産業改革。具体的には、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成など行った。当時、日本は「富国強兵」をスローガンに、経済と軍事の発展を目指していた。殖産興業により、富岡製糸場のポール・ブリュナなどのお雇い外国人も来日し、技術がもたらされた。また、岩崎弥太郎の創始した三菱や三井などは、後に財閥へと発展していった。 |
郵便制度 | 1871年 | 前島密により、近代郵便制度が創設された。これにより、飛脚が東京~大阪間を144時間で配送していたものを78時間に短縮でき、翌年には横浜、神戸、長崎、函館、新潟と全国展開が図られた。また、1871年に最初の郵便切手も発行された。 |
廃藩置県 | 1871年 | 藩を廃止し、地方統治を中央管下の府・県とした措置。知藩事(版籍奉還前の藩主)は藩の廃止で地位を失うことから、反発が予想された。そこで、新政府は薩摩・長州・土佐の軍事力を借り、「御親兵」と呼ばれる軍隊を作った。結局、知藩事は失職後に家禄が引き続き支給され、華族の身分が保証された事、藩の借金を新政府が肩代わりしたことで、大きな反発は起こらなかった。廃藩置県により、新政府は国民を直接統治できるようになり、壬申戸籍の編成、地租改正、徴兵令などへとつながっていく。 |
日清修好条規 | 1871年 | 日本と清の間で結ばれた条約で、両国にとって初の対等な条約。目的としては「列強各国の不平等条約改正の足掛かり」「幕末から開国を要求している朝鮮に対して有利な立場に立つ事」が上げられる。調印の翌年、台湾に漂流した琉球人が殺害される事件が起き、明治政府は清に責任追及を行うが、「台湾は清国民ではない」と主張された事から台湾出兵(1874年)につながった。 |
岩倉使節団 | 1871年 | アメリカやヨーロッパへ派遣された使節団で、岩倉具視が全権。薩長中心の使節と留学生など総勢107名。津田梅子が留学生として渡米した。目的は、不平等条約の改正へ向けた予備交渉、西洋の調査、友好親善など。1872年に欧米15カ国との修好条約が改訂の時期となるため、そのタイミングでの不平等条約改正を狙ったが、法制度の未整備、キリスト教の禁教政策などを理由に失敗した。有名な使節は、岩倉具視(公家出身)、木戸孝允(長州藩)、大久保利通(薩摩藩)、伊藤博文(長州藩)。有名な留学生は、中江兆民(東洋のルソーと評される)、津田梅子(現、津田塾大学の創設者で、日本初の女子留学生)。 |
鎮台 | 1871年 | 日本陸軍の編成単位で、常設のものでは最大規模。御親兵の後を継いで作られたもので、鎮台と徴兵制の実施によって、日本の近代陸軍の始まりとされる。 |
壬申戸籍 | 1872年 | 皇族から平民まで戸を単位に集計したもので、戸籍法に基づいて、明治維新後に初めて作成された戸籍。国家が国民を把握するための仕組みとして作られた。全国一律の基準で集計した点で画期的であり、当時の人口は3311万人だった。 |
学制 | 1872年 | 明治政府の三大改革(学制、徴兵制、税制)の一つ。日本最初の近代的学校制度。全国を学区に分けて、それぞれ大学校・中学校・小学校を設置することを計画した。授業料・学校の建設費などを取られ、働き手も取られたため、当初は反対が多く、反対の一揆も起こった。授業料無償化からは義務教育が受け入れられ、1905年には就学率96%に達した。 |
鉄道の開通 | 1872年 | 日本初の鉄道路線が新橋駅~横浜駅間で開通した。正式開業日には新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復した。 |
富岡製糸場 | 1872年 | 日本で最初に設立された本格的な機械製糸工場。お雇い外国人のポール・ブリュナも設立に携わった。殖産興業政策の中で日本は生糸に力を入れた。富岡製糸場の活躍や関連施設での研究、富岡製糸場のノウハウが全国に広まった事もあり、1909年には中国を追い抜き、日本は世界一の生糸の輸出国となった。世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産でもある。 |
国立銀行条例 | 1872年 | 国立銀行について規定した法令。背景として、1868年に発効した不換紙幣(太政官札と民部省札)を整理する必要があった事と、殖産興業の投資費用が必要だったことがあげられる。当初出回っていた不換紙幣は、新政府に対する信頼が低かった上に偽札が出回ったため、価値が急落していた。そこで、民間で銀行(国立銀行は民間の銀行)を作ってもらい、新しく兌換紙幣を発行することとなった。しかし、兌換紙片を発券できる程の資金を持った民間企業は少なく、後に法令を改正。兌換義務を無くすと今度は銀行が増えすぎ、通貨価値は暴落した(1877年の西南戦争で、政府も不換紙幣を発行していた)。この状況の改善の為、松方正義が日本銀行(1882年)を設立するに至った。なお、渋沢栄一が日本初の国立銀行「第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を設立している。 |
学問のすゝめ | 1872–1876年 | 福沢諭吉の著書。実学を推奨や、自由・独立・平等といった日本人になかった価値観などが説かれた。 |
徴兵令 | 1873年 | 明治政府の三大改革(学制、徴兵制、税制)の一つ。前年の1872年に、徴兵告諭によって徴兵制が国民に予告され、その上で徴兵令が発令され、徴兵制度が義務づけられた。全国の満20歳以上の男子は3年の兵役義務がなされ、全国各地の鎮台に編成された。なお、一定条件で免除も行われ、徴兵検査の基準(身長・体重・病気など)に満たない者、官吏、一家の主人、相続人、一定のお金を支払った人は免除された。 |
地租改正条例 | 1873年 | 明治政府の三大改革(学制、徴兵制、税制)の一つ。従来米で納めていた税金を現金で納めさせ、税収の安定化、税制の公平化(農民と比べ、職人や商人は負担が少なかった)などを狙った。また、この改革によっての土地に対する私的所有権が初めて確立された。課税は地価の3%として基準が定められ、土地の所有の証明となる地券の所有者に課税された。しかし、税率が高いとして地租改正反対一揆が起こり、1887年には地価の2.5%に改められた。 |
明治六年の政変(征韓論政変) | 1873年 | 西郷隆盛や板垣退助をはじめとする参議の半数、軍人・官僚約600人が離職した事件。当時、朝鮮では興宣大院君が政権握り、攘夷政策を採り始め、日本との国交断絶の方向へ傾いていた。これに対し、日本は粘り強く朝鮮の開国を求めていた。そんな中、岩倉使節団(1871~1873年)が欧米に向かっている間、西郷らによる留守政府は、朝鮮を武力侵攻する『征韓論』を唱え始める。使節団の帰国後、征韓論は激しい論争となり、最終的に征韓論が却下さた。これにより西郷・板垣ら征韓論派と、同じく征韓論派の軍人・官僚が大量離職し、後の西南戦争につながる。なお、留守政府の主なメンバーは、太政大臣の三条実美を筆頭に、西郷隆盛・板垣退助・大隈重信・井上馨など。 |
内務省 | 1873年 | 警察や地方行政など、内政一般を所管する省。初代長官は、薩摩藩出身で維新三傑の大久保利通。プロイセン王国の帝国宰相府をモデルに設立した。ちなみに、維新三傑の残り二人は、同じく薩摩藩の西郷隆盛と、長州藩の木戸孝允。 |
民撰議院設立の建白書 | 1874年 | 民選の議会開設を要求する建白書。板垣退助、後藤象二郎らが提出し、自由民権運動のきっかけにもなった。当時、征韓論派であった板垣退助らが明治六年の政変で下野したこともあり、藩閥政治・有司専制の横行に対する不満に拍車がかかっていた。板垣らは愛国公党を結成し、専制政府を批判し、天皇と臣民が一体となった政治体制を主張。そのため、平民に参政権を与え、議会を開設することを主張し、民撰議院設立の建白書を提出した。結果、1890年に第1回帝国議会が開かれることにつながった。 |
佐賀の乱 | 1874年 | 佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱。不平士族による初の大規模反乱であり、激戦になったが、政府に制圧された。当時、徴兵令などで不平士族が増えていたところに、明治六年の政変で征韓論派の参議が下野したことが影響した(乱のリーダーである江藤新平も下野した一人)。 |
樺太・千島交換条約 | 1875年 | 日露通好条約で雑居地としていた樺太について、国境を確定させた条約。クリミア戦争(1853-1856年)後、ロシアが樺太開発を進めた事で、樺太では日露の両国民によって揉め事が多発していた。1867年に幕府とロシアによる交渉も行われたが失敗。結果、幕府とロシアは互いに樺太に大量の移民を送り込み、日本人、ロシア人、アイヌ人の3者による摩擦が増加していた。明治政府はこの状態を解決するために条約を締結し、「樺太における日本の権益の放棄」「得撫島以北の千島18島をロシアが日本へ譲渡」などを定めた。 |
江華島事件 | 1875年 | 日本と朝鮮による武力衝突事件。当時、開国を拒む朝鮮に対し、日本は武力で開国を迫ろうとする征韓論派と、慎重派に分かれていた。明治六年の政変で、一度は慎重派が優勢になるものの、その後も朝鮮との国交は成立していなかった。結果、明治政府は朝鮮を挑発して攻撃させ、反撃する形で朝鮮に圧力をかけた。事件後、日本にとって有利な不平等条約である「日朝修好条規」が結ばれた。 |
ガラ紡績 | 1876年 | 臥雲辰致により考案された紡績機で、ガラガラという騒音からガラ紡と呼ばれた。1887年をピークに、より近代的な機械紡績に圧迫され衰退していった。なお、当時の日本に特許制度は無く、類似製品を量産された臥雲は、ガラ紡製作の資金を回収できず、苦しい生活を強いられた。 |
日朝修好条規 | 1876年 | 江華島事件をきっかけに、日本が朝鮮と結んだ条約で、日本にとって初の自国に有利な不平等条約。主な内容は「釜山・仁川(インチョン)・元山(ウォンサン)の開港」「朝鮮における日本の領事裁判権」「清の宗主権の否定(朝鮮の独立)」など。 |
廃刀令 | 1876年 | 軍人や警察などの一部の人以外が刀を身に付ける事を禁止した法令。刀を取り上げた事は、失業していた士族の不満を煽り、結果、神風連の乱などの反対運動が起きた。不平士族の反乱は、西南戦争(1877年)まで続いたが、西南戦争後は武力抵抗は無理だと悟り、言論による反対運動に変化していく。 |
秩禄処分 | 1876年 | 士族などに支払われていた秩禄を廃止する一連の政策。政府にとって、大きな支出となっていた秩禄を削減する目的があった。結果、西南諸藩を中心に士族反乱のきっかけとなった。また、反乱を起こさなかった士族には、板垣らを中心に自由民権運動を起こす者もでた。一方政府は、秩禄処分によって職を失った |
工部美術学校 | 1876年 | 日本最初の美術教育機関。お雇い外国人が起用されたが、全てイタリア人であった(当時、美術の先進国として認知されていたのはフランス)。また、当時の「美術」には近世以前の日本文化は含まれなかった。1883年に廃校。 |
西南戦争 | 1877年 | 西郷隆盛を盟主に起こった士族による武力反乱。征韓論に敗れ、明治六年の政変で西郷と不平士族が下野した事に加え、廃刀令、秩禄処分、徴兵令などで士族が不満を募らせたことが背景にある。この戦いにより、武力での政府への反対運動は無謀と考えられるようになり、以降は言論による反対運動が中心となる。 |
国会期成同盟 | 1880年 | 国会開設運動で中心的な政治結社。中心人物は片岡健吉と河野広中。自由党の母体でもある。当時、征韓論に敗れた参議(西郷や板垣など)が下野し、一部は武力反乱を行ったが、西南戦争で武力による抵抗が無理だと考えられるようになった。また、一方で言論による抵抗を行う結社(板垣の愛国社など)が作られるようになっていた事が、設立の背景となった。結成の翌年、政府は10年後の国会開設を約束した。その一方、活動の取り締まりのため、集会条例が出された。 |
集会条例 | 1880年 | 集会や結社の自由を制限する法律。民選議員設立の建白書、国会期成同盟の結成などが背景となっており、同年の新聞紙条例の改正や、出版条例などもあわせて、自由民権運動を弾圧した。この法令により、国会期成同盟の片岡健吉、東洋のルソーとして知られる自由民権運動家の中江兆民などが、東京を退去させられた。 |
明治十四年の政変 | 1881年 | 参議の大隈重信が明治政府中枢から追放された政変。事件前、1878年に大久保利通が暗殺され、政府中枢は伊藤博文が握っていた。一方、1880年頃の大隈発案による外債募集を巡った伊藤との対立をはじめ、伊藤と大隈の対立関係が発生する。そんな中、北海道開拓使の長官である黒田清隆が、開拓使の資産を安価・無利子で払い下げることを決定。その情報が漏洩し、世論の批判で中止となった(開拓使官有物払下げ事件)。払い下げに関する情報漏洩は、大隈が行ったとされ(明確な犯人は不明)、大隈や大隈寄りの官僚が追放された。事件の後、大隈重信は立憲改進党を結成(1882年)する。 |
松方財政(松方デフレ) | 1881年 | 松方正義が行ったデフレ誘導政策。西南戦争(1877年)の戦費調達の為に明治政府が大量に不換紙幣を発行していた事、また国立銀行条例の改正で大量の国立銀行が不換紙幣を発行した事で、当時極端なインフレが発生していた。そこで「明治十四年の政変」で大隈が政府から追放された後、大蔵卿に任命された松方が、インフレ対策の責任者となっていた。松方は「不換紙幣の回収」「銀本位制の導入」「日本銀行を設立し、銀兌換紙幣を発行」などを行った。デフレ誘導は成功した一方、デフレに耐え切れず窮乏した農家が土地を売り小作農へ転落したり、没落農民が自由民権運動と結びつき激化事件が発生した(秩父事件など)。 |
日本銀行 | 1882年 | 松方正義により設立された日本の中央銀行。松方デフレの政策により、銀との兌換紙幣も発行された。 |
甲申事変 | 1884年 | 朝鮮で起こった独立党によるクーデター。事件前、朝鮮政府内は親日派と親清派にわかれていた。結果、親清派に扇動された朝鮮人兵士により、日本大使館への放火や、日本人襲撃、親日派への弾圧などの反乱が起こった(壬午軍乱。1882年)。その事件により、親日派が日本政府から多額の賠償金を請求され、親日派が更に「閔妃らの親清派」と「金玉均らの親日派である独立党」にわかれる。結果、独立党は清仏戦争で清の手が取られている間に、日本公使の竹添進一郎とクーデターを起こし、日本軍を使って王宮を占領した。しかし、清国軍と袁世凱率いる朝鮮政府軍により日本軍が撤退し、クーデターは3日で終わった。事件後、日本は清と天津条約を締結。天津条約により、日本と清国は朝鮮から撤兵する事となったが、日本の朝鮮における立場は以前より悪化した。また、1885年に書かれた社説「脱亜論」(福沢諭吉が書いたとされる)は、こういった背景もあり書かれたとされる。 |
内閣制度 | 1885年 | 第1次伊藤内閣の代。明治初期からの太政官制(太政官を国政の最高機関とする)を廃止し、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制に移行した。太政大臣と異なり、内閣総理大臣はどのような身分の者でもなる事ができ、また各省大臣の権限が強化された。初代内閣総理大臣は、伊藤博文。 |
ノルマントン号事件 | 1886年 | 第1次伊藤内閣の代。イギリス船籍のノルマントン号が、紀州沖で座礁・沈没した際、イギリス人船長が日本人乗客25人を見殺しにした事件。領事裁判権に基づき、裁判は神戸のイギリス領事館内でなされ、イギリス人船長は無罪となった。このため、不平等条約の領事裁判権に対する反発が高まり、条約改正に向けて政府はより強く動くようになる。なお、船長は世論の圧力の為、再度裁判が行われ、禁固刑3ヵ月となる。軽い処分ではあったが、日英関係の悪化が日本に悪影響を与えると判断され、新聞などの論調は弱くなり、反発は沈静化していった。 |
大同団結運動 | 1886–1891年 | 第1次伊藤内閣の代。民権派による最後の反政府統一運動。民権派が小異を捨て、大同し、国会開設に備えた運動。保安条例による弾圧や、中心人物であった後藤象二郎が黒田内閣に引き抜かれたことなどで終了した。井上馨外相の条約改正内容が外国に有利であり、民権派の批判が高まった事、同時期に行われた「三大事件建白運動」も影響を与えている。 |
東京音楽学校(旧制) | 1887年 | 第1次伊藤内閣の代。日本初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関。当初は西洋音楽の教育を中心としていた。当時の国立の専門学校としては唯一の男女共学で、入学者数は女子の方が多かった。1949年に東京美術学校 (旧制)と統合され、東京藝術大学が設立された。 |
三大事件建白運動 | 1887年 | 第1次伊藤内閣の代。「言論の自由」「地租軽減」「外交の回復(不平等条約の撤廃)」を柱とした建白書をきっかけにした運動。主な人物は、大同団結運動の関係者である後藤象二郎、尾崎行雄、星亨、片岡健吉。保安条例により多数の運動家が追放・逮捕され、運動は頓挫した。 |
保安条例 | 1887年 | 第1次伊藤内閣の代。大同団結運動、三大事件建白で高まった自由民権運動の弾圧を狙い、 秘密結社や集会の禁止、出版に対する規制、取締りのための警察官の権限強化などを行った。この法令で東京から追放された主な人物は、大同団結運動の関係者である、片岡健吉、尾崎行雄、星亨、中江兆民(後藤象二郎は追放されそうになるが、最終的には対象から外れた)。 |
大日本帝国憲法 | 1889年 | 黒田内閣の代。天皇が定め、国民に与えるという形式の「欽定憲法」。帝国議会についても貴族院と衆議院で構成することが規定されていた。天皇中心を目指す日本の状況に合わせ、君主の権力が強いドイツの憲法が参考に使われた。 |
皇室典範(1889年) | 1889年 | 黒田内閣の代。皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等を規定したもの。大日本帝国憲法と同格として扱われ、両者を合わせて「典憲」と呼ばれた。なお、現在の皇室典範とは異なる。 |
衆議院議員選挙法(大日本帝国憲法) | 1889年 | 黒田内閣の代。1889年、黒田清隆内閣で交付された衆議院議員の選挙に関する法律。当初、選挙人は「直接国税を15円以上納める25歳以上の男性」に限定されていたが、1900年の第2次山形内閣で10円以上、1919年の原内閣で3円以上と緩和された(それでも人口の5.5%程度)。1925年の加藤高明内閣で、納税の制限が無くなり、1945年の幣原内閣で男女20歳以上に変更され、人口の50.4%以上が投票できるようになった。 |
第一回帝国議会 | 1890年 | 第1次山形内閣の代。明治憲法の規定で設置された議会で、選挙で選ばれた衆議院 (下院)と非公選の貴族院(上院)から作られる。初期議会は政府の超然主義と衆議院が対立していたが、大正デモクラシーの発展から憲政の常道の慣例が生まれ、衆議院が大きな力を持った。 |
大津事件 | 1891年 | 第1次松方内閣の代。日本訪問中のロシア帝国皇太子(後のニコライ2世)が、滋賀県の大津町で警察官の津田三蔵に斬られ負傷した暗殺未遂事件。ロシア政府による報復を恐れた日本政府は、三蔵を死刑にしようとしたが、大審院長(最高裁判所の長官のようなもの)である児島惟謙は、法律に則り無期懲役の判決を下した。この判決は、他国や政府の干渉を受けず、司法の独立が維持された事から、国際的に評価され、領事裁判権の撤廃へとつながった。 |
甲午農民戦争(東学の乱) | 1894年 | 第2次伊藤内閣の代。朝鮮で起きた農民の暴動・内乱。東学の信者が参加したことから東学党の乱とも呼ばれる。甲申事変(1884年)によるクーデタ-の失敗後に結ばれた天津条約(1885年)により、日本と清は朝鮮から撤退する事となっていた。しかし、困窮する農民を主体とする東学党が、政府に経済改革を要求し、政治運動・暴動となっていった。東学党の鎮圧のため、朝鮮の閔氏政権は清に援軍を要請(閔氏は甲申事変の頃から親清派)。これに対し、天津条約にもとづき日本も朝鮮出兵を開始。結果、清軍と日本軍が膠着状態になり、農民を鎮圧できず、朝鮮政府は農民の提案した全州和約を締結することとなった。しかし、それでも清軍・日本軍は撤退せず、日本側が朝鮮を共同で改革することを清に提案。これに対し、清は朝鮮を元から属国とみなしてきたので拒否。日本は朝鮮の独立を口実に、日清戦争(1894-1895年)を始めることとなる。 |
日英通商航海条約 | 1894年 | 第2次伊藤内閣の代。日本とイギリスとの間の通商条約で、調印当時の外務大臣は陸奥宗光であるため、陸奥条約とも呼ばれる。明治維新以降の懸案事項であった条約改正に成功して結ばれたもので、領事裁判権の完全撤廃・関税自主権の部分的な回復が行われた(完全な回復は1911年)。背景として、ノルマントン号事件で治外法権と領事裁判権が問題視された事、ロシア帝国の南下政策に対して、イギリスと日本が脅威を感じ、利害が一致したことがあげられる。 |
日清戦争 | 1894–1895年 | 第2次伊藤内閣の代。日本と清の間で行われた戦争。以前より朝鮮半島を巡り日本と清は対立していたが、甲午農民戦争の後、朝鮮半島の支配関係に対して両者の関係が悪化。清軍を朝鮮から退去させることを口実に、日本軍が攻撃を開始し(豊島沖海戦など)、戦争に至った。外交と軍事が不統一だった清は戦争全体の指導者を欠き、また日本に比べ装備も清軍はバラバラであったため、戦争は日本優位に進む。1895年、清が敗北を認め、下関条約が結ばれ「遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲」「朝鮮独立の承認」「賠償金3億1100万円」などが取り決められた。この際の賠償金が、八幡製鉄所や金本位制の財源として使われた。また、遼東半島については、三国干渉(1895年)により、清に返還された。なお、朝鮮を巡ってはロシアの思惑も絡んでいた(3者の関係を表したビゴーの風刺画が有名)。その為、ロシアとの敵対関係で利害関係が一致したイギリスとの日英通商航海条約(1894年)は、日本を後押しする方向へ影響した。また、国内政治的には戦争を通して政府と民党の協力関係が成立し、後に日本最初の政党内閣である「隈板内閣」が成立(1898年)する下地となる。 |
ペスト菌の発見 | 1894年 | 第2次伊藤内閣の代。「感染症学の巨星」と呼ばれる北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。福澤諭吉の支援により、北里は「伝染病研究所」の設立(1892年)も行った。 |
三国干渉 | 1895年 | 第2次伊藤内閣の代。フランス・ドイツ・ロシアが、日清戦争の講和条約である下関条約(1895年)で日本に割譲された遼東半島を、清に返還するよう要求した事。下関条約締結から6日後「日本が遼東半島を所有すると、清国の北京を脅かし、朝鮮の独立にも悪影響を与えるので、極東の平和を妨げる」として、フランス・ドイツ・ロシアが勧告を行った。実際には、ロシアは南下政策で満州権益を拡大する上で日本の遼東半島所有が不都合だったこと、フランスはロシアと秘密同盟(露仏同盟)を結んでいたこと、ドイツはロシアとフランスが近付きすぎないようにしつつロシアの注意を極東に向けることなどが理由だった。日本は英米などを巻き込み撤回させようとしたが、英米が中立を宣言したため、勧告を受諾。これが日露戦争(1904-1905年)の遠因になる。 |
金本位制 | 1897年 | 第2次松方内閣の代。貨幣価値を金で裏付けし、金額を表す制度。金と交換できる兌換紙幣を発行する事で、紙幣価値を高める事と、紙幣価値の安定を実現できるというメリットがあるが、その分交換に十分な金が必要になる。その準備金について、日清戦争の下関条約(1895年)で賠償金を得たことで、制度確立が進んだ。当時は欧米各国が金本位制へと進んでいたが、第一次世界大戦や世界恐慌で各国間での兌換紙幣の輸送できなくなると衰退していき、各国は不換紙幣の発行へと向かっていった(その他、経済調整が難しいというデメリットなどもあり、1971年の米ドル金兌換停止以降は、先進各国は管理通貨制度へと移行)。ちなみに、日本では銀本位制、金銀複本位制であった時期もあり、金本位制が最初に導入されたのは1871年だが、貨幣法とあわせて本格的な金本位制になったのが1897年である。 |
貨幣法 | 1897年 | 第2次松方内閣の代。金本位制を基礎とした、貨幣の製造に関する法律。当時、銀相場の世界的な下落に伴い、世界各国は銀本位体勢から、金本位体制へと向かっていた。日本は当時銀本位体勢であり、銀相場下落に伴い、1894年には日本円は明治初期のほぼ半値になり、物価が不安定になっていた。そこで、貨幣の製造に関する法令を作り、銀貨幣などの製造の基準を設け、金本位制に移行した。なお、幣制改革において、金本位制は莫大な金準備が必要であった為、金銀複本位制を目指すべきという意見もあった。この点については、下関条約(1895年)で賠償金を得た事で、金本位制が実現した。 |
日本初の政党内閣(隈板内閣成立) | 1898年 | 第1次大隈内閣の代。明治初期からの藩閥政治から脱却し、議会に議席を保持する政党を基礎に内閣が組織された。明治憲法の時期は、内閣総理大臣の選出方法が法律で規定されておらず、結果的に元老などが推薦する人が総理大臣になるといった、選挙結果が反映されない状況が続いていた。しかし、日清戦争の際に政府と民党の協力関係が成立したことで、政党勢力が次第に強化される中、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成。初の政党内閣である「隈板内閣」が成立するに至った。しかし、内部闘争や文相である尾崎行雄(大同団結運動の関係者。保安条例では東京を追放された)の共和演説事件によって、僅か4カ月程で内閣は崩壊した。その後も政党内閣は作られるものの、犬養内閣が1932年の五・一五事件で崩壊し、戦前の政党内閣は終わった。 |
治安警察法 | 1900年 | 第2次山形内閣の代。従来の集会・結社といった政治活動の規制だけでなく、日清戦争(1894-1895年)後に高まった労働運動の取り締まりも目的とした法律。背景として、日清戦争前の1880年代からの企業勃興により、産業革命が行われる一方、劣悪な環境で働かされる労働者が増えていったことがあげられる。また、1897年には労働組合期成会が組織され、機関紙『労働世界』を発行し、1899年には会員5700人に達したが、治安警察法により、財政難、使用者側からの弾圧を受けるようになり、1901年に解散となった。 |
義和団事件(北清事変) | 1900年 | 第2次山形内閣の代。「扶清滅洋」をスローガンとする義和団が、外国人を排斥し清を助けようとした運動を活用し、清が欧米列強に宣戦布告した戦争。日本含む8カ国の連合が2か月で北京まで進出し、中でも日本は最大の兵力(8000人)だった。結果的に、清は今まで以上に列強からの侵略を受けるようになる。戦争の前、アロー戦争の天津条約(甲申政変の天津条約ではない)などの影響で、清ではキリスト教が浸透するようになり、キリスト教と清は対立していた。そこに白蓮教の流れを汲んだ義和団が現れ、清を助け西洋を滅ぼすとする「扶清滅洋」をスローガンに活動を始める。義和団はキリスト教宣教師を襲い、更に北京に駐留していた外国人外交官を殺害していった。清はこの暴動をおさめることができず、むしろ利用して外国に宣戦布告する方針となる。戦後、敗北した清は北京議定書により膨大な賠償金を支払うことや、列強各国の軍隊駐留権を認める事となった。また、戦争後の義和団の鎮圧が、日露戦争の原因にもなった。 |
立憲政友会 | 1900–1940年 | 第2次山形内閣の代。帝国議会で二大政党制を形成した政党。政党内閣制の確立を企図した伊藤博文の議会与党として、結党された。なお、二大政党制で並立していたのは立憲民政党(1927年成立)。 |
官営八幡製鉄所 | 1901年 | 第4次伊藤内閣の代。福岡県にある製鉄所で、日本で2番目に長続きしている製鉄所(1番は1887年から続く釜石鉱山田中製鉄所)。日清戦争の賠償金で建設費が賄われた。第二次世界大戦前は、日本の鉄鋼生産量の過半を製造していた。施設内の4資産が、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産に含まれる。 |
桂園時代 | 1901–1913年 | 第1次桂内閣の代。立憲政友会の第2代総裁である西園寺公望と、陸軍・山県閥である桂太郎が、交互に政権を担当した時代。1913年の大正政変(第一次憲政擁護運動が桂内閣を総辞職に追い込んだ事件。大正デモクラシーへ続く運動)で、第三次桂太郎内閣が崩壊し、桂園時代は終了した。桂園時代では、国際的な地位が上昇(日英同盟、日露戦争、韓国併合、陸奥宗光と小村寿太郎による条約改正)し、重工業も発展したが、公害問題、労働問題が発生した。 |
足尾銅山鉱毒事件 | 1901年 | 第1次桂内閣の代。日本初の公害事件。明治以降、富国強兵のスローガンのもと、日本では重工業の発展が進められていた。そんな中、1877年に足尾銅山が古河市兵衛に買収されてから銅の生産を増加させ、日本で最大、東アジアでも最大規模の銅の産地として開発された。その開発に伴い、煙等による森林破壊、洪水、銅生産の有害物質による渡良瀬川の汚染が発生。カドミウム中毒の記録だけでも、1060人近くの死者・死産の被害をもたらした。一方、政府としては銅山を資金源としていた為、公害対策は望めなかった。1891年、田中正造は国会で問題追及するが、当時の農商務大臣である陸奥宗光は被害と渡良瀬川の関連性は認めたものの、鉱毒の影響は判定できないと否定した(経営者の古河市兵衛は、陸奥の次男を養子としており、癒着も指摘される)。1892年、政府は僅かな示談金で問題を終結させようとするが、1896年に大洪水が発生し、抗議活動が活発化。その後、政府が鉱毒の流出防止工事を命じたが解決に至らなかった。政府に失望した田中は1901年衆議院を辞職し、明治天皇へ直訴。直訴は失敗に終わったものの、当時明治天皇への直訴は死刑もあり得る時代であり、田中のこの行動は世論動かし、政府への非難を高めた。しかし、政府は「鉱毒問題」を「洪水対策の治水問題」にすり替えた挙句、日露戦争に向けて銅の増産を開始。反対運動の中心地を治水の為と称して強制的に廃村とし、問題が解決することなく田中は死去した。加害者が古河鉱業と断定されたのは、銅山買収から約100年後の1974年だった。ただし、稼働は1980年まで続き、東日本大震災後に渡良瀬から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀になっても影響は続いている。 |
日英同盟 | 1902年 | 第1次桂内閣の代。日本とイギリスにおける軍事同盟。義和団事件(1900年)の後、ロシア軍は南下政策で満州を占領し、撤退の約束をしたにもかかわらず、朝鮮半島まで影響力を拡大しようとしていた。これに脅威を感じたイギリスと日本の利害関係が一致。結果、日英同盟が結ばれた。この同盟により、イギリスの「光栄ある孤立」政策は終了となる。日英同盟により、日露戦争(1904年)の際にフランスはロシア側で参戦せず、日本はイギリスから戦費の調達ができた。その後、日英同盟は改正を繰り返しながら続くが、第一次世界大戦中から日本がアジアで勢力を拡大したことに伴いイギリスが関係を見直し始め、1921年のワシントン会議で締結された四カ国条約により、1923年に日英同盟は破棄された。 |
日露戦争 | 1904–1905年 | 第1次桂内閣の代。南下政策を行うロシアと日本が、朝鮮半島・満洲権益を巡って行った戦争。日英同盟の影響もあり、戦い自体は日本有利に進むが(バルチック艦隊が日本海海戦で敗北するなど)、莫大な戦費のため日本は戦争の継続が難しく、日本の依頼を受けた米大統領セオドア・ルーズベルトが仲介し、ポーツマス条約で、講和に至った。なお、ロシア側としては「ロシア第一革命」で国内情勢が混乱し、戦争の継続が難しかった。戦争の結果により日本の地位は向上し、関税自主権の回復などにも影響した。一方で、賠償金が無かったことで民衆が暴動を起こした(日比谷焼打事件(1905年))。 |
桂・タフト協定 | 1905年 | 第1次桂内閣の代。日露戦争中に桂太郎とタフトの間で結ばれた協定。秘密に行われた協定で、同盟国のイギリスにも秘匿しており、表になったのは1924年。この協定で、日米間での意図を確認しあっており、日本による韓国の保護化を進めることと、日本がフィリピン侵略の野心がない事が確認された。 |
ポーツマス条約 | 1905年 | 第1次桂内閣の代。日露戦争の結果で締結された条約。日本の依頼により、米大統領セオドア・ルーズベルトが仲介して成立した。内容は、日本の朝鮮半島における優越権、満州からの両国の撤退、樺太の北緯50度以南の領土の日本への譲渡、満州南部の鉄道及び領地の租借権など。日本に有利な内容であったが賠償金の支払いが無かったため、日比谷焼打事件(1905年)が発生した。 |
関東都督府 | 1906年 | 第1次桂内閣の代。日露戦争後、後の南満州鉄道を防衛するため、遼東半島の先端にある関東州を統治するため設置された機関。元は天皇直属の機関である「関東総督府」(1905年)であり、満州北部に戦力を持ち続けるロシアに対抗して軍政が断行されたが、市場の門戸開放を主張したイギリス・アメリカの対日感情を悪化させ、1906年には民政へ移行し、本部を移転した上で関東都督府に改められた。 |
坊ちゃん | 1906年 | 第1次西園寺内閣の代。夏目漱石の代表的な小説。当時は俳句雑誌である『ホトトギス』の附録として掲載された。 |
ハーグ密使事件 | 1907年 | 第1次西園寺内閣の代。オランダで行われていたハーグ万国平和会議で、大韓帝国が日本支配の実情を外国に訴えた事件。事件前、朝鮮半島の権益を狙うロシアは大韓帝国を会議に招き、大韓帝国は自国の外交回復を訴えようとした。しかし、現地に行くと大韓帝国は参加を拒絶され、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場となった。更に、事件の後に第三次日韓協約が締結され、大韓帝国は外交権だけでなく内政権も日本に支配される事となった。この事が大韓帝国内で暴動に発展してゆき、朝鮮統監府の長官であった伊藤博文は1909年に暗殺された(ただし、伊藤は韓国併合について懐疑的だったとの意見もある)。伊藤の死後、韓国併合(1910年)の流れは加速したが、併合自体は事件前から閣議決定されていた。 |
幸徳事件(大逆事件) | 1910年 | 第2次桂内閣の代。明治天皇の暗殺が計画された明科事件がきっかけとなり、社会主義者・無政府主義者が逮捕され、死刑を含む有期刑判決が下された事件。幸徳秋水などの社会主義者達が、明科事件を口実に明治天皇の暗殺を狙ったとして逮捕され、証拠不十分なまま24名に死刑、2名に有期刑の判決が下された(実際に死刑が執行されたのは12名)。政府による捏造による冤罪事件とされる。なお、日本では日清戦争(1894年)後に労働運動が高まり、社会主義が広まり始めていた。社会民主党、日本社会党、平民社などが立ち上げられたが、治安維持法(1900年)などで弾圧され、解散させられた。 |
韓国併合条約 | 1910年 | 第2次桂内閣の代。大韓帝国が日本に併合された条約。この条約に伴い、朝鮮は日本に支配されるようになった。朝鮮の産業振興、インフラ整備、奴隷的身分の解放(現在の北朝鮮では同様の奴隷制度が再現された)、教育改革などが行われる一方、日本への同化教育、義兵運動の弾圧などが行われた。また韓国統監府が朝鮮総督府に改変された。 |
朝鮮総督府 | 1910年 | 第2次桂内閣の代。韓国併合により朝鮮が日本領になり、それを統治するため設置された組織。第二次日韓協約で設置された韓国統監府を改変して作られおり、第二次世界大戦後に解体された。 |
工場法 | 1911年 | 第2次桂内閣の代。労働者の保護を目的とする法律。1947年の労働基準法の施行で廃止された。1880年代以降の企業勃興などで悪化した労働環境(1日16時間労働も普通だった)の影響もあり、当時は労働運動が盛り上がっていた(とくに日清戦争(1894年)で工場労働者が増えて以降)。1897年の労働組合期成会の設立もあり、運動が本格化したことで、政府も工場法案などを作成するが、財界からの反発が強く成立しない状況が続いた。日露戦争(1904年)後、熟練工を要する重工業が発展したため、企業から譲歩的が出始め、1911年にようやく成立するが、施行まで更に5年かかった。 |
青鞜 | 1911年 | 第2次桂内閣の代。女性による婦人月刊誌で、編集長は平塚らいてうと伊藤野枝。婦人問題を印象付けた。 |
辛亥革命 | 1911–1912年 | 第2次西園寺内閣の代。清に代わって中華民国が成立した革命であり、孫文の影響を受けた革命軍が武力制圧を行い、中華民国を宣言した。また、皇帝溥儀が退位し、清が滅亡した。革命前、清は義和団事件(1900年)により列強が植民地化を始めており、清王朝の支配層の満州人に対し、漢民族が反発を強めていた。一方、孫文は1894年から同士を集め、1905年には清朝打倒を目指す革命運動の指導団体、中国同盟会を日本で結成した。1911年、清が民間鉄道を国有化するため、列強から資金を借用しようとしたことが、独立すべき外国に頼ろうとしているとして漢民族の感情を悪化させ、辛亥革命が始まった。革命に対し、清は袁世凱を起用して対抗しようとするが、袁世凱は「清の皇帝退位の代わりに、自分を中華民国の大総統にする」という取引を孫文と行い、清は滅亡となった。革命後、大総統になった袁世凱は、更に皇帝に即位しようとするが、支持を得られずそのまま病死。一方、孫文も政権を取り戻そうとして失敗し、日本に亡命。1914年に孫文は中華革命党を組織した。この革命により中国の政治情勢は混乱に陥った。 |
中華民国臨時政府 | 1912年 | 第2次西園寺内閣の代。辛亥革命中に南京で成立した政府で、孫文が臨時大総統。1913年に袁世凱が中華民国大総統に就任してからは北京に移り、北京政府となった。 |
明治天皇の崩御 | 1912年 | 第2次西園寺内閣の代。1912年7月30日、糖尿病の悪化で尿毒症を併発し、59歳で崩御した。同日、大正天皇が即位。1912年7月30日は明治最後の日であり、同時に大正の最初の日にあたる。 |
江戸時代の主な政治体制について
確認しやすいよう、江戸時代の主な政治について、簡単にまとめておきます(近世のページの年表含む)。
徳川秀忠の政治(1605~1623年)
武家と公家との立場を明確化した。また、キリシタン禁制の強化・貿易の制限などの初期の鎖国体制も整えることで、江戸幕府の基礎を固めた。
政策の内容は、家康の存命中は、実質家康によるものが多いとされている。
徳川家光の政治(1623~1651年)
封建的支配体制の強化を推し進め、鎖国を完成させる。また、江戸幕府の諸体制が整った。
主な内容
- 参勤交代(制度化)
- 田畑売買禁止令
- 慶安御触書
- 寛永通宝の鋳造
徳川家綱の政治(1651~1680年)
3代将軍、家光までの武断政治から、文治政治へと切り替わる。
「殉死の禁」「末期養子禁止の緩和」「大名証人の廃止」の3つは、「三大美事」と呼ばれ、各藩の大名に一定の配慮が行われるようになった。
主な内容
- 末期養子禁止の緩和(「慶安の変」の影響で緩和された)
- 殉死の禁
- 大名証人の廃止(大名や、その上位の重臣から妻子などを人質として江戸に住まわせる制度を廃止した)
- 浪人取り締まりの緩和
徳川綱吉の政治(1680~1709年)
文治政治を推し進めた。犬公方として有名。初期の施策は「天和の治」とも呼ばれている。
主な内容
- 生類憐みの令:動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。庶民生活への影響から「天下の悪法」とも言われるが、捨て子の禁止や病人の保護など、当時は無かった福祉的な側面を整え、犯罪の抑制にもつながったとされる。
- 湯島聖堂(孔子廟)を創建:儒学(朱子学)の振興を図る
正徳の治(1709~1716年)
- 将軍:6代将軍、徳川家宣、7代将軍、徳川家継
- 主な実行者:新井白石
- 特徴:文治政治。儒教の考え方に基づいて、理想的な政治を実現しようとする。
- 結果:現実の社会状況とは食い違い成果はあまり上がらなかった。
主な内容
- 生類憐みの令の廃止
- 閑院宮家の創設
- 朝鮮通信使に対する待遇の簡素化
- 正徳小判の発行(貨幣が良質になる)
- 海舶互市新例
享保の改革(1716~1745年)
- 将軍:8代将軍、徳川吉宗
- 主な実行者:徳川吉宗
- 特徴:質素倹約を奨励
- 結果:幕府の財政は一時的に立ち直った
主な内容
- 公事方御定書の制定
- 上げ米の制
- 新田開発の奨励
- 目安箱の設置
田沼政治(1767~1786年)
- 将軍:10代将軍、徳川家治
- 主な実行者:田沼意次
- 特徴:重商主義政策
- 結果:賄賂が蔓延し、政治は混乱した(経済のインフレは諸説あり、それほど酷くなかったとの説もある)
主な内容
- 株仲間の奨励:営業を独占させ、代わりに幕府に税金を納めさせた
- 輪出を奨励(長崎貿易の奨励)
- 新しい土地の開発:蝦夷地の開発が有名。ロシア貿易を盛んにしようとするが、失脚してとん挫
寛政の改革(1787~1793年)
- 将軍:11代将軍、徳川家斉
- 主な実行者:松平定信
- 特徴:質素倹約を奨励。田沼政治とのギャップから「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と歌われた
- 結果:引き締めが強すぎた点で失敗。
主な内容
天保の改革(1841~1843年)
- 将軍:12代将軍、徳川家慶
- 主な実行者:水野忠邦
- 特徴:質素倹約を奨励
- 結果:大名・旗本・庶民と、幅広く反発されて失敗
主な内容
- 株仲間を解散させる
- 人返しの法:農村の人口減少と江戸の人口増加が財政難の原因と考え、出稼ぎを許可制にして人を農村に返した
- 上知令:江戸大阪など、高い収穫高が見込める土地を幕府の直轄地とし、代わりに収入の少ない土地を大名や旗本に与える政策。猛反発を受け失敗した。
- 外国船打払令の緩和(アヘン戦争での清の敗北の影響)
文久の改革(1862年)
- 将軍:第12代将軍、徳川家茂
- 主な実行者:島津久光、朝廷の公武合体派の公卿
- 特徴:従来のような幕府関係者以外が政治に参加
- 結果:朝廷の命令という形式になったため、幕府の権威が弱まった
公武合体、雄藩連合を目指す島津久光が江戸に下り、幕政改革を要求したことをきっかけに実施された。なお、久光が江戸に向かう前に寺田谷事件、帰京の際に生麦事件が発生している。
主な内容
- 人事改革:一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職、松平容保を京都守護職に就ける
- 参勤交代を緩和
- 西洋技術を取り入れる
参考にしたサイト
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WEBテキストのリンクまとめ
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