【歴史能力検定3級(日本史)】年表風WEBテキスト(近世)
この記事では、歴史能力検定3級(日本史)の大問3(近世)の知識を、年表風にしてまとめました(実質、自分の勉強ノートの大幅強化版です。間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです)。
WEBテキスト利用の注意点
利用上の注意点(デメリットなど)を以下にまとめました。できれば一読いただいた上でテキストをご利用ください。
近世(戦国時代~江戸時代の途中)の歴史能力検定3級(日本史)の知識
出来事・用語 | 年代 | 内容 |
寧波の乱 | 1523年 | 明の寧波で大内方の遣明船が起こした事件。応仁の乱(1467年)後、堺を拠点にする細川氏と、山口・博多などで活動していた大内氏は、それぞれ独自に明へ使節団を派遣し貿易を行い、勘合符を巡って両者は対立していた。そんな中、1523年、先に寧波に入港した大内方の遣明船に対し、細川方は賄賂を使い先に入港を進める事件が起こる。これに大内方が怒り、細川方の遣明船を襲撃した。更に、明の役人が細川方に味方した為、大内方は明の役人も殺害する。これが外交問題に発展し、対日感情の悪化も引き起こした。事件後、1536年には大内方が遣明船による貿易を再開し、博多商人が莫大な富を得た。また、この事件によって寧波に近い沿岸部で、日本人商人との私貿易・密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動へとつながっていく。 |
南蛮貿易 | 16世紀半ば~17世紀初期 | 南蛮人、中国人、ヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易。南蛮人は、ポルトガル人とスペイン人を指す。ヨーロッパの物や文化が伝えられ、鉄砲やキリスト教などは大きく影響した。また、当時の明は海禁政策で日本と貿易できなかったが、税制の関係で銀が必要であり、ポルトガル人は明の生糸と日本の銀で中継貿易をしていた。なお、16世紀の日本では朝鮮半島から伝わった灰吹法により、銀の産出量が増加し、世界の銀生産量の1/4~1/3を占めたと考えられている。世界遺産の石見銀山も代表的な産地であった。 |
鉄砲の伝来 | 1543年 | 種子島(鹿児島県)に中国船(または倭寇の船)で漂着したポルトガル人が、持参したことが伝来の始まりとされる。伝来後、和泉国の堺で量産されるようになった。 |
キリスト教の伝来 | 1549年 | カトリック教会の修道会であるイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を開始した。本国からの軍事的・経済的な支援が無かったため、宣教師たちは到着した土地の有力武将へ南蛮貿易の利益などを訴えながら、布教の許可の取得と安全の確保を行った。 |
徳川家康(当時、松平竹千代)、今川家の人質となる | 1549年 | 徳川家康(当時、松平竹千代)が、父である松平広忠の主君、今川義元のもとへ、織田信広との人質交換の形で移され、人質となった。桶狭間の戦い(1560年)で義元が織田信長に討たれた後、家康(当時、松平元康)は今川氏から離れはじめ、1561年、今川方の拠点であった牛久保城を攻撃し、今川氏からの独立を明確にする。1562年には信長と清洲同盟を結んだ。 |
桶狭間の戦い | 1560年 | 尾張国の桶狭間における織田信長と今川義元の合戦。戦いの理由には諸説あるが、近年では義元が三河支配の安定を狙った策の一環だったとも言われる。また、数に劣る信長が奇襲をしかけて勝利したとも言われているが、近年では奇襲はなかったとも言われる。戦後、今川家は没落し、信長は尾張を統一するとともに、畿内制圧への足掛かりを得る。また、徳川家康(当時は松平元康)が三河で独立を回復するきっかけにもなり、信長との清洲同盟(1562年)にもつながった。 |
第4回川中島の戦い | 1561年 | 甲斐国の武田信玄と、越後国の上杉謙信との間で、主に川中島で行われた北信濃の覇権を巡る戦い。1553~1564年まで繰り返され、第5回まで続く(実際に川中島で戦ったのは第2回、第4回)。また、一般に川中島の戦いというと、第4回を指す。第4回では謙信と信玄の一騎打ちが行われたとの話もあるが(真偽不明)、決着はつかず、両者が勝鬨を上げて退いていったといわれる。第四回の後、戦いは収束していき、直接衝突を避けるようになっていった。 |
清洲同盟 | 1562年 | 尾張の織田信長と三河の徳川家康(当時は松平家康)との間で結ばれた軍事同盟。1560年の桶狭間の戦い以降、家康が今川家と敵対関係となっていったため、西の隣国である尾張の織田家との接近を考えた事が背景となっている。同盟により、信長は、家康を今川・武田への守備として活用し、西日本の勢力拡大に集中できるようになった。また家康は、自国より強大な相手(今川・武田・北条)に対し、信長からの援助を受けて対処し、最終的には領地を奪取した。当初は対等同盟であったが、その後の信長と家康の力関係の変化もあり、徐々に実質的な従属同盟に変化。家康は実質的に信長の臣下の立場となる。 |
永禄の変 | 1565年 | 室町幕府13代将軍、足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢に殺害された事件。当時、将軍権力は失墜しており、権力は足利家から細川家へ、更にその家宰の三好家へと移っていた。そこで、義輝は幕府復権を目指し、諸大名との関係を強化、親政を推し進める。幕府と三好家は一旦協力態勢となり、幕府は義輝、実権は三好長慶が握る体制となった。しかし、長慶の病死後、長慶の後継者となった三好義継がまだ若かったことを、義輝は好機とみて勢力拡大を図り、三好方との対立構造が発生する。事件により三好義継・松永久通らが義輝を殺害。また、三好三人衆が足利義栄を次期将軍に擁立した。その後、三好家中でも対立関係が表面化し、三好三人衆と松永久秀は対立。更に、足利義栄と足利義昭の間で将軍の跡継ぎ問題も発生した。 |
15代将軍、足利義昭が将軍となる(室町幕府最後の将軍) | 1568年 | 織田信長と合流し、信長に擁立されることとなった足利義昭が上洛し、第15代将軍に就任した。就任後、義昭は信長と対立し、武田信玄・浅井長政などと信長包囲網を築き上げ、一時は信長を追い詰める事もあった。1573年、信長に京都を追われ、これをもって室町幕府滅亡とするのが一般的であるが、征夷大将軍の地位は継続しており、朝廷に地位を返上した1588年が室町幕府滅亡とする説もある。なお、室町幕府滅亡後も、朝廷や豊臣秀吉から最後まで好待遇であった。 |
比叡山延焼き討ち | 1571年 | 比叡山延暦寺を、織田信長が攻めた戦い。当時、足利義昭を上洛させて第15代将軍に就けた信長は、畿内の大名に上洛を求めたが、朝倉氏だけはこれに従わず、戦いが始まった。味方と思っていた浅井長政に信長は攻められるものの、浅井長政と朝倉義景を追い詰める(姉川の戦いなど)。この際、両者が延暦寺に避難すると思われたため、信長は延暦寺に対し「浅井氏・朝倉氏を保護しない事」「浅井氏・朝倉氏に協力したら焼き払う事」などと書いた書簡を送った。しかし、延暦寺はこの書簡を無視し、浅井長政・朝倉義景を保護した為、信長が激怒し焼き討ちに至った。焼き討ちの後、延暦寺の寺領・社領は信長に没収され、武将に配分された。延暦寺の再建が始まったのは1584年で、生き残った僧侶達が豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に僧兵を置かない事を条件に再建の許可と寄付を取り付け、実現した。なお、この戦いで信長軍は延暦寺を焼き払い、女子供も皆殺しにしたとされるが、近年の発掘調査では、延暦寺の施設の多くは以前から廃絶していた可能性があるという。 |
三方ヶ原の戦い | 1572年 | 武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加しようと上洛中の武田軍を、徳川・織田の連合軍が迎え撃った。結果は、ほぼ武田軍の狙い通りに進み、徳川・織田軍が敗退。ただし、戦闘開始時刻が遅かったこと、本多忠勝などの武将の防戦で、家康は生き残った。圧勝した信玄だが、病状が悪化し、1573年に撤退し、その年に没した。その後、長篠の戦(1757年)で、今度は武田軍が敗北し、滅亡へつながる。余談だが、自身の慢心を戒めるため、三方ヶ原の戦いの直後の家康を描いたとされる「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は逸話と共に有名だが、近年では「後世に描かれたのでは?」「そもそも三方ヶ原とは関係ないのでは?」との指摘がされている。 |
室町幕府の滅亡 | 1573年 | 織田信長に第15代将軍、足利義昭が京都を追われ、これをもって幕府滅亡とするのが一般的である。また、征夷大将軍を朝廷に返上した1588年を室町幕府滅亡とする説もある。 |
安土城 | 1576年 | 琵琶湖東岸、近江国の安土山に織田信長が築いた城。軍事拠点より、政治的機能を優先して作られたとされる。城下町には楽市令が出され、市場の振興が促された。山崎の戦いの後、安土城の天主と周辺の本丸などは焼失したが(焼失後も城としての機能は果たしていた)、その原因は不明で、明智光秀軍の敗走に伴う放火、織田信雄軍による放火、略奪目的の放火など諸説ある。 |
長篠の戦い | 1576年 | 織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼軍による合戦。戦いの原因は、家康の領地である三河の重要拠点、長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたこととされる。「鉄砲三段撃ち」で有名であったが、『信長公記』には明確な記述は無く、実在したかは疑問視されている。 |
信長の楽市令 | 1577年 | 美濃国・近江国・安土などに信長は楽座令を発令し、自由な商売を認めることで、市場振興を図った。なお、楽市令は1549年に六角定頼が発令したものが最初とされる。 |
信長が本願寺の顕如と講和 | 1580年 | 石山合戦の終結の際、信長との間で行われた講和。1570年より、当時の経済の中心地で、天然の要塞であり、朝廷を牽制・監視できる場所に拠点を作りたいと思っていた織田信長は、石山本願寺の明け渡しを一方的に迫っていた。結果、石山合戦となり、浄土真宗本願寺勢力と信長は10年にわたり戦いを続けていた。最終的に、信長は兵糧攻めを行う。本願寺側についた毛利水軍が食料の輸送路である川を守るが、信長の軍艦により撃破され、本願寺法主の顕如は1580年に石山本願寺を信長に明け渡した。戦後、秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築城(1583年)した。 |
天正遣欧少年使節 | 1582年 | 九州のキリシタン大名、大友義鎮・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。1590年に帰国するも、既にバテレン追放令を発した後であったため、布教は許されなかった。 |
本能寺の変 | 1582年 | 織田信長が京都に滞在中、明智光秀が謀反を起こし、信長を自害に追い込んだ事件。信長は中国征討中の豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)を援助するため出陣の途中であった。変の後、秀吉は中国大返しをして、山崎の戦いで光秀を破り、天下人として前進していくこととなる。 |
山崎の戦い | 1582年 | 本能寺の変を受け、中国征討中の羽柴秀吉が毛利氏と和議を結んで引き返し(中国大返し)、山城の山崎で明智光秀を破った戦い。戦いの後、織田家の跡継ぎ問題を話し合う「清洲会議」が開かれた。また、秀吉は信長の後継者として勢力を増していくこととなる。 |
清洲会議 | 1582年 | 織田家の跡継ぎ問題と、領地再分配を話し合った会議。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人だが、勝家は山崎の戦いに参戦できなかった為、領地再分配では他の3人よりも領地が少なかった。また、後継者に選ばれた織田秀信が幼かった為、織田信長の側近、堀秀政が代官・守役となった。 |
太閤検地 | 1582年 | 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が日本全土で行なった検地。1598年に秀吉が死ぬまで続いた。従来の貫高制(土地の面積に応じて徴収)から、石高制(土地の生産性に応じて徴収)に切り替えた事で、年貢徴収の効率性を高めた。また、土地の耕作者が土地の所有者としてみなされた事で、表向き荘園制が無くなった(実態としてはその後も農村内で様々な権利関係が残った)。更に農民が農地の所有権を認められ年貢納入の義務を負わされることで、刀狩と併せて兵農分離も促進した。 |
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い | 1583年 | 賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。背景として、清洲会議で信長の後継者にまだ幼い織田秀信を擁立しようとしたことで、秀吉と勝家の間で論争が起こっていた。結果、秀吉が推薦した秀信が擁立されたが、織田家内部は二分され、戦いへと至った。戦いの結果、勝家は自害。一方、秀吉はこの戦いに勝利し、天下人へ前進した。 |
大阪城 | 1583年 | 石山本願寺の跡地に築かれた城。豊臣政権による諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。しかし、秀吉の関白時代は京都の聚楽第、関白引退後は伏見城で政務にあたっていた為、大阪城はあまり利用されていない。大坂冬の陣、大坂夏の陣では戦場となった。 |
小牧・長久手の戦い | 1584年 | 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康陣営で行われた織田家の後継者争いの戦い。賤ヶ岳の戦いで、信長の三男である織田信孝や柴田勝家を破った秀吉は、当時織田家の実質的な後継者となっていた。また、「清洲会議」で、表向きの後継者は当時3歳であった織田秀信となっていた。これに対し、信長の次男、織田信雄が反発。信雄は家康と同盟を結び、更に反秀吉派の勢力を使い、秀吉勢力を包囲した。一方の秀吉は信雄を倒す為、信雄の家臣を寝返らせるが、これに信雄が怒り戦いとなる。長久手の戦いで、秀吉軍は家康軍に壊滅に追い込まれるものの、秀吉は信雄の領土であった伊勢を攻め和睦に持ち込んだ。ちなみに、戦いの後、家康は秀吉の大軍から総攻撃を受ける可能性が高かったものの、1586年に最大震度6と思われる大地震に見舞われ、秀吉軍は大きく被災。戦いどころではなくなったところで、家康が豊臣氏に臣従することを表明し、豊臣政権に加わった。 |
(羽柴秀吉の)四国攻め | 1585年 | 当時、四国で最大勢力を誇っていた、土佐の長宗我部氏と、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)との間の戦い。当初は秀吉、長宗我部元親ともに交渉による和解を目指していたが、領土の対立により交渉は決裂した。元親の降伏により秀吉の四国平定が完了。元親は土佐一国20万石のみとなり、豊臣政権下の一地方大名となった。 |
秀吉、関白に就任 | 1585年 | 武士として初の関白就任。就任前、羽柴秀吉が内大臣に昇進した事に伴い、二条昭実と近衛信輔の間で関白の地位を巡る争いが発生していたが(関白相論)、これに秀吉が介入し、結局秀吉が関白に就任した。なお、豊臣姓を賜ったのは翌1586年で、この年に太政大臣にもなった。ちなみに、1591年に秀吉の養子、豊臣秀次が関白職を継いでおり、武士で関白に就任したのはこの二名のみである。 |
聚楽第 | 1586年 | 豊臣秀吉が京都に建てた政庁・邸宅であるが、8年で取り壊されたため不明な点が多い。九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、後陽成天皇の行幸を迎えている。 |
バテレン追放令 | 1587年 | 豊臣秀吉が出したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。追放令の原因には「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していた」「キリスト教徒が神道・仏教を迫害した」「一向一揆を恐れた」など諸説がある。なお、ポルトガル国王セバスティアン1世は、大規模な奴隷交易がカトリック教会への開宗に悪影響を与えると考え、1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令していたが、秀吉が知っていたかは定かではない。 |
惣無事令 | 1587年 | 豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令。あくまでも天皇の命令という立場を掲げ、大名を従わせて支配下に置いた。惣無事令に違反した者には、軍を動員した包囲攻撃・一族皆殺しを含む死罪・所領没収・減封・転封といった厳罰を与えるようにした。この事から、惣無事令により天下統一が成り立ち、豊臣政権の支配原理となったとする説もあるが、惣無事令以前にも権力者が出した停戦令は数多くあり、異論もある。 |
(豊臣秀吉の)刀狩令 | 1588年 | 豊臣秀吉による武士以外の武器所有を放棄させた政策であり、全国で兵農分離を進めた。なお、刀狩については戦国時代の諸大名によって行われており、記録上初見は1228年に、第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して発令したもの。 |
小田原攻め | 1590年 | 豊臣秀吉が、小田原北条氏(後北条氏)と戦った合戦。北条氏と真田氏(上杉氏)の領土紛争における秀吉の裁定の一部に北条家の家臣、猪俣邦憲が不満を持ち、独断で名胡桃城を攻撃したことが惣無事令違反と見なされ、北条氏が豊臣氏の軍事力による攻撃を受けた。北条氏直は、和解に向けて弁明した書状を秀吉に送るが戦いは避けられず、開戦の責任により、北条氏政と弟の北条氏照は切腹。北条氏の旧領は徳川家康に割譲された。 |
文禄・慶長の役 | 1592~1593年 | 豊臣秀吉が明の征服を目指し、明の冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれ、始まった戦い。16世紀で世界最大規模の戦争。文禄の役では、朝鮮の李舜臣率いる水軍に反撃され撤退、慶長の役では、苦戦の中で秀吉が病死したことで撤退となった。戦争により、明と朝鮮は深刻な財政難となり、豊臣家にも家臣団の内紛をもたらした。なお、戦いに伴い朝鮮から連行された陶工たちが優れた陶磁器技術を日本に伝えた事で、後に唐津焼や有田焼などが作られるようになる。 |
リーフデ号事件 | 1600年 | 豊後国にオランダの商船、リーフデ号が漂着した事件。この事件で、初めてオランダ船が日本に到着した。生存した乗組員の多くは日本に留まることを選び、帰国しようとした船長は途中で死亡、航海士は結局日本に戻り貿易をおこなったため、リーフデ号の乗組員で帰国した者は誰もいなかった。ちなみに、徳川家康は関ヶ原の戦いに、リーフデ号の備砲や砲員を活用したとされる。 |
関ヶ原の戦い | 1600年 | 徳川家康を中心とした東軍と、石田三成を中心とした西軍による戦い。なお、西軍の総大将は、毛利輝元。東軍が勝利し、西軍側の大名は所領を没収され、大名及びその家臣の多くが浪人となった。また、この後、1603年に家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
朱印船貿易 | 1601–1635年頃 | 日本人が東南アジア諸国へ出向いて行った貿易。貿易には、幕府から朱印状を発行してもらう必要があった。なお、明は解禁政策のため、朝鮮は対馬藩が貿易を独占していたため対象外。朱印船制度が完成したのは1604年。1620年代以降、東南アジアの紛争に巻き込まれる事件が多発し、また、朱印船を利用して日本人キリスト教徒を日本へ送り込む布教活動が行われたため、貿易の管理が強化されていく。1635年、全ての日本人の東南アジアへの渡航と帰国が全面禁止され(第3次鎖国令)、終了する。 |
かぶき踊り | 1603年 | 出雲阿国が「ややこ踊り」を基に創始したとされる。また、後に様々な変遷を経て、現在の歌舞伎となっていったとされる。 |
糸割符制度 | 1604年 | 初代将軍、徳川家康の代。糸割符仲間に、外国生糸の価格を決めさせ、一括購入させたものを、一般の商人に売りわたす制度。目的として、生糸の輸入に外国商人が値段の決定権を有し、利益を独占していた事に対抗しようとした事があげられる。 |
朝鮮通信使(江戸) | 1607年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。朝鮮から日本への外交使節団。1607年に江戸時代で最初の使節団が幕府に派遣され、秀忠に国書を奉呈し、帰路では駿府で家康に謁見した。尚、朝鮮通信使自体は室町時代からあったが、文禄・慶長の役で関係が悪化し、中断されていた。一方、幕府は朝鮮半島との速やかな国交回復を目指していたため、通信使の復活が実現した。 |
己酉条約 | 1609年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。対馬の宗氏と朝鮮で結ばれた条約。この条約により、釜山には倭館が設置され、文禄・慶長の役で絶えていた朝鮮との貿易は、対馬藩が独占的に担う形で再開された。また、朝鮮との外交実務も対馬藩が担った。 |
琉球侵攻 | 1609年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。薩摩の島津氏が行った琉球王国に対する軍事行動。中山王府は一貫して和睦を求め、全面的な抵抗を試みることはなかった。この侵攻で、琉球は幕藩体制に入ったが、王国体制や中国との関係も維持された。尚、琉球国王即位の際には「謝恩使」、幕府将軍代替わりの際には「慶賀使」が派遣された(通信使と混同しないよう注意)。 |
オランダ商館が平戸に開かれる | 1609年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。オランダ船が平戸に入港したことに伴い設置される。以後長崎の出島に移転するまでの33年間、日本で唯一のオランダ貿易港であった。 |
キリスト教の禁教令 | 1612年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。キリスト教を禁止する法令。鎖国政策の一環でもある。キリスト教宣教を禁止する法令であれば、1587年にもバテレン追放令が出されていたが、禁教令によりキリスト教に対する本格的な宗教弾圧と、キリスト教徒の仏教への強制な改宗が行われた。背景として、キリシタンによる幕府支配に対する拒否や、1609年のマードレ・デ・デウス号の事件の事件処理で、キリシタン大名とキリシタンの目付約の収賄事件が発生した事も影響している。 |
鎖国(法令の出た時期) | 1612頃-1673年頃 | 2代将軍、徳川秀忠の代~5代将軍、徳川綱吉の代。複数の法律により、貿易などを管理・統制を実施した対外政策およびその体制。主な内容は、1612年の禁教令。1624年のスペインの来航禁止。1633年の奉書船以外の渡航禁止(第1次鎖国令)。1635年の全ての日本人の東南アジアへの渡航と帰国の全面禁止と、外国船の入港を長崎のみに限定(第3次鎖国令)。1639年のポルトガルの来航禁止(第5次鎖国令)。1673年にイギリスからの交易再開を拒否してから、100年以上はオランダ以外のヨーロッパからの来航が無くなった。 |
慶長遣欧使節 | 1613年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。伊達政宗がルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、フェリペ3世、およびローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した使節。日本でのキリスト教取り締まりに伴って、外交交渉は成功せず、常長は帰国2年後に没し、ソテロは日本に潜入するが捕まり、火刑となった。 |
大坂の陣 | 1614–1615年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。江戸幕府と豊臣家との合戦。大坂冬の陣と、大坂夏の陣から成る。豊臣家への忠誠心をもつ大名がまだ残っていたことから、豊臣家滅亡を狙い、方広寺鐘銘事件をきっかけに始まった。この戦いにより、豊臣家は滅亡した。 |
武家諸法度 | 1615年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。諸大名の統制のための武家法。内容には、文武や倹約の奨励といった規範、大名同士の婚姻の許可制、罪人を匿うことの禁止、居城修補の届出制などがあった。このうち、居城修補の届出制などは、大名の減封や改易に用いられた。後に、参勤交代、殉死の禁止、末期養子の緩和など、1717年まで改訂が行われた。 |
禁中並公家諸法度 | 1615年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。禁中及び公家に対する法令。この法令により、天皇の石高は中堅大名以下になり、朝廷の権力は失われていった。 |
大目付 | 1632年 | 3代将軍、徳川家光の代。大名・高家及び朝廷を監視し、謀反から幕府を守る監察官。江戸時代中期になると、伝令や江戸城中での儀礼官としての役割が中心となっていった。なお、幕府以外にも、同様の役職を置く藩があった。 |
参勤交代 | 1635年 | 3代将軍、徳川家光の代。原則として1年おきに大名が江戸に滞在する制度(一部の藩には例外あり)。江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に住む必要があり、また江戸までの旅費・江戸の滞在費を大名が負担する必要があったため、各藩の財力を削ぐとともに、人質を取った。1722年の上米の制では、石高1万石に対し100石の米を納めると、江戸滞在期間を半年にできる例外的措置があった。また、1862年には参勤交代の頻度が3年に100日に変更された。 |
寛永通宝 | 1636年 | 3代将軍、徳川家光の代。江戸時代全体を通して広く流通した銭貨で、幕末まで鋳造が続いた。寛永通宝が登場するまでの銅銭は、江戸を中心に東国では明銭である永楽通宝が使われていた。 |
寺請制度 | 1640年 | 3代将軍、徳川家光の代。幕府による宗教統制の制度で、寺請証文を受けることを義務付ける事で、キリシタンではないことを証明させた。この制度により、民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度とも呼ばれることがあるが、厳密には両者は別物。 |
田畑売買禁止令 | 1643年 | 3代将軍、徳川家光の代。農民が自分の田畑を売買する事を禁止する法令。1642年の寛永の飢饉の際、田畑の売買で農民の格差が拡大したことが背景となっている。しかし、質流れなどで実際は田畑の売買が継続的に行われ、江戸中期になると、法令違反の訴えがない限り容認された。 |
慶安御触書 | 1649年 | 3代将軍、徳川家光の代。農民統制のための法令で、百姓の贅沢を戒め、家業に精を出すよう求めたもの。ただし、原本が発見されておらず、現在は偽書説や、実在性を疑う意見もある。 |
浮世絵 | 17世紀後半~ | 江戸初期に成立した、絵画の様式の一つ。菱川師宣が確立者とされる。その他、主な作家に喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽、歌川広重、歌川国芳など。 |
元禄文化 | 17世紀後半~18世紀初頭 | 裕福な町人や武士が主体となった、活気に満ちた文化で、上方(京都や大阪)を中心に栄えた。現世を肯定的に捉え、現実的・合理的な考え方による作品が生まれた。代表作は『浮世物語』、井原西鶴の『好色一代男』、近松門左衛門の『曽根崎心中』、尾形光琳の『紅梅白梅図屏風』、菱川師宣の『見返り美人図』など。 |
囲米 | 17世紀後半~ | 幕府や諸藩で米などを貯蔵し、万が一に備えた制度。幕府が発令したものは1683年が最初とされ、その後もたびたび発令された。とくに松平定信の寛政の改革の際のものが有名で、この時は七分積金(天災などに備えてお金を積み立てる制度)とセットで行われた。 |
慶安の変(由井正雪の乱) | 1651年 | 3代将軍、徳川家光~4代将軍、徳川家綱の代。由井正雪を中心とした浪人が起こした事件。当時、武断政治での大名への抑え込み(末期養子(死に際に養子を取る事)の禁止など)により、多くの大名が減封・改易され、浪人の数が激増していた。また、家光が48歳で病死し、11歳の家綱が将軍を継ぐこととなった事が契機となった。結果、軍学者で浪人の支持を集めた由井正雪が、幕府の転覆を計画する。しかし、計画は露見し、由井正雪は自害した。この事件と、翌年の承応の変は、政策の見直しにつながり、武断政治から文治政治への転換点ともなった。 |
大日本史 | 1657年 | 4代将軍、徳川家綱の代。日本の歴史書で、御三家の水戸徳川家当主、徳川光圀が1657年から編纂に着手した。光圀の死後も水戸藩の事業として継続され、明治時代に完成した。 |
シャクシャインの戦い | 1669年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。アイヌのシャクシャインを中心とした松前藩に対する武装蜂起。原因は1648年頃から発生していたアイヌ同士の抗争に遡る。この抗争は、松前藩の仲介で一度は収まったものの、1665年に再び対立が激化、片方のアイヌ民族集団(シュムクル)の首長であるウタフが松前藩に武器を借りようとする。しかし、これを松前藩が拒絶し、そのタイミングでウタフが疱瘡で死亡する。これが「松前藩による毒殺」と誤報され、アイヌの松前藩・和人に対する敵対感情を煽る。結果、対立していたアイヌ同士がシャクシャインを中心に団結し、松前藩への武装蜂起へ至った。松前藩は和睦の話を持ちかけ、その宴席でシャクシャインをはじめ、アイヌの首長を殺害。戦後、松前藩は蜂起したアイヌ以外も含め、対アイヌ交易で絶対的な主導権を握った。 |
東廻海運 | 1671年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。幕府の命で河村瑞賢が開発した輸送航路による海上輸送。日本海沿岸の酒田から津軽海峡を経由し、東北地方と江戸とを結ぶ。しかし、必ずしも航海の安全が保証されなかったため、西廻海運ほどには発達しなかった。 |
西廻海運 | 1672年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。幕府の命で河村瑞賢が開発した輸送航路による海上輸送。日本海沿岸を西廻りに、酒田から佐渡小木・能登福浦・下関などを経由し、大阪へと向かい、紀伊半島を迂回して江戸へと結ぶ。瑞賢は、東廻海運と比較し距離は倍以上になるが、安全性で勝る西廻海運を採用した。 |
貞享暦 | 1685–1755年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。和算家の渋川春海によって作られた暦。これにより、平安時代から823年続いた宣明暦の改変に至った。同じく和算家で算聖と言われる関孝和も改暦の機会をうかがっていたが、渋川に先を越され、暦学においては功績をあげられなかった。 |
生類憐みの令 | 1687年頃 | 5代将軍、徳川綱吉の代。動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。成立時期は明確でないが、1687年には綱吉が「人々が仁心を育むように」と生類憐れみの政策を打ち出したとされる。行き過ぎた内容から「天下の悪法」とも言われる反面、福祉的な側面もあり、生類憐みの令廃止後も、捨て子の禁止や病人の保護などの法令は残された。 |
奥の細道 | 1689年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。1689年から旅に出て書き始め、1702年に刊行された松尾芭蕉による紀行及び俳諧の文書。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という冒頭の文章で有名。ちなみに、芭蕉が崇拝した西行の500回忌のタイミング(1689年)に合わせての旅だった。余談だが、狒々山も、西行は小者っぽくて人間臭いエピソードが多いため、そこそこ好きな歴史上の人物である(崇拝はしていないか……)。 |
湯島聖堂 | 1690年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。徳川綱吉によって建てられた孔子廟で、世界最大の孔子の銅像が祀られている。後に幕府直轄の学問所となった。 |
元禄小判 | 1695年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。勘定吟味役の荻原重秀が、従来で回っていた慶長小判を回収し、金の含有量が少ない元禄小判の製造を行った。貨幣の水増しにより、一時幕府は大きく利益を上げた。また、従来は過度なインフレが庶民の生活を圧迫したとされていたが、近年の研究では11年間のインフレ率は名目で平均3%程度と推定され、庶民への影響は少なかったとも言われる(改鋳直後の米価の高騰は冷夏によるもの)。その後、綱吉時代の死後、新井白石らがこの政策を転換し良貨政策を行うが、経済停滞が停滞したとも言われ(逆の意見もある)、「白石デフレ」とも呼ばれる。 |
農業全書 | 1697年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。出版されたものでは日本最古の農書。作者は宮崎安貞。付録は草本学者で有名な貝原益軒の兄、貝原楽軒の著。明の『農政全書』から多くの知識を得た書物だが、内容は日本の事情に合うように編集されている。日本の農業に大きな影響を与え、明治に至るまで何度も刊行された(現在もKindleで読める)。 |
赤穂事件 | 1702年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。江戸城の松之大廊下で、吉良義央を斬りつけたとして、赤穂藩藩主の浅野長矩が切腹させられた事件と、その後、取り潰された赤穂藩の旧藩士の一部である47人が、咎めの無かった義央を恨み、吉良邸に討ち入って義央らを殺害した事件。討ち入りした内46名は切腹となった。なお、浅野長矩が吉良義央を斬りつけた理由は不明。47人が討ち入りした理由には諸説あり、近年では「あだ討ち」という形を取る事で殺人罪を逃れつつ、浪人にならず再仕官しやすいようアピールするための活動であったとの説もある。なお、1748年以降に『仮名手本忠臣蔵』として 人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として上演される(創作なので、史実とは異なる部分もある)。 |
大和本草 | 1709年 | 本草学者の貝原益軒が編纂した本草書。明治時代に西洋からの書籍が輸入されてくるまで、日本史上最高峰の生物学書であり農学書であった。薬用植物(動物、鉱物も含む)・農産物・雑草など1,362種が掲載されていた。 |
正徳の治 | 1709–1716年 | 6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継のもと、新井白石が進めた文治政治。荻原重秀の元禄小判で発生していたインフレ(実際には大したことは無かったとの説もある)を抑えるため、良貨政策(貨幣の質を上げる)を行った(成否については、意見が分かれる)。良貨政策は、新井白石が罷免された後も吉宗が引き継いだ。また、正徳の治では貿易制限も行われ、海舶互市新例により国際貿易を制限。これにより、密貿易の防止や、銅の輸出抑制による貨幣価値安定が目指されたとされる。その他、閑院宮家の創設や、生類憐みの令の廃止、朝鮮通信使の経費削減なども行われた。 |
閑院宮家(かんいんのみやけ) | 1710年 | 6代将軍、徳川家宣の代。新井白石による「正徳の治」の一環。白石が皇統を維持する目的で設立された第四の世襲親王家。なお、仁孝天皇以来、閑院宮の血統が現在の皇室までの皇統として続いている。 |
海舶互市新例 | 1715年 | 7代将軍、徳川家継の代。新井白石による「正徳の治」の一環。輸出銅の不足によるトラブル解消のため、国際貿易額を制限するために制定した。また、密貿易取り締まりのため、信牌(通商許可証)の発給をした。実際の目的は、銅の輸出抑制により貨幣価値を安定させること、密貿易の防止、貿易から農業への回帰だったとされる。 |
享保の改革 | 1716~1745年頃 | 8代将軍、徳川吉宗の代。吉宗の幕政改革であり、寛政の改革(1787~1793年)・天保の改革(1841~1843年)に並ぶ三大改革の1つ。主な内容は、公事方御定書、上米の制、相対済令、新田開発の奨励など。また、年貢の徴収が、検見法(年毎の収穫高に応じる)から定免法(10年または20年の平均収穫高に応じる)へ変更された。幕府財政を安定させたが、農民に負担を強いる政策が行われ、また一部では実社会と逆行する政策も見られた。 |
相対済令 | 1719年 | 8代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環。金銀貸借関係の訴訟(金公事)を当事者間で解決(相対)させる事を命じた法令。背景として、武士と札差の間での金銭トラブルが多発していた(民事裁判のほとんどがこれだった)ことで、裁判が停滞していたことが上げられる。発令後、借金を踏み倒す事案が多発し、相対済令は廃止された。 |
目安箱 | 1721年 | 8代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環。庶民の意見を投書してもらうことで、政策立案や社会情勢の調査に役立てるため設置した箱とされる。これにより、小石川養生所や町火消が整備された。しかし、箱を設置した実際の目的は、政治・役人への批判を役所の前に捨てる「捨て文」対策であり、庶民のガス抜きや、役人による統制に利用された。そのため投書のほとんどは無視されていった。なお、過去にも同様の意見募集を行う制度はあったが、「目安箱」というと一般に享保の改革で設置されたものを指す。 |
小石川養生所 | 1722年 | 8代将軍、徳川吉宗の代。江戸に設置された無料の医療施設。幕末まで貧民救済施設として機能した。明治政府の漢方医廃止の方針によって閉鎖され、1877年に東京帝国大学に払い下げられ、理学部に組み込まれた。なお、設立には目安箱の投書が影響している。 |
上米の制 | 1722年 | 8代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環。領地1万石につき100石を納める代わりに、参勤交代で江戸に滞在する期間を1年から半年に減らす制度。幕府の増収に貢献したが、幕府権威の低下、江戸での経費削減による諸大名の経済力の拡大にもつながり、結果1730年には廃止された。 |
足高の制 | 1723年 | 8代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環。江戸幕府の各役職に就く際に、禄高が基準以下の者は、在職中のみ不足分の禄高を幕府から支給される制度。優秀な人材を登用することを目的としたが、幕府財政が逼迫する要因にもなった。 |
青木昆陽の登用 | 1739年 | 8代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革において、飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培の研究を命じられた人物。甘藷先生とも呼ばれた。なお、薩摩国では当時既にサツマイモが普及していたと推測され、飢餓から人々を救っていたといわれる。 |
公事方御定書 | 1742年 | 8代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環。幕府の司法に関する基準を定めた法典。刑罰の基準を定めることで、刑事裁判の公平性と迅速化に寄与した。また、この法典ではじめて更生の概念が取り入れられた。 |
寄席 | 18世紀中頃~ | 技芸を見せる興行小屋。18世紀中頃の演目は、浄瑠璃・小唄・講談・手妻(手品)など。18世紀後半以後は落語が主流となった。常設小屋になったのは19世紀初頭頃から。享保の改革(1841~1843年)で強制的に閉鎖されるが、19世紀後半には急増した。 |
田沼政治(田沼時代) | 1767–1786年 | 10代将軍、徳川家治の代。老中、田沼意次が幕政に関わっていた時代の政治。重商主義で、主な政策は、株仲間の公認、印旛沼・手賀沼干拓(農地開発)、新貨の鋳造(東西で違う通貨が使われていたものを統一した)など。当時、幕府は年貢収益が頭打ちになった状況で赤字財政を改善する必要があった。田沼が商品生産・流通・金融からの収益を得ようと多くの大胆な政策を行った事は評価されるが、失敗も多かった。また、当時から汚職政治として認識されていたが、実態はそれほど酷くはなく、政敵で後に寛政の改革を行った松平定信などが誇張した話だとする意見もある。 |
解体新書 | 1774年 | 10代将軍、徳川家治の代。日本語で書かれた解剖学書で、『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳した書物。著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。医学の発展に寄与するだけでなく、オランダ語への理解が進む事にもつながり、西洋の文物を理解する下地を作った。 |
アメリカ独立宣言 | 1776年 | 10代将軍、徳川家治の代。北米13植民地が独立する。当時の日本はアメリカとの直接の外交・貿易はなく、独立宣言が持ちこまれることもなかった。 |
天明の大飢饉 | 1782-1788年 | 10代将軍、徳川家治の代~11代将軍、徳川家斉の代。江戸四大飢饉の1つ。近世最大の飢饉。当時、田沼政治の重商主義政策で、稲作の行きすぎた奨励(当時のイネの品種は冷害に弱い)が行われていたことや、備蓄米を江戸へ回送するなど失政が重り、米価が上昇。結果的に飢饉が全国規模に拡大した。 |
寛政の改革 | 1787–1793年 | 11代将軍、徳川家斉の代。老中、松平定信による政治。家斉が将軍に就任し、徳川家治の時代に老中だった田沼意次を罷免し、代わって白河藩主の松平定信を老中とし、改革を行わせた。主な政策は、囲米、七分積金、旧里帰農令、棄捐令、人足寄場、寛政異学の禁など。次第に家斉や大奥と対立するようになり、定信は6年で老中を解任された。田沼政治と寛政の改革は、庶民の歌でも比較され「田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水」と期待されていたが、最終的には「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」と歌われるくらいに、庶民からも不満が出ていた。 |
尊号一件 | 1789–1793年 | 11代将軍、徳川家斉の代。光格天皇が、父の閑院宮典仁親王への尊号贈与を行おうとした際、松平定信にと揉めた事件。光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇が崩御した際に養子となって即位した。これに伴い「父よりも自分の位が上になってしまった」「禁中並公家諸法度での父の序列が、臣下である摂関家よりも下」という状況に不満を抱く。その為、光格天皇は典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとした。これに対し、定信は「皇位についていない人に皇号を贈るのは先例がない」と反対。朝廷と幕府の間で論争となった結果、天皇側に1000石の加増などの待遇改善を行い、尊号贈与は行わない事で終結した。しかし、同時期に家斉が、実父の一橋治済に「大御所」の尊号を贈ろうしており、これが定信による尊号拒否のため、同様に拒否せざるを得ない状況に置かれた。更に、定信にとって治済は政敵であったため、治済への尊号拒否が家斉の不興を買う。結果、家斉と定信の関係が悪化し、定信の老中解任につながった。 |
棄捐令 | 1789年 | 11代将軍、徳川家斉の代。松平定信の寛政の改革の一つ。金銭的に困窮していた旗本・御家人を助けるため、札差に債権放棄・債務繰延べをさせた法令。背景として、当時の利率が年利18%と高いため一度借金をすると返せなくなる事、旗本・御家人の財政基盤が弱かったことがあげられる。天保の改革や文久年間でも同様の法令が出された。徳政令に似ているが、あくまで対象は旗本・御家人に限定された。ただし、札差の貸し渋りや廃業を招き、結局旗本・御家人からも不満が出た点では徳政令と似ている。なお、幕府のみならず、松江藩・加賀藩・佐賀藩などでも棄捐令が出された。 |
旧里帰農令 | 1790年 | 11代将軍、徳川家斉の代。松平定信の寛政の改革の一つ。田沼政治で没落した地方の本百姓が、江戸へと大量流入していたことから農民の帰農を奨励し、また出稼ぎを制限した。しかし、強制力が弱く、多くの農民は江戸にとどまった。 |
人足寄場 | 1790年 | 11代将軍、徳川家斉の代。松平定信の寛政の改革の一つ。無宿人(軽犯罪者や、勘当され戸籍から外された人)の養成所。職業訓練などの教育的・自立支援的なアプローチを取り入れようとしたことは世界でも画期的であった。享保の頃から無宿者達が増加し、また天明の飢饉から治安が悪化していたことが背景にある。 |
寛政異学の禁 | 1790年 | 11代将軍、徳川家斉の代。松平定信の寛政の改革の一つ。幕府直轄の『昌平坂学問所』における学問を朱子学のみとし、他の学問を禁じた。上下関係の秩序を重んじた朱子学は、徳川家康の林羅山登用から江戸幕府に重要視されてきた。しかし、徳川吉宗が朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したことで、朱子学は不振となってきていた。なお、幕府の教育機関での異学は禁じられたが、その他は異学派の学問が禁じられたわけではない。 |
古事記伝 | 1790年頃 | 11代将軍、徳川家斉の代。本居宣長の『古事記』に対する註釈書。後の古代文学研究・古代史研究にも大きな影響を与えた。 |
七分積金 | 1791年 | 11代将軍、徳川家斉の代。松平定信の寛政の改革の一つ。町入用(町の運営の為、町人から徴収するお金)を削減し、災害用などで削減分の7割を積み立てた。単に備蓄するだけでなく、徴収したお金を低金利で貸し出して利益も上げ、それにより貧困者対策も行った。明治になり、七分積金を管理していた江戸町会所が廃止された後は、東京府と東京市に接収され、学校・水道・道路などの建設費に充てられたと言われる。 |
ラクスマンの来航 | 1792年 | 11代将軍、徳川家斉の代。日本人漂流民の送還と通商を求めて、ロシア人のラクスマンが根室に上陸する。これに対し、漂流民は受け取るものの、定信は即時の通商開始を拒絶し、どうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを松前藩に指示。ラクスマンは長崎への入港許可証を渡されるが、長崎へ向かわず帰国する。ラクスマンが受け取った長崎への入港許可証は、後にロシア側の正式な大使としてレザノフが所持して長崎に来航するが、レザノフは半年間実質的に幽閉され、通商も認められなかった(これが文化露寇(1806年)につながる)。 |
ハルマ和解 | 1796年 | 11代将軍、徳川家斉の代。蘭学者の稲村三伯を中心に作られた日本最初の蘭和辞典。以前より蘭和辞典作成の試みはあったが、膨大な作業量のため未完に終わっていた。三伯は蘭仏辞書(1729年出版)を日本語訳する手法で編纂に取り組み、とくに作業量が膨大だったオランダ語の単語をABC順に並べる手間を回避した。 |
近世(戦国時代~江戸時代)の主な文化について
近世の主な文化区分(江戸時代末期まで含む)についてまとめておきます。
近世の主な文化区分
- 桃山文化:16世紀後半~17世紀初頭。新興大名・豪商や、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化。建築では、姫路城、松本城、彦根城などの城郭や、近世的書院造の完成。絵画では、豪華な「障壁画」が描かれ、狩野永徳の『唐獅子図屏風』『檜図屏風』、長谷川等伯の『楓図』などが有名(障壁画に屏風絵を含めるかは意見による)。その他、出雲阿国のかぶき踊りは、後の歌舞伎の原型となり、千利休が独自の茶道を確立して侘び茶を大成、文禄・慶長の役で連れてこられた朝鮮の陶工により、有田焼などが生まれた。
- 寛永文化:17世紀前半の文化。中心は京都で、町衆と朝廷勢力が、幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出した。また後には、江戸においても儒学・武家を中軸とした文化が形成され、互いに影響しつつ各地に広がった。主な建築は、『日本庭園の最高傑作』とも言われる桂離宮や、権現造で知られる日光東照宮など(権現造は家康の神号「東照大権現」が由来と言われる)。代表的な人物は、茶の湯の千宗旦、儒学者の林羅、絵画では俵屋宗達、狩野探幽など。
- 元禄文化:17世紀後半~18世紀初頭の文化。都市町人の台頭に伴い、上方を中心に数多くの作品が生み出され、民衆の現実に根差した表現がされた(ただし、武士階級出身の担い手も多かった)。文化の中心が京都から大坂へと移り、また、元禄文化以降では江戸・東国が与える影響力も高まっていった。主な作品は浮世草子・人形浄瑠璃作者である井原西鶴の『好色一代男』、松尾芭蕉の『おくのほそ道』、人形浄瑠璃・歌舞伎作者である近松門左衛門の『曽根崎心中』、琳派の尾形光琳の、『紅白梅図屏風』『燕子花図』、浮世絵の始祖といわれる菱川師宣の『見返り美人図』など。
- 化政文化:文化文政時代(1804-1830年)を最盛期とする江戸時代後期の文化。江戸を中心に発展した町人文化で、元禄文化と対比し享楽的色彩が強いとされる。主な作品は、滑稽本では十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、式亭三馬の『浮世風呂』。読本では曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』。浮世絵では葛飾北斎の『富嶽三十六景』、歌川広重の『東海道五十三次』。俳諧では与謝蕪村や小林一茶が活躍した。また、浮世絵においては、鈴木春信が木版多色摺りの錦絵の誕生に寄与し。役者絵では東洲斎写楽が活躍し、美人画では喜多川歌麿が活躍。両者の時期に大成した大首絵は、後の役者絵・美人画に大きな影響を与えた。また、学問では国学・蘭学が大成した。
参考にしたサイト
この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。
WEBテキストのリンクまとめ
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- WEBテキスト②(中世)
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