【歴史能力検定3級(日本史)】年表風WEBテキスト(中世)
この記事では、歴史能力検定3級(日本史)の大問2(中世あたり)の知識を、年表風にしてまとめました(実質、自分の勉強ノートの大幅強化版です。間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです)。
WEBテキスト利用の注意点
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中世(平安末期~室町時代)の歴史能力検定3級(日本史)の知識
出来事・用語 | 年代 | 内容 |
往生要集 | 985年 | 比叡山の恵心院に隠遁していた源信が、多くの仏教の書物から、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書。極楽往生には、一心に念仏の行を行う事と説き、浄土教の基礎となった。 |
比叡山の円仁派と円珍派の対立が激化 | 10世紀末頃 | 比叡山の輩出した名僧、円仁と円珍の派閥に比叡山の僧がわかれて対立が激化した。円珍派は山下して延暦寺の別院、園城寺に入り独立。以後、延暦寺の円仁派は山門(山門派)、園城寺の円珍派は寺門(寺門派)と呼ばれる。対立は武装化した僧兵を生み、後に白河法皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている(山は比叡山の事)。武力を備えた事は、強訴のきっかけにもなり、白河法皇の北面の武士創設(11世紀末)にもつながった。 |
日宋貿易 | 10–13世紀 | 日本と宋で行われた貿易。平安時代の中期から鎌倉時代の中期に行われたが、日宋間での公的な国交は無かった。清盛は、貿易活性化のため、12世紀後半に現在の神戸市に大輪田泊という港を整備した。この交易により宋銭が流入したことで、貨幣経済の発展に至った。 |
枕草子 | 1001年頃 | 一条天皇の代。中宮定子に仕えた清少納言が執筆した随筆で、知性的な「をかし」の文学。簡潔な文体で、現代日本人にも読みやすい内容。ちなみに、清少納言は紫式部からは酷評されている(理由には諸説ある)。 |
源氏物語 | 1008年頃 | 一条天皇の代。中宮彰子に仕えた紫式部が執筆した長編小説で、心情的な「もののあはれ」の文学。長く読まれ続け、諸外国にも少なからず影響し、文学以外の芸術にも影響した。余談だが、平安時代には架空の物語を作る行為は仏教における五戒の1つ「不妄語戒」に反するとされ、紫式部は地獄に堕ちたと考えられた。また、架空の物語の読者も五戒に反するとされ、紫式部の霊を慰め、読者の罪障を消すため『源氏供養』の法会が度々行われた。 |
藤原道長、摂政に任命される | 1016年 | 後一条天皇(母は藤原彰子)の代。藤原氏の全盛時代。藤原道長は一条天皇に藤原彰子を嫁がせ、その子、後一条天皇を天皇に即位させることで、力を付けて実現した。また、一条天皇以外に、三条天皇、後一条天皇にも娘を嫁がせた(「一家立三后」と呼ばれる)。その後、1年ほどで摂政を頼通に譲り、後継体制を固めた。しかし、頼通が天皇に嫁がせた娘から男子が生まれず、藤原氏と血縁関係のない後三条天皇の即位(1068年)により、藤原氏は衰退していった。 |
刀伊の入寇 | 1019年 | 後一条天皇(母は藤原彰子)の代。藤原氏の全盛時代。大陸北部の女真族の一派とみられる集団を主体とした海賊「刀伊」が、朝鮮半島づたいに南下し、壱岐、対馬、九州に侵攻した事件。大宰権帥藤原隆家らが撃退するも、記録では日本人365人が殺害され、1289人が拉致されたとされる。この件に対し、朝廷はほぼ対応できず、対応は現地で行われたことから、朝廷の地方統治の杜撰さを露呈したとも評価される。後に高麗の水軍も刀伊を撃退し、その際には日本人300人ほどが返還された。なお、事件については藤原実資の日記「小右記」にも記されている。 |
平忠常の乱 | 1028年 | 後一条天皇(母は藤原彰子)の代。藤原氏の全盛時代。房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起こった反乱で、平将門の乱以来の大規模な反乱。忠常は、上総国、下総国、常陸国の広範囲の領地を持ち、国司に税を納めない等、横暴な態度をとっていた。1028年、忠常は安房国の国府を襲って安房守を焼き殺し、更には上総国の国衙を占領、上総国の国人は乱に加担し、事態は房総三カ国に広がった。朝廷は3年経っても鎮圧できなかったが、有力武士の源頼信が追討使に起用されたことで、忠常は戦わず出頭した。乱の後、平氏の多くが頼信の配下となり、東国における源氏勢力拡大につながった。 |
前九年の役 | 1051–1062年 | 後冷泉天皇の代。藤原氏の全盛時代。陸奥国の有力豪族、安倍氏が半独立的な勢力を形成し、朝廷への納税を怠る状態であったため始まった戦い。当初は安倍氏が勝利するも、長期戦となり、源頼義を出羽の豪族清原氏が助け、阿部氏を討伐した。背景として、武士の台頭がある。 |
末法思想が広まる | 1052年頃~ | 後冷泉天皇の代。藤原氏の全盛時代。釈迦の死後、悟りに至れる人がいなくなり、1500年後(または2000年後)には正しい教えが全く行われない時代が来るとする考え方。日本では1052年が末法元年とされ、人々は恐れた。また、武士の台頭に伴う治安の乱れ、仏教界の退廃は、社会情勢と末法の世のイメージを一致させたため、更に不安を煽った。結果、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生し、成仏することを説く浄土思想の流行につながった。 |
平等院 | 1053年 | 後冷泉天皇の代。藤原氏の全盛時代。藤原頼通によって創建された。翌年には西方極楽浄土をイメージした阿弥陀堂が建立されている。本尊は阿弥陀如来。現在は特定の宗派に属していない。 |
寄進地系荘園 | 11世紀後半 | 荘園の保有者が、朝廷に影響力を持つ有力者に保護してもらう形で、国司(受領)からの租税を免れるために成立した荘園。有力者に土地を寄進することで、国司から手を出されないようにして実現した。有力者には、名義貸し料を納めた。 |
延久の荘園整理令 | 1069年 | 後三条天皇の代。藤原頼通の関白在任時に違法荘園が増え、有力貴族が寄進地系荘園を増やしている状況を改善する目的もある。従来の荘園整理令よりも強固に実行するため、職務を全て中央で実施した。 |
知行国 | 11世紀末-12世紀初頭 | 有力貴族・寺社・武家などが、特定の国の知行権(その国の国司推薦や官物収得の権利)を認められ収益を得た制度、およびその国。知行国主になった者は、受領の任命権があるため、受領から収益を取る事ができた。受領は、任国に直接赴任する国司であり、実質的な国衙行政の最高責任者。ちなみに、受領は租税を私物として貸しだして利益を上げていた(受領の私財と中央への租税を明確に仕分けする制度が無かった為、命令に基づく納付があれば、受領の身勝手を罰することはできなかった)。 |
後三年の役 | 1083–1087年 | 白河天皇の代。前九年の役の約20年後、清原氏の内紛に端を発した戦い。勝利した清原(藤原)清衡は、その後平泉に移り奥州藤原氏の基礎を築く。一方、協力した源義家(前九年の役で戦った源頼義の子)は朝廷から戦いを「私戦」とみなされ、報酬はなく、陸奥守も罷免され、戦中の貢納が未納扱いになる。しかし、義家は将士に私財から恩賞を与えたことで、関東武士との結束を高め、源氏の「武家の棟梁」としての基礎を作る。 |
北面の武士 | 11世紀末 | 白河天皇の代。院御所の北面に詰め、天皇の身辺警護や、御幸の際の護衛を行った武士。院の直属軍で、主に寺社の強訴に対抗する目的で設置された。天皇に近い者(近習や寵童(男色の相手)など)から選抜され、武士団の母体となる軍事貴族も採りたてられた。1118年頃に延暦寺の強訴を防ぐため動員された人数だけで1000人規模にもなる。従来の院の警護役(武者所)は北面の武士に吸収され、また白河方法は北面の武士を検非違使に抜擢し、最高責任者である検非違使別当を介さず指示をしたことから、検非違使も形骸化していった。承久の乱(1221年)後は衰退したが、江戸時代まで残る。 |
源義親の乱(康和の乱) | 1107年 | 鳥羽天皇の代。源義家(後三年の役で活躍)の子、義親が起こした事件。1102年、義親は九州で略奪や官吏の殺害を行い、隠岐国へ流罪となっていた。しかし、義親は出雲国で再び略奪や目代の殺害を行った。父の義家は自ら子の義親追討をせざるを得なくなるが、三男と弟も騒動を起こし、それらを治めている間に死去(1106年)。結果、白河法皇は平正盛を派遣し、義親を討たせた。乱後、河内源氏は内輪もめが続き凋落。一方、伊勢平氏は平正盛の功績で台頭し、西国で勢力を拡大。平清盛の時代に全盛期となる。余談だが、京都で首が晒された義親であるが、それまで武功の少ない正盛が、剛勇で知られる義親を討ったことは疑われ、義親生存の噂が発生した。結果、4人の「義親」を名乗る者が現れ、1130年まで世が乱れた。 |
借上(かしあげ) | 12世紀頃~ | 平安時代後期~南北朝時代頃の高利貸業者。最初は米を貸したが、貨幣経済の発達後は、主に金銭を貸すようになった。担保として物品を預かる業者も現れ、担保品を保管するために土蔵を建てたことから土倉と呼ばれるようになる。読みは「かしあげ」であり、江戸時代の「借上(かりあげ)」とは別。 |
似絵(にせえ) | 12世紀後半~ | 鎌倉~南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画。写実性・記録性が強い。 |
保元の乱 | 1156年 | 後白河天皇の代。後白河天皇と崇徳上皇による権力争いに伴う戦い。崇徳上皇派には藤原頼長、源為義など、後白河天皇派には藤原忠通、信西、平清盛などが付いた。鳥羽院の崩御に伴い「藤原頼長と崇徳上皇に謀反の動きあり」と噂が流され(信西が流したとされる)、後白河天皇は藤原頼長の財産を没収。追い詰められた崇徳院と頼長は挙兵するも、夜襲をかけた後白河天皇側が1日で勝利した(崇徳上皇側でも夜襲を仕掛ける話はあったが、頼長が却下した)。戦後の武士に対する処罰は厳しく、薬子の変(810年)以来行われなかった死刑が行われた。朝廷内の抗争に、平清盛や源義朝などの武士の力を借りたため、武者の世の始まりとも言われる。乱の後、摂関家は「武力組織を解体」「忠実・頼長の持つ摂関家伝来の荘園は没官領として剥奪」「藤氏長者の人事権は天皇による任命制」との処分を受け、一気に没落した。完全な余談だが、崇徳上皇側だった鎮西八郎為朝は、あまりの強さから「ガンダム」「平安時代のモビルスーツ」と呼ばれ、流罪後も数々の伝説を作った。戦いの末に琉球にたどり着き、初代琉球王舜天の父となったという逸話もある。 |
平治の乱 | 1159年 | 二条天皇の代。後白河天上皇の側近、信西と藤原信頼の対立で引き起こされた戦い。保元の乱で後白河上皇のもとで戦った勢力が対立し、信西側には平清盛、信頼側には源義朝がついた。平清盛一行が熊野詣(院政時代(1086~1192年頃)より流行)で、都を留守にしたタイミングを、信西側が襲われた事で、後白河天皇は信頼側に幽閉され、追い詰められた信西は自害。しかし、平清盛の反撃により、信頼、源義朝も討たれた。戦後、後白河上皇の治世で平氏が勢力を増し、平家の繁栄へつながった。一方、源義朝の子である、源頼朝・源義経らは死罪にならず生き残った。 |
法然、専修念仏(称名念仏)の教えを説く | 1175年頃 | 平氏政権の代。「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依する)」と唱えることで、平等に往生できるとする「専修念仏」の考えを説き、法然が布教し始めた。1145年、法然は比叡山で修行を始めたが、『観無量寿経疏』に影響され、専修念仏(称名念仏)を奉ずる新たな宗派として「浄土宗」を開くことを決意。1175年に比叡山を下山し、活動を開始した。しかし、比叡山の考えとは相いれず、1204年、比叡山の僧徒が専修念仏の停止を迫って蜂起した。更に、後鳥羽上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の念仏法会で尼僧となった事が、上皇の怒りを買った。結果、1207年に後鳥羽上皇から念仏停止を命じられ、法然は還俗の上で、讃岐国への流罪となった(元は土佐国に流される予定だったが、法然に帰依する九条兼実の庇護で讃岐へ変更)。一連の流れを「承元の法難(1207年)」といい、弟子で浄土真宗の開祖となる親鸞も越後国へ配流となる。 |
鹿ケ谷の陰謀 | 1177年 | 平氏政権の代。後白河上皇による、平家打倒の陰謀。密告によって阻止されたとされるが、実際には延暦寺と争うことを避けようとした平清盛が、陰謀を捏造したとも言われる。背景として、朝廷の要職の座で対立した後白河上皇と清盛の間を取り持っていた平滋子が亡くなったこと、また延暦寺と揉めていた後白河上皇が清盛に助けを求め、清盛が対処に苦慮した事がある。結果として、後白河上皇は弱体化し、平氏との関係も悪化する。 |
治承・寿永の乱 | 1180–1185年 | 平氏政権の代。平家に対する不満から発生した戦いで、「以仁王の乱」から「壇ノ浦の戦い」までの源氏と平氏の戦い。治承三年の政変で後白河院政を停止させ、平家一門が政治の実権を握ったことで、反対勢力を多く生み出したことが背景にある。日本各地で反乱が発生し、挙兵した勢力には源氏が多かった。この戦いで、平氏が滅亡し、鎌倉幕府の成立へとつながる。 |
侍所 | 1180年 | 平氏政権の代。鎌倉幕府と室町幕府で、御家人の統率や、警察・軍事を担った組織。初代別当は和田義盛だが、和田合戦により義盛が討たれた後は、執権が兼ねたとされる。後に、東国の刑事事件(検断沙汰)の対応も行う。 |
問注所 | 1184年 | 平氏政権の代。鎌倉幕府・室町幕府で、訴訟事務を担った組織。ただし、裁判は行わず、あくまで事務のみであり、後に訴訟が多くなると、時間の短縮化が求められた。結果、1250年には、御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を引付衆、その他の民事訴訟(雑務沙汰)・訴訟事務は問注所、東国の刑事事件(検断沙汰)は侍所、西国の刑事事件は六波羅探題の検断奉行と、役割分担された。 |
守護 | 1185年 | 鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府・室町幕府で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官。仕事内容は主に警備や、犯罪者の逮捕などで、地頭とともに設置された。室町時代からは、税の徴収も行うようになった(守護請)。追捕使が守護の原型であるが、源頼朝が設置・任免権を得た事で、幕府に吸収されていった。守護・地頭の設置権限を得たタイミングを、鎌倉幕府成立とする説が有力。 |
地頭 | 1185年 | 初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府・室町幕府で荘園・国衙領の管理を担った職。仕事内容は主に税の徴収や治安維持などで、守護とともに設置された。在地の御家人から選ばれ、荘園・公領で武力に基づいた軍事・警察・徴税権を持たせたため、御家人の所領安堵としても機能した。設置理由には、全国統治を目的とした事と、源義経と頼朝の対立が上げられる。ちなみに、「地頭」の名称自体は10世紀初頭からあったが、制度化したのは源頼朝が朝廷から全国設置認可を得た1185年。なお、江戸時代も領主のことを地頭と呼んだ。守護・地頭の設置権限を得たタイミングを、鎌倉幕府成立とする説が有力。 |
京都守護 | 1185年頃 | 初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府の役職の一つ。京都の御家人を統率、京都市中の警護・裁判を行い、朝廷と幕府の間の連絡を担う。承久の乱後、六波羅探題が設置されたことで消滅。ちなみに、江戸幕府の職制である「京都守護職」とは別物。 |
政所 | 1191年 | 初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府と室町幕府で、政務関係の文書作成を扱った組織。公文所を吸収する形で作られた。初代別当は大江広元だが、後に執権が兼ねた。 |
栄西、帰国し布教を開始 | 1191年頃 | 初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。栄西は、形骸化していた日本天台宗を立て直すべく、1168年にも南宋に留学し禅宗を学んでいた。1187年に再び宋に向かい、天台山万年寺で学び、1191年に修行の成果を認められ(印可を受け)帰国、布教を開始した。1195年に日本最初の禅道場とされる聖福寺を建立する。栄西は、既存仏教勢力との調和・牽制も考えて行動し、1198年に『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であると説いた。栄西の教えは、日本の臨済宗となる。ちなみに、宋から帰国した際に茶の種を持ち帰り、栽培を始めたことで、武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まったとされる。 |
源頼朝、征夷大将軍に就任 | 1192年 | 初代将軍、源頼朝の代。征夷大将軍就任を鎌倉幕府成立とする説もあるが、実質的な権力(諸国への守護・地頭職の設置・任免)を得た1185年が近年は鎌倉幕府成立とみられている。征夷大将軍に、正二位(常設職で政権最高位の左大臣に相当)で就いたことは、後に征夷大将軍を「軍権に基づく政権担当者」と位置付け、幕末まで700年近く続く慣例の始まりとなった。 |
源頼家が家督を継ぎ、十三人の合議制となる | 1199年 | 初代将軍、源頼朝の急逝に伴う対応。「十三人の合議制」は幕府の集団指導体制を指す歴史学上の用語で、1200年には解体したが、評定衆(1225年)の原型となった。当時、頼家は18歳で第2代家督を継ぎ、補佐を受けながら政務を行ったが、訴訟を直接裁断することは禁じられ、有力者13人の合議で行われる事となった。この体制は、梶原景時の変やメンバーの安達盛長と三浦義澄の病死もあり1年で瓦解。その後も内部政争などが続き、最終的に2代執権、北条義時が権力を掌握した(掌握後も、北条氏と有力御家人による内紛は続いた)。 |
梶原景時の変 | 1199年 | 十三人の合議制の代。合議制に選ばれた有力御家人の梶原景時(二代将軍、源頼家の乳母の夫)が、御家人66名の連判状で幕府から追放され、一族の多くが自害した事件であり、頼朝急逝に伴う権力闘争の最初の事件。背景として、梶原景時が目付役(御家人の監視・勤務評定・取り締まりを行っており、御家人に恨まれやすい立場)だったことが上げられる。また、景時は讒言や権力欲などで、周囲から恨まれていたとも言われる(景時は、和田義盛に「一日だけでも別当になりたい」と懇願し、そのまま別当職を奪ったと『吾妻鏡』に記されている)。事件の後、合議制メンバーである安達盛長と三浦義澄の病死もあり、合議制は解体された。 |
二毛作 | 鎌倉時代頃~ | 同じ耕地で一年の間に2種類の異なる作物を栽培すること。畿内や西日本一帯で、稲を表作、麦を裏作とする二毛作が普及した。南北朝時代には、関東地方でも行われた。 |
西面の武士 | 1200年頃 | 上皇に仕えて身辺の警衛・奉仕などを行った武家集団。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したとされ、白河上皇が設置した北面の武士(11世紀末)とともに、院の武力を担った。承久の乱(1221年)の後、廃止された。 |
建仁寺 | 1202年 | 2代将軍、源頼家の代。臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。京都での布教に限界を感じた栄西が、鎌倉へ下り、1200年に頼家の外護を受け、京都に建立した。禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。建立後、栄西は朝廷からも庇護を受けた。 |
比企能員の変 | 1203年 | 2代将軍、源頼家の代。頼朝急逝後の内部政争の一つで、頼家の外戚の比企能員とその一族が、北条時政によって粛清された事件。背景として、比企能員の娘、若狭局が頼家の妾となり、嫡子を産んだ事で台頭し、頼家の母、北条政子とその父、北条時政が危機感を抱いた事が上げられる。1203年、頼家が危篤になった際に、時政らが北条政子の子・源実朝と、源頼家の子・源一幡の分割相続を決定し、これに能員が反発。若狭局を通じて、病床の源頼家に、北条時政を討つように訴え、承諾を得た。しかし、これを障子越しに聞いた政子が時政に通報し、時政は仏事の相談があるとして能員を自邸へ呼び、暗殺したとされる。ただし、上記のような『吾妻鏡』の記録は北条得宗家の側からの記録であるため、真偽には疑問があり「そもそも比企能員が北条時政を討つよう訴えた事自体が創作」とも考えられる。変の後、比企一族は滅亡し、頼家は鎌倉追放が決定された。 |
北条時政、初代執権に就任 | 1203年 | 源頼朝急逝後の内部政争に勝利し、初代執権に就いた。背景として、比企能員の変で、比企一族を滅ぼすとともに、2代将軍、源頼家を追放した北条時政が、12歳の源実朝を3代将軍に擁立し、実権を握った事が上げられる。なお、執権は鎌倉幕府の役職で、鎌倉殿の補助・政務の統轄を担った。元は政所の別当の中心人物の呼称。翌年、頼家は幽閉先で、北条氏の兵に暗殺された。 |
承元の法難 | 1207年 | 2代執権、北条義時の代。後鳥羽上皇が法然の弟子4人を死罪とし、法然や親鸞ら7人が流罪とされた事件。背景として、後鳥羽上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の念仏法会で尼僧となった事が、上皇の怒りを買った事が上げられる。また興福寺から念仏宗を非難する訴えがあり、朝廷が無視することが難しかった事も上げられる。法然は土佐へ流罪となるが、円証(九条兼実。法然に帰依していた)の庇護により、讃岐国(現、香川県。九条家領地)に配流される。一方、親鸞は越後国(現、新潟県)に配流され、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗り、非僧非俗の生活を送った。1211年、法然と親鸞は許されるものの、2か月後に法然は死去し、2人が再開することは無かった。 |
和田合戦 | 1213年 | 2代執権、北条義時の代。鎌倉幕府の有力御家人で侍所別当の和田義盛による反乱。泉親衡の謀反が露見した際(泉親衡の乱)、義盛の甥が流罪、屋敷が没収された事で、義盛と義時の関係が悪化していた。結果、義盛は三浦義村などと北条氏を打倒するため挙兵。しかし、兵力で勝る義時が圧倒し、義盛は敗死し、和田一族は滅亡した。戦いの後、北条氏の執権体制がより強固になる。 |
親鸞、東国で布教を開始 | 1214年頃 | 2代執権、北条義時の代。承元の法難(1207年)による流罪を赦免された親鸞は、東国に築いた複数の草案を拠点とし、東国での布教活動を約20年間行った。親鸞は生涯、法然の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。その為、自ら開宗するつもりはなかったとされ、独自の寺院は持たず、各地に草案を作って布教した。しかし、親鸞の勢力が増すことで、他の仏教教団・浄土宗他派からの攻撃を受けはじめる。結果、宗派の相違が明確化され、親鸞の没後に宗旨がまとめられ、浄土真宗という形となった(浄土真宗は1224年成立となっているが、それが定められたのは親鸞の没後)。なお、浄土真宗の重要な思想の一つに「悪人正機」の考え方があり、親鸞の師である法然も同じ様な考えを唱えていた。完全な余談だが、九条兼実(法然を戒師として出家)は、この悪人正機に疑問を持った。そこで「破戒僧でも念仏唱えれば極楽往生できるか?」を確認するため、法然の弟子と自らの娘(玉日)を結婚させ、破戒僧にしてみる実験を提案した。これに対し、法然は「じゃあ、綽空(のちの親鸞)で」と指名し、乗り気でない親鸞を結婚させたという話がある(親鸞の見た六角堂の夢告が強く影響している)。この話については『親鸞聖人正明伝』に記載されており、江戸時代までは一般的だったが、大正時代以降には親鸞聖人正明伝が偽書とされ、長く否定されてきた。しかし、近年になり親鸞聖人正明伝が再評価を受け、真偽は不明な状態である。 |
3代将軍、源実朝、暗殺される | 1219年 | 2代執権、北条義時の代。3代将軍、源実朝が、武士として初めて右大臣となった翌年、鶴岡八幡宮で暗殺される。2代将軍源頼家の子、公暁が実行犯。黒幕の正体については北条義時、三浦義村、など諸説あるが、近年は公暁単独犯行説を取る研究者が多い。ちなみに、頼家は歌人としてしられ、小倉百人一首では「鎌倉右大臣」として知られ、『金槐和歌集』の作者でもある。 |
承久の乱 | 1221年 | 2代執権、北条義時の代。後鳥羽上皇が北条義時に挙兵して敗れた戦い。鎌倉幕府成立後、東日本を支配する鎌倉幕府と、西日本を支配する朝廷による公武二元支配となり、朝廷では反感が募っていった。そんな中、北条氏が鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至った事が挙兵の背景となった。戦いの後、幕府は朝廷を監視する六波羅探題の設置や、皇位継承等に影響力を持った。また、後鳥羽上皇は隠岐に流され、西面の武士は廃止、北面の武士は縮小。院の軍事力はほぼ崩壊した。 |
六波羅探題 | 1221年 | 2代執権、北条義時の代。承久の乱後、京都守護を改変し、西国の武士の監視・統制の為、幕府が置いた役職。承久の乱後に西国に幕府の支配が及んだことに伴い、西国の武士の反乱などを防ぐ必要があった。また、西国で幕府勢力を拡大する拠点としても活用された。設置に伴い、京都守護が改変(廃止)されたが、これは京都守護から、承久の乱で朝廷側につく勢力があった事も影響している。六波羅探題の設置により、支配が西国へ及んだことで、朝廷と幕府による公武二元支配は解消された。 |
浄土真宗 | 1224年 | 2代執権、北条義時の代。親鸞を開祖とする浄土信仰を行う鎌倉仏教。ただし、親鸞は生涯を通して法然の教えを継承し、独自開宗の意思は無かった。その為、1224年が浄土真宗の立教開宗とされるが、ここれが定められたのは親鸞の没後。 |
連署 | 1225年 | 3代執権、北条泰時の代。執権を補佐するために置かれた。実質上の「副執権」であり、執権と連名で署名したことから「連署」と呼ばれた。政権安定策の一環とも言われ、後の「評定衆(1225年)」「御成敗式目(1232年)」もあり、執権政治は安定していった。なお、連署の成立は1224年とするものもある。 |
評定衆 | 1225年 | 3代執権、北条泰時の代。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関、またはそれに参加する執権・連署を除く11名のメンバーの事。十三人の合議制(1199年)が原型。トップは執権で、執権は北条氏が独占していた。評定衆の制度化と、御成敗式目によるルール化により、執権政治は安定していった。 |
道元、南宋から帰国 | 1227年 | 3代執権、北条泰時の代。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を学び、道元が南宋から帰国した。また、同年『普勧坐禅儀』(坐禅を勧める書物。現在も坐禅の際に唱えられる事がある)を著した。道元は、後に日本の曹洞宗の開祖とされるが、弟子たちには特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることも否定)。しかし、後に興福寺の焼き討ちから逃れた日本達磨宗と合同したことを契機に、道元の死後、徐々に禅宗を標榜。宗派としては「曹洞宗」を名乗るようになっていった。 |
御成敗式目 | 1232年 | 3代執権、北条泰時の代。源頼朝以来の先例や、武家社会の慣習、道徳をもとに制定された武家政権のための法令。承久の乱後、西国に御家人が地頭や守護として赴任したことに伴い、荘園領主や住人と地頭のもめ事が多発していたことが背景にある。幕府が強くなるにしたがい適用範囲は拡大され、足利尊氏も御成敗式目を継承した。 |
宝治合戦(三浦氏の乱) | 1247年 | 5代執権、北条時頼の代。有力御家人である三浦氏と、執権の北条氏の対立から起こった戦い。当時の幕府は、執権の北条派と将軍派に分裂して対立していたが、三浦氏は将軍派だった。また、4代将軍、藤原頼経が時頼によって京都に送還され、頼経の父で将軍派の後ろ盾となっていた九条道家も失脚させられ、将軍派は実力行使以外に手段が無くなっていた。戦いの結果、三浦一族とその与党が滅ぼされた。また、この戦いにより、得宗専制政治が確立していくこととなった。 |
日蓮、法華宗の布教開始 | 1253年頃 | 5代執権、北条時頼の代。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖、日蓮による布教活動が行われた。日蓮誕生の前年、承久の乱(1221年)で真言密教を用いた朝廷方が敗れた事、複数の宗派が争っていた事などの社会情勢も影響し、日蓮は既存の宗派の教義を妄信せず、主体的に物事を考えた。その為、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などで学んでいた時期がある。結果、日蓮は、一切経の中で法華経が最も優れた経典であり、天台宗以外は法華経が最も優れている事を否認する誤り(正法誹謗)を犯していると考えた。1252年、日蓮は初等教育の為に登った清澄寺に戻ると、「念仏と禅宗が法華経を誹謗する謗法を犯している」とし、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。翌1253年、日蓮は鎌倉に移り、布教活動を開始した。なお、南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、天台宗の修行としても行われていたが、称名念仏などと並行して行われた。 |
立正安国論 | 1260年 | 6代執権、北条長時の代。日蓮の執筆した文書で「相次ぐ災害は、人々が正法である法華経を信じず、浄土宗などの邪法を信じているから」とし「このまま放置すれば国が滅ぶが、邪教を止めて正法である法華経を中心にすれば国も民衆も安定する」とした。この文書は、浄土宗を刺激し、日蓮襲撃事件(松葉ケ谷の法難)を起こし、また禅宗であった5代将軍、北条時頼からは「政治批判」とみなされ、翌年、日蓮は伊豆国に流罪となった。しかし、その後も元寇による海外からの侵略(1274-1281年)や、二月騒動(1285年)などの内紛などもあり、日蓮は更に2回『立正安国論』を提出した。背景として、1回目の提出前から地震・飢饉・疫病などが相次いでいたこともあげられる。 |
異国警固番役 | 1271年 | 8代執権、北条時宗の代。幕府が九州の御家人に課した軍役で、北九州の沿岸を警備させた。文永の役後、元の再襲来に備え強化された。 |
文永の役 | 1274年 | 8代執権、北条時宗の代。元が日本を侵略する目的で九州北部に攻め入ってきた戦い。一旦は博多を占領されるも、元軍は翌日に撤退。理由は、もともと元の目的が武力差を見せつけることだったの見方がある。戦いの後、幕府は博多湾の沿岸に「元寇防塁」を作らせ、「異国警固番役」を強化した。 |
久遠寺 | 1281年 | 8代執権、北条時宗の代。日蓮宗の総本山で、開山は日蓮。1274年、佐渡での流刑を終えた日蓮を招致し草庵を構え、法華経の読誦・信徒の育成、元軍の退散、国土安穏を祈念した。1281年に整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられた。 |
弘安の役 | 1281年 | 8代執権、北条時宗の代。元が日本を侵略する目的で九州北部に攻め入ってきた2度目の戦い。元軍と高麗軍の連合軍である「東路軍」、旧南宋の軍である「江南軍」は当時世界最大規模の艦隊だった。日本優勢で戦いが進み、元軍は撤退。しかし、御家人に十分な恩賞が与えられず、御家人が困窮し幕府が求心力を失う。戦いの後、警備と九州の統括のため「鎮西探題」が設置された。 |
霜月騒動 | 1285年 | 9代執権、北条貞時の代。北条氏と有力御家人による内紛。以前より、御家人勢力の代表格である安達泰盛と、北条氏得宗家を支持する勢力の代表格である平頼綱が対立していた。そんな中、両者の調停役となっていた8代執権、北条時宗が死去する(1284年)。そこで泰盛は、文永・弘安の役(1274年・1281年)で不安定化した幕府を立て直すため、弘安徳政と呼ばれる改革で、御成敗式目の補強を行い、執権を中心とした政治から将軍の権威復活を目指し、北条氏得宗家と、その御内人の影響力を削ごうとした。そこで先手を打った頼綱は、貞時に「泰盛の息子が謀反を起こそうとしている」と報告。頼綱の軍に囲まれ、泰盛とその一族は滅ぼされた。事件後、頼綱が率いる北条氏得宗家に仕える御内人勢力が権力を握り、得宗専制体制が完成した。 |
鎮西探題 | 1293年 | 9代執権、北条貞時の代。鎌倉時代に西国(九州)の統括のために設置された機関で、行政・訴訟・軍事を統括した。背景として、元寇により異国警固の強化の必要性があったこと、九州御家人が関東・六波羅探題へ訴訟をおこす事が禁じられたため(東国御家人を異国警固に専念させる目的)、代わりとなる訴訟機関が必要だったことがあげられる。担当者は北条氏一族から任命され、1296年からはワンオペ。1333年、鎌倉幕府滅亡とともに消滅したが、後に室町幕府も九州統治のため、鎮西探題に倣って九州探題を設置した。 |
永仁の徳政令 | 1297年 | 9代執権、北条貞時の代。文永の役、弘安の役などで困窮した御家人の救済のために出された、借金帳消しを中心とした法令。結果として、借上などの金融業者の貸し渋りを引き起こした。また、御家人の困窮には分割相続制による零細化や貨幣経済の影響もあったため、困窮の流れは継続した。 |
見世棚 | 14世紀~ | 主に室町・戦国時代における商品の販売・陳列方式。軒端に棚を設けて商品を並べて販売した。鎌倉時代後期には、京都や鎌倉などではじまり、徐々に浸透していった。 |
正中の変 | 1324年 | 14代執権、北条高時の代。後醍醐天皇を中心とした討幕未遂事件。計画段階で幕府側に漏れて実行されなかった。後醍醐天皇は冤罪とされたが、9年後に再度倒幕を掲げ、元弘の乱が起き、幕府は滅亡する。 |
元弘の乱 | 1331~1333年 | 後醍醐天皇の代。鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、北条得宗家の勢力との間で起こった内乱。当初、倒幕の計画が漏洩し、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、隠岐に流される。しかし、楠木正成が活躍している間に、後醍醐天皇は逃亡。更に各地でも反乱が発生し、足利尊氏や新田義貞の天皇側への寝返りもあり、後醍醐天皇が勝利する。その後、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる政治を行う。 |
建武の新政 | 1333年 | 後醍醐天皇の代。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が、天皇親政を復活させようとした政治。武士だけでなく、公家、農民からも不満が出て、元弘の乱後の混乱を収拾しきれなかった。足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、政権は3年で崩壊した。 |
雑訴決断所 | 1333年 | 後醍醐天皇の代。建武の新政の一環で、朝廷に設置された訴訟機関(令外官)。公家・武家出身者が混在した組織で、主に土地(所領)の相論を扱い、後には後醍醐天皇の綸旨の施行にもあたった。建武政権の崩壊に伴い消滅。 |
中先代の乱 | 1335年 | 後醍醐天皇の代。14代執権、北条高時の遺児である北条時行が、幕府再興の為に起こした乱。後醍醐天皇暗殺を企てた北条泰家等の挙兵に応じて、時行が御内人の諏訪頼重に擁立され、挙兵した(時行は10歳だったので、代わりに頼重が中心になった)。時行は、足利直義軍に勝利し鎌倉を奪い返したものの、足利尊氏軍に敗れ、僅か20日で鎌倉を追われる(その為、廿日先代(はつかせんだい)の異名がある)。戦後、頼重は自害。時行は南北朝時代に南朝側で尊氏と再度戦うも、捕えられ鎌倉で処刑されたとされる。この戦いの際、尊氏は「総追捕使」と「征夷大将軍」の役職を後醍醐天皇に要請したが拒否され、そのまま出兵した。その対立は、南北朝の動乱へとつながっていく。ちなみに、先代(北条氏)と後代(足利氏)との間で、一時的に鎌倉を支配したことから「中先代の乱」と呼ばれる。 |
建武式目 | 1336年 | 後醍醐天皇の代。室町幕府の施政方針を示した式目。あくまで方針であって、法律ではない。「建武の新政」に対する批判も盛り込まれている。中先代の乱の後、武家政権を目指す足利尊氏と、それを阻止しようとする後醍醐天皇が対立し、湊川の戦い(1336年)で尊氏が勝利した後、制定した。なお室町時代の開始時期は建武式目を制定した1336年とする説と、征夷大将軍に補任された1338年とする説がある。ちなみに、建武式目では「バサラ(身分秩序を無視した振る舞い、実力主義、華美な服を好む文化。室町時代初期に流行)」を禁じている(バサラは選択肢レベルで出題されていたことがある)。 |
南北朝時代の始まり | 1337年頃 | 後醍醐天皇の代。足利尊氏が京都で光明天皇(北朝・持明院統)を擁立し、後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が京都から吉野に逃れ、「北朝」と「南朝」が並立に分立した。背景として、湊川の戦で後醍醐天皇が尊氏に敗れ、建武の新政が崩壊したことが上げられる。1392年、両朝が合一するまで続く。なお、南北朝時代の開始時期は、後醍醐天皇が吉野へ遷った1337年とする説と、建武の新政の開始年である1333年とする説がある。 |
三毛作 | 室町時代頃~ | 同じ耕地で一年の間に3種類の異なる作物を栽培すること。畿内を中心に行われるようになった。代表的な手法では米、麦、蕎麦を育てる。 |
鎌倉府 | 1349–1455年 | 初代将軍、足利尊氏の代。鎌倉幕府の本拠地であった鎌倉や関東10か国を掌握する機関。尊氏の次子である基氏が長官である鎌倉公方の初代となり、その子孫が世襲した。また、鎌倉公方を補佐する関東管領は、上杉氏が世襲した。評定衆・引付衆・侍所・政所等、幕府に準じた機構を持つ。永享の乱や享徳の乱では鎌倉公方と関東管領が対立し、享徳の乱(1454年)により体制が崩壊していくこととなり、1455年に終了。 |
観応の擾乱 | 1350~1352年 | 初代将軍、足利尊氏の代。尊氏の弟で幕府の実権を握る足利直義派と、尊氏による派閥を中心とした争い。背景として、初期の幕府は尊氏と直義で権限分割が行われた二頭政治であったこと、二頭政治の結果、守護の管轄が明確でなかった事、足利尊氏の執事である高師直が、直義と対立した事があげられる。直義が尊氏に強く頼み込み、師直が執事を解任された事で関係が悪化。1349年に、師直は尊氏派を集め、直義を包囲。直義の政務を罷免し、尊氏の嫡男、義詮を登用させた。更に、直義派の流罪・殺害を行い、師直は執事に復職した。1350年、一旦は出家した直義は、尊氏が足利直冬を追討しようとしたタイミングを好機とみて京都を出奔、南朝を味方につけ師直誅伐を掲げて挙兵。ここからの一連の戦いを観応の擾乱と呼ぶ(なお、直冬は直義の養子で、尊氏と敵対していた)。戦いに敗れた尊氏・師直は、一旦は直義と和睦するが、師直は直義派により殺害される。師直がいなくなったことで、直義が義詮の政務を後見する形式で幕政を再開するも、二頭政治状態は解消されず、更に南朝の影響もあり政局は安定しなかった。結局、再び戦いとなり、最終的には直義が死亡したことで派閥争いは収束。この乱は、南朝が力をつける原因にもなり、南北朝の動乱が長引くこととなった。 |
猿楽 | 1374年~ | 3代将軍、足利義満の代。室町時代に成立した日本の伝統芸能。義満が観阿弥と世阿弥に感銘を受け、庇護したのが1374年とされる。庇護の後、公家社会との接点も生まれ、上流階級の文化も取り入れられ、洗練されていった。また、権力と結びつきながら発展し、能の原型として完成した。 |
明徳の乱(内野合戦) | 1391年 | 3代将軍、足利義満の代。山名氏が室町幕府に対して起こした反乱。義満は有力守護大名勢力を削減し将軍権力の強化を図っており、その一環で義満は山名氏を挑発し、挙兵させる。戦いに敗北した山名氏は、11か国の守護領国から3か国に減らされ、一方義満は将軍権力を示した。 |
南北朝の合一 | 1392年 | 3代将軍、足利義満の代。「南朝(大覚寺統)」と「北朝(持明院統)」2つの朝廷が存在していたが、南朝第4代の後亀山天皇が、北朝第6代の後小松天皇に三種の神器を渡し、譲位する形で両朝が合一した。この際、両朝の間で、和議と皇位継承について締結された約定が「明徳の和約」と呼ばれる。背景として、南朝の強硬路線の長慶天皇が、弟で和平派の後亀山天皇に譲位したこと、南朝の中枢の人物が相次いで亡くなった事、相次ぐ敗戦で南朝側の軍事力が失われていた事、足利義満が有力守護大名勢力を削減し、中央集権化を進め、力をつけていた事があげられる。 |
鹿苑寺(金閣寺) | 1398年 | 4代将軍、足利義持の代。3代将軍、足利義満が開基。臨済宗相国寺派の寺院で、義満の北山山荘を、死後に寺としたもの。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年に放火で焼失し、1955年に再建された。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の1つ。 |
応永の乱 | 1399年 | 4代将軍、足利義持の代。守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。義持以前、室町幕府の将軍は権力体制が弱かった(有力守護大名の連合による擁立が必要)。そこで3代将軍、足利義満は、権力強化のため、花の御所を造営して権力を示し、直轄軍の増強なども行った。更に、義満は有力守護大名の弱体化も行った(康暦の政変や土岐康行の乱や明徳の乱)。そんな中で、大内氏は6ヶ国の守護を兼ね、貿易により財力を有し、義満から睨まれる存在であった。一方、大内氏も義満の守護大名を弱体化させるやり方を警戒し、義満と義弘は緊張関係にあった。義弘は九州での戦いに派遣される中で、「幕府が戦乱に乗じて義弘を殺そうとしている」との噂を聞き、挙兵に至ったと言われる。義弘は敗戦し自害。更に義弘に協力した守護大名も失脚。将軍の力がより強くなるきっかけとなった。 |
日明貿易 | 1401–1549年 | 室町時代に明との間で行われた朝貢貿易。正式な遣明使船は、密貿易や倭寇などと区別できるよう勘合符を使用した。明の朱元璋が、冊封体制の復活を目指し、朝貢貿易のみに限定していたことも背景にある。主な輸入品としては、銅銭(永楽通宝など)、生糸など。朝貢形式なので日本に利益が多く、また大量に流入した明銭により、貨幣経済を発展させた。 |
永楽通宝 | 1411年 | 明の永楽帝の時代により鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた。 |
正長の徳政一揆(正長の土一揆) | 1428年 | 4代将軍~5代将軍の間の空位の時代。土一揆の一つで、農民が起こした初めての一揆。凶作・伝染病・将軍の代替わり等で社会不安が高まり、馬借などが徳政を求めて発生した。一揆は畿内各地に及び、酒屋、土倉などが襲われ、私徳政を行った。なお、この時期は、凶作、伝染病、過疎、将軍の不信任などの影響で、徳政一揆が多発している。 |
琉球王国 | 1429–1879年 | 尚巴志王の三山統一によって成立した王国。1609年、薩摩による琉球侵攻により、幕藩体制に入ったが、王国体制や中国との関係も維持した。1879年、藩の廃止と沖縄県の設置により、王統の支配が終わった。 |
永享の乱 | 1438~1439年 | 6代将軍、足利義教の代。鎌倉公方の足利持氏と、関東管領の上杉憲実の対立が発端となり、義教が持氏の討伐を命じた争い。結果、足利持氏は自害した。事件の前、6代将軍となる資格のある4代将軍、足利義持の息子4人は、全員出家していた。その為、自分が将軍になれると思っていた持氏が、クジ引きで将軍となった義持の弟の義教を妬み、対立関係になっていたといわれる。その為、持氏は幕府に従わず、鎌倉府を動かすことがあった。この状況に関東管領であった憲実は「自分も将軍への反逆と思われるのでは?」と危機感を持った。結果、憲実は持氏と対立。憲実の謀反を恐れた持氏は、憲実討伐の命令を各地に出すが、逆にこの状況を憲実は義教に訴え、持氏討伐の命令を受け、永享の乱に至った。追い詰められた持氏は自害。その後、持氏の息子も幕府と戦うが(結城合戦)ほとんどが死亡。後の享徳の乱(1455~1483年)を経て、関東地方は戦乱の世に入っていく。なお、5代将軍足利義量は名ばかりの将軍で、実権は父の義持が握っており、1425年、義量は19歳の若さで急死していた。 |
嘉吉の乱 | 1441年 | 6代将軍、足利義教の代。守護大名である赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に討たれるまでの一連の騒乱。「くじ引き将軍」と揶揄された義教が「万人恐怖」と呼ばれる政治を行っていた事で、追い詰められた赤松満祐が将軍暗殺を行った。事件後、将軍の立場が弱まり、守護大名が台頭する。 |
嘉吉の徳政一揆 | 1441年 | 6代将軍~7代将軍の間の空位の時代。京都・近江などで発生した土一揆。嘉吉の変で足利義教が殺害され、後継者である足利義勝が幼かった為に、政治が混乱。「代初めの徳政」を、馬借を中心とした農民が訴え蜂起した。人数は数万人に及ぶが、各地への波及はなく、京都を包囲する形で行われた。 |
享徳の乱 | 1454–1482年 | 8代将軍、足利義政の代~9代将軍、足利義尚の代。関東地方は永享の乱と結城合戦の後、幕府の強い影響の元、上杉氏の専制体制となっていた。しかし、嘉吉の乱の後、関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を要求する関東地方の武士団に応じて、鎌倉府が再興された。しかし、再興された鎌倉府で5代鎌倉公方となった足利成氏は、4代鎌倉公方であった足利持氏派を重用し、関東管領に就任した上杉憲忠と対立した。結果、成氏により憲忠やその側近が襲撃され、殺害される。これに対し、襲撃の際に不在だった山内上杉家の長尾景仲や、扇谷上杉家の太田資清は成氏へ挙兵し、享徳の乱となった。当初は成氏派が優勢だったが、後に上杉氏を将軍、義政が支持。上杉側に錦の御旗が与えられた事で、足利成氏は朝敵となって味方を失う。最終的には、上杉側の山内上杉家でも内紛が起き、やむなく成氏と上杉とで和睦が成立し、終結する。この乱を治められなかった将軍及び管領細川勝元に対する不満は、応仁の乱の遠因にもなっている(享徳の乱の間に、応仁の乱が始まり、終結に至っている)。 |
コシャマインの戦い | 1457年 | 8代将軍、足利義政の代。和人とアイヌとの間で起こった戦い。当時、アイヌは製鉄技術を持っておらず、渡島半島から道南に進出した和人から鉄製品を入手していた。そんな中、和人の鍛冶屋とアイヌで口論が起き、怒った鍛冶屋がアイヌの男性を刺殺した事がきっかけとなり、コシャマインを中心としたアイヌが蜂起した。アイヌは、和人の拠点である道南十二館の花沢・茂別以外を陥落させるものの、1458年に武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が殺害され、アイヌ軍は瓦解した。アイヌと和人の抗争はその後も継続するが、支配権は信広を中心にした和人側が得た。また、信広の子孫により松前藩が後に成立する。 |
応仁の乱(応仁・文明の乱) | 1467–1477年 | 8代将軍、足利義政~9代将軍、足利義尚の代。管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いに端を発し、将軍の後継者問題に細川勝元と山名宗全の有力守護大名の対立が絡み、幕府を東西に分け、各々の領国でも争いとなった大乱。乱の後、幕府の権威が低下した事は、大内氏や細川氏が日明貿易を主導するきっかけにもなった。また、守護や国人が荘園の重層的支配を、一元的に支配する立場となった事で(一円知行化)公家や寺社の荘園が横領され、公家などは没落した。なお、応仁の乱が戦国時代の始まりとする説が古くから一般的だが、近年は明応の政変(1493年)頃まで幕府の権威は一応保たれていたとする見解もある。 |
慈照寺(銀閣寺) | 1486年 | 九代将軍、足利義尚の代。東山文化の代表として知られる臨済宗相国寺派の寺院。開基は八代将軍、足利義政。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の1つ。 |
六斎市 | 15世紀後半~ | 都市・農村で特定の日に月6度開かれた定期市。応仁の乱後に一般化されたといわれる。荘官や農民が、これらの市で貨幣を入手したことで、年貢として納められていた農産物の多くが商品として流通するようになった。 |
明応の政変 | 1493年 | 10代将軍、足利義稙の代。細川政元が起こした将軍の擁廃立事件。背景は応仁の乱に遡る。応仁の乱で西軍の盟主として擁立され、劣勢のまま乱が終結した足利義視は、嫡子の義稙と共に美濃へ逃れていた。一方、9代将軍で東軍の盟主であった足利義尚は、六角高頼の討伐に向かった先で病死してしまう。これをチャンスと見た義視と義稙は上洛し、義稙を10代将軍に推挙する。しかし、7代将軍、足利義政や管領の細川政元などが、足利義澄を推挙する。最終的に、日野富子(9代将軍、義尚の母)が、甥である義稙を後援し、義政の死去後(1490年)、義視の出家などを条件に義稙を10代将軍として決定させる。しかし、この決定に義澄を擁立しようとした政元が不満を持つ。また、義稙は政元に政務を任せると約束しながら、政元の反対を無視し、六角征伐と河内征伐と2度も大規模な軍事作戦を行った。このため、政元は日野富子などを懐柔し、1493年にクーデター起こす。義稙は将軍職を廃され幽閉された。政元は幕政を掌握し、以後将軍権力は細川氏の権力に支えられる。また、将軍は足利義澄となり、足利将軍家は「義稙流」と「義澄流」に二分される。事件は全国(特に東国)で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となり、近年では、戦国時代の始まりをこの事件とする説もある。 |
撰銭令 | 室町時代~ | 室町幕府や大名などが、支払の際に劣悪な銭貨を排除すること(撰銭)を禁止した法律。室町時代前後から貨幣経済は発達し、税の銭納化も進められていた。そのため貨幣の需要が増えるにしたがい、質の悪い銭貨が流通。取引において悪銭が嫌われ、円滑な流通が阻害されていたことが原因となった。幕府からは1500年に発令され、1542年まで、たびたび撰銭に関する法令を発布している。また、信長の撰銭令は1569年に発令された。 |
中世(平安末期~室町時代)の文化
中世(平安末期~室町時代)頃の文化について、念のためまとめておきます。
中世頃の文化
- 院政期文化:平安時代末の11世紀後半~鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての文化。建築では『平等院鳳凰堂』『中尊寺金色堂』、絵画では『鳥獣人物戯画』、文学では『将門記』『更級日記』『栄花物語』『大鏡』『後拾遺和歌集』など。また、宋との貿易によって、中国の文物が影響した。
- 鎌倉文化:鎌倉幕府成立~滅亡までの文化(12世紀末~14世紀前半)。建築では『東大寺南大門』、彫刻では『東大寺南大門金剛力士像』、文学では『保元物語』『平治物語』『平家物語』『宇治拾遺物語』など。
- 北山文化:14世紀末~15世紀前半。武家、公家、禅僧らの文化が融合した文化。明との勘合貿易・禅宗を通じた大陸文化の影響も受けている。建築では『鹿苑寺』文学では『太平記』など。また能が田楽や猿楽から観阿弥・世阿弥親子により大成された時期。禅宗(臨済宗)が幕府の保護によりさらに発展し、禅宗の保護により、禅文化や五山文学が栄えた。
- 東山文化:北山文化同様、武家、公家、禅僧らの文化が融合した文化。建築では『慈照寺』、庭園では『竜安寺方丈庭園』、絵画では狩野派の祖である『狩野正信』、土佐派中興の祖とされる『土佐光信』(水墨画と大和絵を融合)、水墨画を大成させた『雪舟』の活躍時期。その他文化では、『茶道』『華道』『香道』『連歌』なども栄えた。尚、東山文化の時期が明確でなく、東山文化と北山文化で共通点が多いため、近年は「室町文化」として論じるようになってきているが、試験では分けて出題されるため、分離して記載した。
参考にしたサイト
この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。
WEBテキストのリンクまとめ
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