【歴史能力検定3級(日本史)】年表風WEBテキスト(原始・古代)

1月 10, 2023歴史・文化系の検定, 歴史能力検定

この記事では、歴史能力検定3級(日本史)の大問1(原始~古代辺り)の知識を、年表風にしてまとめました(実質、自分の勉強ノートの大幅強化版です。間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです)。

WEBテキスト利用の注意点

利用上の注意点(デメリットなど)を以下にまとめました。できれば一読いただいた上でテキストをご利用ください。

原始・古代(旧石器時代~平安時代の途中)の歴史能力検定3級(日本史)の知識

出来事・用語年代内容
漢委奴国王印57倭の奴国王が後漢に使者を送り、授かった金印。『後漢書』東夷伝に記されている。小国が乱立する中で、権威付けする目的で授かったとされる。
邪馬台国23世紀30あまりの小国を支配下に置いていた国。身分制度があり、王、大人、下戸、生口に分かれた統治者であった女王、卑弥呼は、に使者を派遣し「親魏倭王」の称号、金印、銅鏡百枚を得たことが『魏志倭人伝』に記されている。卑弥呼の死後、男王でまとまらず、卑弥呼の同族の娘である壱与が女王となったとされる。邪馬台国がどこにあったかは定かではないが、吉野ケ里遺跡が邪馬台国だとする説もある。
ヤマト王権2世紀末-3世紀大王と呼ばれた倭国の首長を中心とした、有力豪族連合による政治組織。地方の豪族は国造に任命され、豪族は田荘と呼ばれる私有地を領有。当初は有力豪族の影響も強い組織であった。
古墳文化3世紀頃~弥生時代からの農耕や小国家の形成が、さらに本格化した文化。古墳の築造が特徴で、とくにヤマト朝廷の王墓は前方後円墳で作られ、その分布の拡大が、ヤマト朝廷勢力の拡大をも示している。
誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳5世紀初頭大阪にある前方後円墳で、古市古墳群を構成する古墳の1つ。第15代、応神天皇の陵とされるが、実際の被葬者は明らかでない。世界遺産にも登録されている。
大仙陵古墳5世紀初頭-中期大阪にある前方後円墳で、国内最大の古墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。世界でも最大級の墳墓。16代、仁徳天皇の陵墓とされ、仁徳陵古墳とも言う。世界遺産にも登録されている。
好太王
374412朝鮮の三国時代、高句麗の全盛期の王。好太王の業績を称えた好太王碑には、古代日朝関係も記されており、4世紀末にヤマト王権が派遣した軍が、好太王の軍と交戦したことが記されている。「磐井の乱」や「白村江の戦い」と混同しないよう、順番や関わった国の関係に注意して覚えること。
稲荷山古墳出土鉄剣471古墳から発見された115文字の銘文が刻まれた鉄剣。文字数は他の東アジアの例と比較しても多く、歴史事実の実年代を定める上で大きく役立った。銘中にある「辛亥年」は471年とされるが、531年説もある。また銘中の「ワカタケル大王」は21代、雄略天皇と考えられ、倭の五王にあたると考えられている。
継体天皇の擁立507第25代、武烈天皇の子がいないため、越前(福井県)の傍系から婿を迎え入れるかたちで、行われた天皇の擁立。現在の皇室までつながる天皇系統の始まりとする説がある。反対勢力も多く、即位後19年間は都に入らなかった。
磐井の乱527継体天皇の代朝鮮半島南部へ出兵しようとした朝廷軍を筑紫君磐井が妨害した騒乱。新羅が出兵を妨害するため、朝鮮半島を巡りヤマト政権と対立する磐井を利用したとされる。物部麁鹿火によって鎮圧された。乱の評価は「継体王朝の動揺の表れ」や「地方支配の強化へつながった」といった意見があり、一致しない。
仏教公伝538欽明天皇の代。百済の聖明王から公式に伝来した(民間レベルはもっと前と言われる)。年代は552年説もある。当初、仏教を蘇我氏が受け入れ、物部氏は反対した。蘇我氏が仏教を受け入れた理由として、海外の文化との親和性が高かったこと(外交の権益を持っていた)、物部氏や中臣氏を牽制しようとしたことがあったとされる。
丁未(ていび)の乱587用明天皇の死後、蘇我氏が聖徳太子らと物部氏を討った戦い。背景として、蘇我馬子物部守屋が、仏教の礼拝や皇位継承者の擁立で対立したことが上げられる。乱の前、物部氏側が支持する穴穂部皇子は馬子に殺害され、乱により物部守屋も殺害された。結果、物部氏は衰退し、馬子に擁立された崇峻天皇が即位した。
遣隋使600618推古天皇の代。ヤマト王権がに派遣した使節。新羅遠征を狙う日本と、高句麗と対立する隋との国際関係が背景にある。第1回(600年)は文帝から、倭国の制度は道理に合わないとされ失敗し、日本側の史料には書かれていない。第2回(607年)は「十七条の憲法」「冠位十二階」などを定めた上で、小野妹子が派遣された。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれ国書で煬帝を立腹させるが、高句麗との関係上日本を敵に回したくない隋は、帰国時に裴世清を同行させ正式な国交を結んだ(激怒の返書は、妹子が意図的に紛失したと言われる)。3回目(608年)は裴世清の帰国とともに、日本からも留学生・留学僧(高向玄理南淵請安僧旻ら)が向かった。5回目まで行われたとされるが、618年に隋が滅び消滅。
冠位十二階603推古天皇の代。日本で初めての冠位・位階。聖徳太子や蘇我氏によって、百済高句麗の制度を参考に作られた。身分に関係ない優秀な人材登用(従来の氏姓制度は世襲制)を目的とするだけでなく、対外的に制度をアピールする事(1回目の遣隋使失敗の影響)も目的であった。
十七条の憲法604推古天皇の代。官僚の行動規範を示す制度。聖徳太子によって作られたとされる。背景として、第1回の遣隋使失敗の影響もあり、との関係構築のための国家体制を整える必要もあった。儒教を中心に、仏教、法家の思想が反映されており、法律としては現代の憲法より行政法に近い。
遣唐使630907の政治制度、技術、文化などの収集が目的とされた使節。白村江の戦いで日本が敗れた後は、唐との関係改善が目的の時期もあった。使節団に付随して朝貢貿易も行われ、日本としては経済的利益もあった。ただし、日本側の史料は、唐と同等に外交していたと記載している。
乙巳の変645皇極天皇(後の斉明天皇)の代。蘇我氏の全盛期。中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺し、蘇我氏(蘇我氏宗本家)を滅ぼした政変。に対抗できる体制として、中大兄皇子と中臣鎌足らは天皇中心の律令国家を目指した。一方、聖徳太子の死後に実権を握った蘇我氏は、律令国家の建設に反対していた。結果、蘇我入鹿は殺害され、父親の蘇我蝦夷は自害。中大兄皇子は皇太子になり、中臣鎌足は天皇の補佐役として力をつけ、藤原氏繁栄の礎を築いた。
大化の改新645年~孝徳天皇の代。乙巳の変に始まる一連の国政改革。狭義には大化年間(645-650年)の改革のみを指し、広義には大宝律令完成(701年)までの改革。改革の中心人物は中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足。初めての元号がつくられ、「日本」という国号、「天皇」という称号が正式化された。また、大化の改新により、律令国家としての制度が整えられはじめた。皇極天皇(後の斉明天皇)の退位と、孝徳天皇の即位も行われた。
改新の詔646孝徳天皇の代。乙巳の変の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らの施政方針を示すために発せられた詔。公地公民、戸籍・計帳の作成、地方制度、税制、防人など多くの制度を示した。また、ヤマト王権時代の氏姓制度を廃し、天皇中心の律令国家を目指す内容となっており、人と土地の管理を国家に集中させた(公地公民)。背景に、唐に対抗できる体制を目指したことが上げられる。
租庸調646孝徳天皇の代。律令制下での租税制度。中国の制度を元に、日本の国情に合わせて導入された。租は、収穫された稲の一定の割合を納めるもので国府へ納入され、国衙の主要財源とされた。庸は、京での労役であったが、遠方で難しい場合は、代納物の納入となった。調は、繊維製品の納入が基本だが、地方特産品や貨幣なども認められていた。また、女性は庸・調が課されなかった。
大宰府7世紀後半九州の筑前国に設置された地方行政機関。軍事・外交・九州地方の内政を行う。白村江の敗戦直後は、防衛拠点を置くために、複数作られたが、大宝律令の施行(701年)とともに、筑紫大宰以外は廃止された。鎌倉幕府の成立により、律令制の大宰府は終わるものの、権威としては残り続けた。
白村江の戦い663斉明天皇(重祚前は皇極天皇)の代。百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と、新羅連合軍との間の戦争。斉明天皇は、遠征に向かう途中で崩御。日本・百済遺民の連合軍が敗退。敗戦後、唐が攻めてくる恐れから、九州沿岸の防衛に防人が設置され、また九州地方に朝鮮式山城が築城された。この敗戦により、遣唐使の目的が、一時的に唐との関係改善になる。
庚午年籍670天智天皇(中大兄皇子)の代。全国的戸籍としては最古の物。天皇中心の律令国家体制を整えるための一環で作られたものではあるが、氏や姓を持つ首長・豪族の民も含まれていたかは疑われている(庚午年籍は現存していない)。
壬申の乱672天智天皇(中大兄皇子)の崩御に伴う争い。天智天皇の子・大友皇子(弘文天皇)に対し、天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げ、反乱者である大海人皇子が勝利した。背景として、天智天皇による独裁気味の政治で不満が大友皇子に向けられる中、天智天皇が崩御し、そのタイミングを大海人皇子が好機と見たことが上げられる。また、崩御前の大海人皇子は、天智天皇との関係を考慮し、吉野で僧侶となり暮らしていた。乱の後、天皇に権威が集中し、皇親政治と呼ばれる天皇・皇族による政治体制となる。余談だが、大友皇子は1870年になってから「弘文天皇」として歴代天皇に列せられたが、実際に即位したかは不明。
富本銭683天武天皇(元、大海人皇子)の代。実際に流通したかは不明な銭貨。和同開珎より古い。更に古いものに無文銀銭もあり、それぞれの関係や、当時の利用状況は、現在も研究中。
八色の姓684天武天皇(元、大海人皇子)の代。新たに制定した八つの姓の制度。天皇中心とした中央集権強化のために、行われた姓の再編成である。なお「氏姓制度」の「姓」は天皇から有力氏族に与えられたもの。平安時代からは形骸化していくが、形式的には江戸時代まで残った。
飛鳥浄御原令689持統天皇天武天皇の皇后)の代。日本史上で、最古の体系的な律令法。681年に天武天皇の命令で編纂され始めるが、天武天皇は686年で没した。天武天皇死後に次事業を継承した草壁も689年に急死し、同年、律がなく令のみの状態で急遽頒布され、律令の編纂作業はその後も継続された。現存しないため、詳細は不明な点が多いが、地方制度や班田収授の規定などが制度化したと考えられる。
雑徭692年頃持統天皇天武天皇の皇后)の代。労役の形態を取る租税制度。インフラ整備などをさせた。初見は692年の『飛鳥浄御原令』とされる。
藤原京694持統天皇天武天皇の皇后)の代。飛鳥時代の都城。天武天皇の計画で、日本史上で初の唐風の条坊制が用いられた。天武天皇の死後に造営は一時中止されるも、690年から造営が再開された。平城京に遷都されるまで首都として機能する。ちなみに、条坊制と条里制で引っ掛ける問題が過去にあったので、ケアレスミスに注意。
高松塚古墳694710奈良県にある藤原京期に作られた終末期古墳で二段式の円墳。極彩色の壁画で有名。被葬者は不明。
遣唐使南路へ変更8世紀頃朝鮮半島南東部の新羅との関係悪化に伴う航路の変更。なお、653年頃から既に利用していたこともある。
大宝律令701文武天皇の代。唐の律令を参考に作られた法令。刑部親王藤原不比等を中心に編纂された。この法令により、大化の改新以降目指した天皇中心の律令国家体制を整えた。詳細としては、天皇を中心とした二官八省の官僚機構による中央集権統治体制、役所での文書と手続きの形式、国郡里制国司、郡司の権限などを定めた。原文は現存しない。余談だが「役所で扱う文書での元号の使用・印鑑の押印」なども定められており、2020年以降になってようやく、印鑑の押印は一部廃止の方向に傾き始めた。
班田収授法701文武天皇の代。6年に1度、6歳以上の男女に口分田を班給する制度。 口分田は、死後に国に返却される。班田の収穫物からは一定の割合を国へ納税した。奈良時代末には制度が弛緩し、桓武天皇が12年1度に改めたが、状況は改善せず、平安時代初期には班田収授が実施されなくなった。最後の班田は902年の醍醐天皇の代。導入は大化の改新(645年)とされるが、本格的な制度化は大宝律令による。
国郡里制701文武天皇の代。大宝律令により制定された、日本国内を国・郡・里の三段階の行政組織に編成する制度。それぞれの行政機関には行政組織に編成され、それぞれ国司郡司・里長が置かれた。
国司701文武天皇の代。律令国内の行政単位である国を治める行政官。中央から派遣された。任期は6年(のちに4年)であった。国衙で政務を行い、行政のみならず、祭祀、司法、軍事もつかさどる。国内の郡司へ指示を行なった。
郡司701文武天皇の代。律令国内の行政単位である郡を治める行政官。郡衙で政務を行う。在地の有力者が世襲的に任命されたが、律令制開始時に、統治権(領主権)は中央国家のものとなった。
和同開珎708元明天皇の代。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目(たぶん、残りの11種は出題されない)。711年に蓄銭叙位令も出され、流通するように意図されたが、畿内とその周辺以外はあまり流通しなかった。尚、公式な国産の銅銭は、11世紀初頭には行われなくなったが、宋銭元銭明銭などが流通することで貨幣経済は発展し、17世紀以降、寛永通宝(1636年~幕末まで広く流通)などが鋳造されるようになった。
平城京710元明天皇の代。奈良時代の都城。条坊制で計画され、朱雀大路を中心に、右京と左京に分かれ、更に左京の傾斜地に外京がある。遷都の理由には諸説あるが、702年、約30年ぶりに遣唐使が再開された際、唐の長安が藤原京と大きく異なっていることに驚き、長安に似せた都で国内外に天皇の権力を見せようとした事が目的とも言われる。
古事記712元明天皇の代。日本最古の歴史書。元明天皇が、太安万侶に、稗田阿礼の記憶を筆記させて編纂した。国内に向けて書かれたもので、全体の3分の1を神話の時代が占めている。なお、稗田阿礼は天武天皇仕え、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれ『帝紀』『旧辞』等を暗唱させられていたとされる(ただし、稗田阿礼の実在性は明確でなく、偽書説もある)。
風土記713元明天皇の代。地方の国別の地史で、特産品や言い伝えなどが記された報告書。713年に元明天皇が編纂を命じた。完成時期には地域によって異なる。一部しか現存していない。
日本書紀720元正天皇の代神話の時代から、第41代、持統天皇の時代までが記された歴史書。中国、朝鮮などの国外向けに天皇支配の正当性を記したものであり、漢文で書かれている。神話の時代の内容は、古事記と比べて少ない。
三世一身法723元正天皇の代開墾者から三世代(または本人一代)の墾田私有を認めた法令。従来の口分田とは違い、土地を開墾者の所有物とできることで、開墾の促進と税収の増加を狙った。しかし、私有できる期限が近付くと土地が荒れて効果はあがらず、墾田永年私財法の発令へつながった。
長屋王の変729聖武天皇の代。皇親の大官である長屋王が、藤原氏に国家転覆の疑いをかけられ、自害に追い込まれた事件。長屋王は天武天皇の血筋で政治にも優れた事から、天皇の有力候補だった。その為、藤原不比等の娘(藤原宮子)の子である聖武天皇の即位に不満を持つ勢力から、長屋王は人気を集めていた。結果、聖武天皇と血縁関係の藤原氏は、長屋王の反対勢力となる。更に724年の辛巳事件で宮子に「大夫人」という尊称を与えるという勅が、長屋王によって取り消された事で関係が悪化。結果、長屋王は国家転覆を計画しているとされ、兵に自宅を包囲され自害した。その後、長屋王と対立していた藤原四子は、流行していた天然痘(天平の疫病大流行。737年)で相次いで死亡した。なお、当時の日本人の25–35%が天然痘で死亡したとの推計もある。
藤原広嗣の乱740聖武天皇の代。藤原広嗣が政権への不満を訴え、九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された。不満の内容は大宰府に赴任を左遷ととらえたこと、聖武天皇に吉備真備玄昉が重用されこと(藤原氏の勢力が大きく後退)だった。乱の後、聖武天皇は事件につよいショックを受け、転々と都を変えた(彷徨五年)。また、藤原式家の広嗣の関係者も多くが処罰され、810年の薬子の変と合わせて、藤原式家没落のきっかけにもなった。
国分寺建立の詔741聖武天皇の代。鎮護国家思想のもと、当時の日本の各国に国分僧寺と国分尼寺の建立を命じた詔。当時、大地震、飢餓、疫病(天然痘)、部下の反乱などの影響で、仏教を厚く信仰した聖武天皇が鎮護国家思想のもとに発令したとされる。しかし、地方では財源も人手もなく、平安時代の地方の国分寺・国分尼寺は、廃寺や別の寺院になるものも多かった。
大仏造立の詔743聖武天皇の代。仏教を厚く信仰し、鎮護国家思想に戻づく政治を行った聖武天皇が発した、大仏造立を命じた詔。人手不足もあり作業は難航するが、庶民から人気であった行基を責任者とすることで、人手を集めた。大仏開眼供養会は754年で、行基の死後。開眼導師はインドの僧、菩提僊那が担当。なお、行基は当時許されていない民衆への直接布教をしていた事から、朝廷から度々弾圧を受けていた。しかし、困窮者の救済、インフラ整備、病人の治療などの社会事業を行っており、民衆から人気があった。
墾田永年私財法743聖武天皇の代。墾田の永年私財化を認める法令。橘諸兄によって制定された。三世一身法では、私有の期限が切れかかる度に耕作地があれるという問題があったために発令された。結果、中央貴族や大寺社が、朝廷の想定以上に開墾を広げ、これに伴い公地公民が徐々に崩壊。荘園の誕生や、荘園を守る武士の誕生にもつながった。また、国から保護された寺院が力をつけ、朝廷内での僧侶が増大し、平安京への遷都の遠因にもなる。なお、開墾された土地は輸租田と呼ばれ、国家への納税義務があった。
鑑真の来日753孝謙天皇(後の称徳天皇)の代。戒律を伝えるために来日した。当時の日本は私度僧が多く(税金を逃れる等の目的)、僧侶の規律が乱れていた。この原因の一つに、日本に戒律が伝わっていない事が指摘され、授戒の制度化も求められていた。その為、聖武天皇の代(743年)から計画が進み、戒律を伝えるために鑑真が来日に至った。来日後、鑑真は正式な僧尼となるための戒律を授けるため施設である「戒壇院」で初の授戒を行った。また、鑑真は律宗の総本山のである唐招提寺の開基となった。
橘奈良麻呂の乱757孝謙天皇(後の称徳天皇)の代。橘奈良麻呂藤原仲麻呂を滅ぼそうとし、天皇の廃立を企てたが、密告により露見し、未遂に終わった事件。聖武天皇の代で政権を担当した橘諸兄の息子、橘奈良麻呂は、孝謙天皇の即位後、光明皇后に信頼され力を増した藤原仲麻呂に危機感を抱き、長屋王の子である黄文王の擁立を画策した。事件の後、仲麻呂は敵対勢力の一掃に成功し、急速に力をつけるが、藤原仲麻呂の乱で敗れ、一族は滅んだ。
養老律令757孝謙天皇(後の称徳天皇)の代。元正天皇藤原不比等らに命じて編纂させ、不比等の死後に孝謙天皇が藤原仲麻呂に命じて編纂させた法令。内容は大宝律令とあまり変わらない。編纂の目的としては、藤原仲麻呂と孝謙天皇が、両者共通の祖父である不比等の成果示し、政治を継承することを宣言することで、政権安定を図ろうとしたとも言われる。
和泉国757孝謙天皇(後の称徳天皇)の代。畿内に属する日本の律令国。河内国から分離して設置された。和泉国が河内国から分離して設置されたことは、何度か試験の問題に絡んでいたので注意。
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)764淳仁天皇の代。孝謙太上天皇道鏡と対立した藤原仲麻呂がクーデターを計画するが、密告され、上皇方に先手を打たれた事件。乱の後、仲麻呂の一族は滅亡。淳仁天皇はクーデター計画に関わっていないが、仲麻寄りだったことから孝謙上皇の軍に包囲され、天皇を廃位、淡路国に流罪となる。その後、孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。
宇佐八幡宮信託事件769称徳天皇(重祚前は孝謙天皇)の代。宇佐八幡宮より道鏡を皇位に就けるよう託宣を受けたことで、道鏡が皇位を得ようとしたとされる事件。神託の確認役として、和気清麻呂が派遣されたところ「道鏡を皇位につけるな」と逆の信託が下された。結局、称徳天皇が道鏡に皇位を継がせない事を宣言し決着。称徳天皇が崩御すると、評議により、皇太子が白壁王(後の光仁天皇)に決まった。また、道鏡は下野国の薬師寺へ配流された。尚、和気清麻呂は確認結果の内容に怒った称徳天皇により「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と強制的に改名された(当時は名前に言霊が宿るとされ、意味ある処分だった)。また、最初の信託に道鏡が係わったかには諸説あり、近年では光仁天皇の即位を正当化するための作り話で、そもそも神託は皇位継承に触れていないとする説もある。
長岡京へ遷都784桓武天皇の代。仏教勢力の影響(興福寺東大寺などの寺院が、墾田永年私財法(743年)以降で荘園を作り、力をつけていた)の排除と、川を利用した物流の効率性、天武天皇系勢力を嫌った事(桓武天皇は、天智天皇の系統)があげられる。藤原種継暗殺事件と、それによって没した早良親王の怨霊(早良親王の死後、桓武天皇の妻・生母・皇后が死亡。皇太子も重病になった)が噂される中で、792年に大洪水に見舞われ、11年で山城国(当時は山背国)にある平安京へ遷都した。
藤原種継暗殺事件785桓武天皇の代。長岡京造営を強行した藤原種継が、反対派に暗殺された事件。桓武天皇が大和国に出かけ留守中に起こった。この事件で早良親王が疑いをかけられ、流罪先で絶食して没したが、事件にかかわったかは定かでない。長岡京遷都から、短期間で平安京への遷都となった理由は、種継暗殺に伴う一連の事件に加え、早良親王が怨霊として恐れられたことが上げられる。
延暦寺788日本の天台宗の本山寺院で、日本の天台宗の開祖である最澄により開かれた寺。住職(貫主)は天台座主と呼ばれる。当初は比叡山寺と呼ばれた。なお、最澄が還学生(1年程の短期留学)として唐の天台山へ向かったのは804年で、更に後の話。比叡山では多くの名僧が修行しており、源信(『往生要集』を執筆)、法然(浄土宗の開祖)、栄西(臨済宗の開祖)、親鸞(浄土真宗の開祖)、道元(曹洞宗の開祖)、日蓮(日蓮宗(法華宗)の開祖)が修行した。ちなみに、世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産でもある。
健児の制792桓武天皇の代。地方軍事力として郡司の子弟や有力農民などから集められた軍団。国府におかれた健児所が統率した。背景として、8世紀末頃に必要性の乏しい経済負担とみなされて軍団制の多くが廃止された事、徴兵制で集められた軍団が弱かった事が蝦夷征伐で浮き彫りになった事などが上げられる。平安時代以降に自然消滅したが、健児は武士の原型となった。
摂津国793桓武天皇の代。畿内に属する日本の律令国。現在の大阪府北中部と兵庫県南東部にあたる。難波宮の廃止に際して摂津職も廃止され、正式に律令国となった。畿内は他に大和国山城国(山背国)・河内国和泉国がある。
平安京794桓武天皇の代。日本最後の古代都城で、長安をモデルとした。遷都前、この地は畿内「山背国」であったが、遷都後は「山城国」と改名された。先の長岡京遷都(784年)により、寺社勢力や天武天皇系統の勢力の排除は行われていたが、早良親王の怨霊の噂や、長岡京での大洪水の影響で遷都に至った。平氏政権による福原遷都1180年)の時期を除くと、1869年まで一貫して日本の首都であった。
勘解由使797年頃桓武天皇の代。律令制下の令外官の一つ。地方行政を監査するために設置され、主に国司の不正や交代の際のトラブルを監視した。とくに現地に赴く国司受領)は、8世紀後半頃から、租として徴収した稲(正税)を勝手に高利で貸し出して(出挙)大きな利益を得ていた(公廨稲収入)。こういった立場から、新しい国司との交代時に不正・賄賂が横行していため、その取締りが必要だった。なお、前任者が役職を果たしたことを確認し、後任者へ交替する手続きを解由と呼び、その際に発行される解由状を前任者が持ち帰り、勘解由使が監査していた。
坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命される797桓武天皇の代。坂上田村麻呂が東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ持った。桓武天皇の時代、蝦夷を服従させるための武力行使が789年から行われていたが、失敗が続いていた中での抜擢であった。坂上田村麻呂は、蝦夷のリーダーの阿弖流為母礼と交渉し、2人の命を助ける代わりに降伏させたが(801年)、貴族達の反対を受け、結局2人は処刑された。
鎮守府が多賀城から胆沢城へ移転802812桓武天皇の代。坂上田村麻呂胆沢城を築城したことに伴い実施。後三年の役の頃まで約150年機能した。ちなみに、完成は阿弖流為の降伏の後。正確な移転時期は不明で、802~812年の間とされる。
最澄空海の遣唐使船による入唐804最澄天台山への還学生(1年程の短期留学)として、空海が留学生(るがくしょう。20年程の長期留学)として唐に渡る。当時、最澄はすでに仏教界で地位を築いていたが、空海は無名だった。最澄は行満から天台の教えを受けた他、大乗菩薩の戒法・禅法・密教なども学び805年に帰国し天台宗を開く。一方、空海は恵果から密教を深く学び、半年という短い期間で真言密教の師として認められ、806年に帰国し。ただし、空海は20年の留学期間を2年で切り上げた為、809年まで入京を許されなかった。最澄は日本の天台宗の、空海は真言宗の開祖となる。ちなみに、空海と同じ船で橘逸勢も唐に渡っている(最澄は別の船)。また、空海と橘逸勢は、同じ時代の嵯峨天皇と並んで三筆と呼ばれる(三筆の話が出題されたら、誰か一人でも知っていると時代を特定できるので便利)。
蔵人所810嵯峨天皇の代。律令制下の令外官で、天皇秘書的役割を担った。当時、嵯峨天皇は平城上皇と対立しており朝廷内の平城上皇派(藤原薬子と仲成など)が脅威であった。そこで、天皇直属の機関として作られたとされる。蔵人所の実際の責任者は蔵人頭と呼ばれ2名。初代は藤原冬嗣巨勢野足が任命されていた。また、蔵人所設置に伴い、平城天皇が設置した観察使を廃止したことは、薬子の変のきっかけにもなった。後に、藤原良房菅原道真なども蔵人頭に任命された。
平城太上天皇の変(薬子の変)810嵯峨天皇の代。平城上皇と嵯峨天皇が対立し、平城上皇の出家で決着した事件。嵯峨天皇が即位後に、平城上皇が設置した観察使の制度を改めようとした為、平城京に移っていた平城上皇が怒り、対立していた(二所朝廷と言う)。当時の太上天皇は、天皇と同様に国政に関与できるという考えがあった(平城上皇が、上皇に寵愛されていた薬子の職権で、太政官を動かす可能性がある)。更に嵯峨天皇が810年正月に病に倒れた事も影響し、平城上皇に復位の可能性を持たせた。観察使の廃止(蔵人所を設置)したことも影響し、平城上皇は平城京に遷都を宣言し、これに対し嵯峨天皇は坂上田村麻呂藤原冬嗣を平城京へ派遣。平城上皇は、関東へ逃げるが捕らえられた。事件後、藤原薬子尚侍を解任された後、自害。薬子の兄で参議藤原仲成も処罰され藤原式家は没落。藤原北家の繁栄につながる。なお、藤原薬子が平城上皇を唆したとされたため「薬子の変」と呼ばれたが、実際には制度上の問題が大きく、また、薬子が首謀者とされたのは、嵯峨天皇が平城上皇に皇族として配慮した為との説もあり、近年は「平城太上天皇の変」と呼ばれる。
検非違使の設置816年頃嵯峨天皇の代。律令制下の令外官の一つ。「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。桓武天皇による軍団廃止(健児の制に移行)により治安が悪化したため設立された。以前より弾正台が治安維持を職務としていたが、弾正台には逮捕や裁判の権限がなかった。検非違使は、850年までに権限を拡大させ、監察や治安維持(弾正台の仕事)・逮捕(衛府の仕事)・裁判など(刑部省の仕事)の権限を一手に担うようになる。その後、六波羅探題(1221年)が治安維持を担うようになり、消滅していく。
金剛峯寺819嵯峨天皇の代。高野山真言宗総本山で空海が高野山に建立した。空海は、若い頃に修行した高野山に、真言密教の道場を設立しようと嵯峨天皇に願い出て、816年に賜ったとされている。世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産でもある。
弘仁格式820嵯峨天皇の代。養老律令に対する補充法典として編纂された三代格式の一つ。編纂したのは藤原冬嗣。その後も修訂事業が継続され、施行は830年。
綜芸種智院828淳和天皇の代。空海設置した私立学校。当時の教育機関である大学国学は、庶民は入学できず、また学習内容は主に儒教であった。一方、寺院では仏教中心で、儒教などは扱っていなかった。空海はこの状況を打開すべく、誰でも入学でき、儒教・仏教・道教などの総合的な学習ができる学校として、綜芸種智院を計画した。ただし、どこまで計画通りに運営できたかは不明であり、空海の死後10年ほどで、計画の達成は困難とされ、売却された。
承和の変842仁明天皇の代。皇位継承をめぐる政争に絡んだ藤原良房による他氏排斥事件の1つで、伴健岑橘逸勢が処罰された。823年、嵯峨天皇は、父母ともに皇族の血を引く恒世親王を次期天皇にしようとし、慣例に習い先に恒世親王の父、淳和天皇の即位をさせた。しかし、淳和天皇は後ろ盾が乏しく、恒世親王が政争に巻き込まれることを危惧し、嵯峨上皇の息子、正良親王を皇太子にした。833年、淳和天皇が崩御し、正良親王が仁明天皇として即位するが、再び嵯峨上皇が、淳和天皇の息子、恒貞親王を皇太子に選ぶ(この時点で恒世親王は病死)。この事に、自分の息子、道康親王が皇太子に選ばれなかった仁明天皇が不満を抱く。また、道康親王は藤原良房の孫にもあたり、仁明天皇と藤原良房が協力関係となる。結果、842年の嵯峨天皇の崩御で、恒貞親王が後ろ盾を失ったタイミングで、仁明天皇が恒貞親王に仕える伴健岑橘逸勢などを謀反人とし処罰した(謀反の真偽は不明だが、冤罪とも言われる)。事件後、藤原北家の勢力が拡大し、良房は皇族以外で初めて太政大臣となり(857年)、藤原氏繁栄の基礎を築いた。
応天門の変866清和天皇の代。藤原氏による他氏排斥事件の1つ。応天門が放火され、伴善男源信を犯人として告発するが、藤原良房の進言で無罪。その後、今度は伴善男父子が疑われ、流罪となった。この事件で、古代から続く大伴氏は没落した。なお、伴善男と源信は以前より不仲な政敵であり、864年にも伴善男が源信に謀反の噂がある申し立てている。放火犯には諸説あるが、真相は不明。ちなみに、藤原良房は初代の蔵人頭で、良房は皇族以外で初めて太政大臣になった人。平城太上天皇の変で活躍し、嵯峨天皇のもとで弘仁格式を編纂した藤原冬嗣の息子にあたる。
藤原基経の関白就任(初の関白)884光孝天皇の代。天皇を補佐する役職で、藤原良房養子である藤原基経が初めて就任した。応天門の変などの他氏排斥事件により、藤原基経が出世していたことが背景にある。基経が陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を即位させた際、即位助力の見返りに、関白として政治の実権を得られるよう取引していたとも言われる。宇多天皇の代では、基経への関白任命の詔勅に「阿衡」の文字があり、これが阿衡事件(887年)にもつながった。
滝口武者9世紀末宇多天皇の代。蔵人所の下、内裏の警護をしていた武士。背景として、平安京の治安は悪化していたことがあげられる(重税などで盗賊行為が横行し、内裏に侵入することもあった)。内裏の中心的建物である清涼殿近くの「滝口」近くにある渡り廊を詰め所にしていたことから、清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶようになった。平将門も滝口となっていた時期があり、滝口小二郎と名乗っていた。その後、治安の悪化は10世紀以降の武士の反乱としても社会問題となる。
阿衡事件887宇多天皇の代。藤原基経への関白任命の詔勅に「阿衡」の文字がある事に基経が怒り、ストライキを始めた事件。中国の古典では「阿衡」は名ばかりの職であったため、基経はこれに抗議した。宇多天皇は詔勅を撤回し、起草者の橘広相を罷免。広相は抗議するも、「阿衡」の解釈に学者の多くは基経の味方をした(菅原道真は広相を弁護)。事件後、宇多天皇は藤原氏を排斥(菅原道真などを重用)するが、詔勅を撤回させた基経(藤原氏)は権威を高めた。
遣唐使派遣の停止894年宇多天皇の代。唐の混乱や日本文化の発達を理由に、菅原道真によって、停止が建議された。完全な中止ではなかったため、その後も情報収集などが続くも、907年の唐の滅亡で、遣唐使は自然消滅した。
昌泰の変901醍醐天皇の代。左大臣藤原時平が、策略により右大臣菅原道真大宰府へ左遷した事件で、藤原氏による他氏排斥事件の一つ。藤原時平は「菅原道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を天皇に擁立しようとしている」と醍醐天皇に報告し、道真と関係者を処罰させた。当時、宇多上皇は、藤原氏の弱体化を狙い、時平(藤原氏)と対立構造になっていた。そんな中で宇多上皇(899年より法皇)の側近である道真を排除し、宇多上皇の影響力を弱める事が狙いだったとされる。
延喜の荘園整理令(記録上最後の班田)902醍醐天皇の代。荘園の新規設置を規制と、不正な寄進を取締り、国家財政の再建を目指したもの。ただし、実効性には乏しかった。また、田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等もあり、この年が記録上は最後の班田となった。
押領使10世紀頃日本の律令制下の令外官の一つ。地方警察のようなもので、治安の維持を行った。史料上の初見は795年。本格的に実戦に参加したのは承平天慶の乱の頃。
延喜式927醍醐天皇の代。三代格式の一つで、律令の施行細則をまとめた法典。醍醐天皇に命じられ藤原時平らが編纂を開始。時平の死後は藤原忠平が編纂。905年に開始し、927年に完成。施行は967年。三大格式の中で、唯一ほぼ完全な形で残っているため、古代史研究の上で重要。
追捕使932朱雀天皇の代。日本の律令制下の令外官の一つ。「追い捕らえる」の意で、元は軍事的な役割を含んでいなかったが、海賊の反乱などを鎮圧する目的から、戦闘に参加する事が多かった。1190年に源頼朝が日本国惣追捕使に任命され、諸国の惣追捕使の任免権が鎌倉殿に移り、守護と名を変え、発展していった。
土佐日記934年頃朱雀天皇の代。日本最古の日記文学の一つで、紀貫之土佐からへ帰る55日間の旅路を、冗談を交えて綴ったもの。女性のふりをして書かれており、ほとんどかな文字で書かれている。
平将門の乱935940朱雀天皇の代。関東勢力を拡大した平将門が、受領と地方富豪層の間の調停に積極介入し、そのこじれから国衙と戦となり、「親皇」を名乗った事で、朝廷への叛乱とみなされるに至った戦い。平貞盛が鎮圧にあたった。藤原純友の乱とあわせて、承平天慶の乱と呼ばれる。武士の台頭を示す事件であった。
藤原純友の乱939941朱雀天皇の代。瀬戸内海の海賊の討伐に当たっていた藤原純友が、瀬戸内海の海賊を率いて起こした乱。源経基が鎮圧にあたった。平将門の乱とあわせて、承平天慶の乱と呼ばれる。武士の台頭を示す事件であった。
六波羅蜜寺(西光寺)963村上天皇の代。空也が創建し、活動拠点とした寺。現在は真言宗智山派に属している。空也は南無阿弥陀仏」とひたすら唱える称える称名念仏を初めて実践したとされ、浄土教の先駆者ともされる幅広い層(世俗者含む)に念仏信仰を広め、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したともされる空也は超宗派的立場であり、特定の宗派の開祖とはならなかった(親鸞道元も開祖になろうとはしなかったが、結果的に特定の宗派の開祖となっている)。
安和の変969冷泉天皇の代。藤原氏が左大臣、源高明を失脚させた他氏排斥事件。病弱で子供がいなかった冷泉天皇が即位に伴い、皇太子を決める事となったが、その候補が冷泉天皇の弟である為平親王守平親王だった。結果、弟の守平親王が選ばれた(兄の為平親王の叔父は源高明で、関白の藤原実頼が阻止したと思われる)。そんな中で、源高明の謀反が、源満仲らに密告される。高明が宮中では孤立しつつあったこともあり、疑惑により大宰府へ左遷となった。なお、密告の内容や、源高明が謀反にどう係わったかは不明。事件後、摂政・関白は基本的に常置されるようになった。

古代の主な遺跡

正確な時期を年表に含めにくいため、ここでまとめておきます。

主な遺跡

  • 岩宿遺跡:群馬県みどり市にある、旧石器時代遺跡。日本に旧石器時代が存在したことを証明した遺跡。
  • 大森貝塚:東京都品川区大田区にある、縄文時代後期~末期の貝塚エドワード・S・モースが発見し、日本で初めて学術的な発掘調査が行われた。
  • 三内丸山遺跡:青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃~中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡。多くの竪穴建物跡や掘立柱建物跡などが見つかった。世界遺産である「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産でもある。
  • 吉野ケ里遺跡:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にある、弥生時代の大規模集落。深さ2メートルから3メートルの環濠が特徴。邪馬台国だとする説もある。
  • 登呂遺跡:静岡県静岡市駿河区登呂にある、弥生時代の集落および水田遺跡。日本で初めて水田跡が確認された遺跡。

主な文化区分

原始・古代の主な文化区分は、以下の通りです。

原始・古代の文化

  • 旧石器文化:日本列島への人類流入~1万6500年前頃。
  • 縄文文化:前14000年頃 – 前10世紀頃。特徴は、土器と弓矢の使用、磨製石器の発達、定住化の始まりと竪穴建物の普及、環状集落等の定住集落貝塚の形成、植物栽培(半栽培)の始まりなど。
  • 弥生文化:前10世紀 – 後3世紀中頃。特徴は、水稲農、鉄器・青銅器の使用、機織り具の使用など。「弥生」の名前は、の弥生町遺跡で発見された土器が発見地に因み「弥生式土器」と呼ばれたことに由来。
  • 古墳文化:3世紀中頃 – 7世紀頃。特徴は、古墳の築造、土師器須恵器の使用開始など。
  • 飛鳥文化:仏教渡来から大化の改新までの時期。推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。代表的なものは法隆寺飛鳥寺など。鞍作鳥の作とされる『法隆寺金堂釈迦三尊像』が作られたのもこの頃。
  • 白鳳文化大化の改新から710年の平城京遷都までの時期。藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化。最盛期は天武天皇の時代。代表的なものは薬師寺東塔など。
  • 天平文化:8世紀の中頃までの時期。奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。代表的なものは、東大寺の仏像や唐招提寺の建築など。塑像などの仏像彫刻の技術も発展し、乾漆像では興福寺八部衆立像(阿修羅像など)が有名。『日本書紀』『万葉集』の成立時期でもある。
  • 弘仁・貞観文化弘仁貞観年間を中心とする平安時代前期(ほぼ9世紀)の文化。平安京を中心とした貴族文化で、晩唐文化の影響と、天台宗真言宗などの密教の影響が濃い仏教文化
  • 国風文化:10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化。仮名文学(女流文学)の発達,浄土教の流行による浄土教美術・建築の発展などが特徴。仏師の定朝により寄木造が完成したのもこの時期。

中国の歴代王朝・時代

中国の王朝・時代についても出題対象になる事があるため、まとめておきます(原始・古代以降も含む)。

中国の王朝・時代

  • 秦:紀元前221~紀元前206年。中国を最初に統一した王朝。当時、日本は弥生時代。
  • 前漢:紀元前206〜8年。当時、日本は弥生時代。
  • 新:8~23年。当時、日本は弥生時代。
  • 後漢:23~220年。倭の奴国王が後漢に使者を送り、授かった金印。『後漢書』東夷伝に記されている。当時、日本は弥生~古墳時代。
  • 三国時代:220~280年。の三つの王朝が鼎立した時代。卑弥呼は、に使者を派遣し「親魏倭王」の称号、金印、銅鏡百枚を得たことが『魏志倭人伝』に記されている。当時、日本は弥生~古墳時代。
  • 晋代:265~420年。王朝は西晋東晋桓楚の時代にわかれる。当時、日本は弥生~古墳時代。
  • 五胡十六国時代:304~439年。当時、日本は古墳時代。
  • 南北朝時代:439~589年。当時、日本は古墳時代。
  • 隋:581〜618年。当時、日本は古墳~飛鳥時代。600~618年には遣隋使が日本から派遣されていた。
  • 唐:618~907年。当時、日本は飛鳥~平安時代。630年から894年で中止されるまで、遣唐使が日本から派遣されていた。また、白村江の戦いでは、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と、新羅連合軍が戦った。
  • 五代十国時代:907~960年。当時、日本は平安時代。
  • 宋:960~1279年。当時、日本は平安~鎌倉時代。日宋貿易により宋銭が流入した事は、日本の貨幣経済発展につながった。
  • 元:1271~1368年。当時、日本は鎌倉~室町時代。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)による戦いは、鎌倉幕府滅亡の原因にもなった。
  • 明:1368~1644年。当時、日本は室町~江戸時代。室町時代には日明貿易が行われた
  • 清:1636~1912年。当時、日本は江戸時代~明治。アヘン戦争太平天国の乱日清戦争義和団の乱など、日本史でも色々と出てくる。

参考にしたサイト

この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。

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