【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト⑨ 江戸時代前期
この記事では、歴史能力検定2級(日本史)の江戸時代前期(主に大問3の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです。また、わかりやすさの為、江戸時代前期以外の内容も一部掲載しています)。
実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません。「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用くださ
記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。
可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。
また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。
歴史能力検定2級(日本史)の知識【主に江戸時代前期】
この記事では、「江戸時代前期」について、武断政治から文治政治に移り変わっていった1603~1709年頃(正徳の治より前)と定義してまとめます。なお、分かりやすさの関係で、「江戸時代初期」ではない部分も若干含みます。
出来事・用語 | 年代 | 内容 |
文禄・慶長の役 | 1592~1598年 | 豊臣秀吉が明の征服を目指し、明の冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれ、始まった戦いであり、16世紀で世界最大規模の戦争。豊臣秀吉は肥前の名護屋(佐賀県)に本陣をおき、小西行長らを派遣した。文禄の役では、朝鮮の李舜臣率いる水軍に反撃され撤退。慶長の役は当初から苦戦する中、秀吉が病死したことで撤退となった。戦争により、明と朝鮮は深刻な財政難となり、豊臣家にも家臣団の内紛をもたらした。なお、戦いに伴い朝鮮から連行された陶工たちが優れた陶磁器技術を日本に伝えた事で、後に唐津焼や有田焼などが作られた。 |
五大老・五奉行 | 1598年 | 豊臣秀吉が死の間際に、豊臣政権継続の為に導入した制度。嫡男、豊臣秀頼が成人するまでに政治運営を行う様、有力大名5名である五大老(徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝)と、豊臣家吏僚の5名である五奉行(浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家)による合議制をとらせた。ちなみに、誰が五大老で、誰が五奉行かの知識が、2級で問われた事があります。 |
リーフデ号事件 | 1600年 | 豊後国にオランダの商船、リーフデ号が漂着した事件。この事件で、初めてオランダ船が日本に到着した。生存した乗組員の多くは日本に留まることを選び、帰国しようとした船長は途中で死亡、航海士は結局日本に戻り貿易をおこなったため、リーフデ号の乗組員で帰国した者は誰もいなかった。ちなみに、徳川家康は関ヶ原の戦いに、リーフデ号の備砲や砲員を活用したとされる。 |
関ヶ原の戦い | 1600年 | 徳川家康を中心とした東軍と、石田三成を中心とした西軍による戦い。なお、西軍の総大将は、毛利輝元。東軍が勝利し、西軍側の大名は所領を没収され、首謀者の石田三成、総大将の毛利氏などが刑死。大名及びその家臣の多くが浪人となった。また、この後、1603年に家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
石見銀山を徳川家康が直轄地とする | 1600年 | 徳川家康が、石見銀山を直轄地とするための措置を行い、翌1601年には初代銀山奉行を任命した。石見などの主要鉱山を幕府は直轄地としていく事で、貨幣制度の導入に利用した。 |
朱印船貿易 | 1601–1635年頃 | 日本人が東南アジア諸国へ出向いて行った貿易。貿易には、幕府から朱印状を発行してもらう必要があった。なお、明は海禁政策中であり、朝鮮は対馬藩が貿易を独占していたため、この二つは対象外。朱印船制度が完成したのは1604年。1620年代以降、東南アジアの紛争に巻き込まれる事件が多発し、また、朱印船を利用して日本人キリスト教徒を日本へ送り込む布教活動が行われたため、貿易の管理が強化されていく。1635年に全ての日本人の東南アジアへの渡航と帰国が全面禁止され(第3次鎖国令)、終了する。朱印船貿易で活躍した人物としては、京都の証人である茶屋四郎次郎と角倉了以、大阪の商人である末吉孫左衛門が有名。角倉了以は治水事業でも有名である。 |
徳川家康が征夷大将軍に任命される | 1603年 | 徳川家康が征夷大将軍に任命される。この年、江戸に幕府を開き、歴史の区分としては江戸時代となる。江戸幕府では、幕府と藩による封建的主従関係を基礎とした幕藩体制がとられ、軍事力は大名(石高1万石以上)・旗本(石高1万石未満の幕臣で、御目見え(将軍に拝謁)できる)・御家人(御目見以下)の軍役で構成された。また、親藩・譜代を要所に置き、有力な外様は遠隔地に配置し、要職には就かせない方針をとることで、幕府運営の安定を図った。また、幕藩体制における身分制度では、武士が政治や軍事を独占する支配者身分となる一方、非人やかわた等は髪型などで身分を区別され、賤視されていた。 |
江戸時代の三貨制度 | 1603~1868年 | 金、銀、銭の三貨を基本通貨とした貨幣制度。小判などの金貨は東日本、丁銀や豆板銀などの銀貨は西日本を中心に流通した。また、金貨・銀貨・銭貨の交換比率は公定されたが、実際には取引時の相場で変動した。 |
糸割符制度 | 1604年 | 初代将軍、徳川家康の代。糸割符仲間に、外国生糸の価格を決めさせ、一括購入させたものを、一般の商人に売りわたす制度。目的として、生糸の輸入に外国商人が値段の決定権を有し、利益を独占していた事に対抗しようとした事があげられる。 |
松前藩によるアイヌとの交易開始 | 1604年 | 初代将軍、徳川家康の代。幕府は松前藩に対してアイヌと倭人との交易に関する管理権を与えた。この交易による収益は、松前藩の経済的な基盤となった。 |
徳川家康が大御所となる | 1605年 | 徳川家康が、征夷大将軍を徳川秀忠に譲り、大御所となる。大御所となった家康は駿府城に移ったが、影響力を持ち続け、二頭政治のような体制となった。なお、家康以外にも2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、9代将軍家重、11代将軍家斉が大御所となっている。とくに家斉の大御所で実権を握った時期は「大御所時代」と呼ばれている。 |
朝鮮通信使(江戸) | 1607年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。朝鮮から日本への外交使節団。1607年に江戸時代で最初の使節団が幕府に派遣され、秀忠に国書を奉呈し、帰路では駿府で家康に謁見した。朝鮮通信使は、大阪までは海路で移動し、それより東は陸路で大垣、名古屋、岡崎、浜松と進み、大井川と箱根を超えて江戸へ至った。尚、朝鮮通信使自体は室町時代からあったが、文禄・慶長の役で関係が悪化し、中断されていた。一方、幕府は朝鮮半島との速やかな国交回復を目指していたため、通信使の復活が実現した。 |
己酉約定 | 1609年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。対馬の宗氏と朝鮮で結ばれた条約。この条約により、釜山には倭館が設置され、文禄・慶長の役で絶えていた朝鮮との貿易は、対馬藩が独占的に担う形で再開された。また、朝鮮との外交実務も対馬藩が担った。ただし、日朝間の交通量は制限されており、貿易港も釜山に限定された。 |
琉球侵攻 | 1609年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。家康の許可を得て、薩摩の島津家久が行った琉球王国に対する軍事行動。中山王府は一貫して和睦を求め、全面的な抵抗を試みることはなかった。この侵攻で、琉球は幕藩体制に入ったが、王国体制や中国との関係も維持された。尚、琉球国王即位の際には「謝恩使」、幕府将軍代替わりの際には「慶賀使」が派遣された。 |
オランダ商館が平戸に開かれる | 1609年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。オランダ船が平戸に入港したことに伴い設置される。以後長崎の出島に移転するまでの33年間、日本で唯一のオランダ貿易港であった。 |
キリスト教の禁教令 | 1612年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。キリスト教を禁止する法令。鎖国政策の一環でもある。キリスト教宣教を禁止する法令は、1587年にもバテレン追放令が出されていたが、禁教令によりキリスト教に対する本格的な宗教弾圧と、キリスト教徒の仏教への強制な改宗が行われた。背景として、キリシタンによる幕府支配に対する拒否や、1609年のマードレ・デ・デウス号の事件の事件処理で、キリシタン大名とキリシタンの目付約の収賄事件が発生した事も影響している。 |
鎖国(法令の出た時期) | 1612頃-1639年頃 | 2代将軍、徳川秀忠の代~5代将軍、徳川綱吉の代。複数の法律により、貿易などを管理・統制を実施した対外政策およびその体制。主な内容は、1612年の禁教令。1624年のスペインの来航禁止。1633年の奉書船以外の渡航禁止(第1次鎖国令)。1635年の全ての日本人の東南アジアへの渡航と帰国の全面禁止と、外国船の入港を長崎のみに限定(第3次鎖国令)。1639年のポルトガルの来航禁止で鎖国が完成した(第5次鎖国令)。その後、1641年にオランダ商館は平戸から出島に移される。また、1673年にイギリスからの交易再開を拒否してから、100年以上はオランダ以外のヨーロッパからの来航が無くなった。なお、鎖国中に行われた中国・オランダ間での長崎貿易では、俵物(俵に入れた米や海産物)などが主な輸出品となった。 |
慶長遣欧使節 | 1613年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。伊達政宗がルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン王フェリペ3世、およびローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した使節。日本でのキリスト教取り締まりに伴って、外交交渉は成功せず、常長は帰国2年後に没し、ソテロは日本に潜入するが捕まり、火刑となった。 |
大坂の陣 | 1614–1615年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。江戸幕府と豊臣家との合戦。大坂冬の陣(1614年)と、大坂夏の陣(1615年から成る。豊臣家への忠誠心をもつ大名がまだ残っていたことから、豊臣家滅亡を狙い、方広寺鐘銘事件をきっかけに始まった。この戦いにより豊臣秀頼は自害し、豊臣家は滅亡した。 |
武家諸法度 | 1615年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。諸大名の統制のための武家法。将軍の代替わり事に修正されて出され、1717年まで改定が行われた。内容には、文武や倹約の奨励といった規範、大名同士の婚姻の許可制、罪人を匿うことの禁止、居城修補の届出制などがあった。このうち、居城修補の届出制などは、大名の減封や改易に用いられた。後の改定で、3代将軍、徳川家光は武家諸法度で参勤交代を義務化し、4代将軍、徳川家綱は殉死を禁止と末期養子の禁止の緩和を行った。 |
禁中並公家諸法度 | 1615年 | 2代将軍、徳川秀忠の代。禁中及び公家に対する法令。この法令により、天皇の石高は中堅大名以下になり、朝廷の権力は失われていった。 |
紫衣事件 | 1627年 | 3代将軍、徳川家光の代。幕府による規制を無視し、後水尾天皇が大徳寺の僧達に紫衣を与えた事件。事件前、禁中並公家諸法度により、朝廷が勝手に紫衣を授ける事は禁じられた。幕府は勝手に紫衣を受け取った僧侶を流罪とし、朝廷と幕府の関係は悪化。事件の後、後水尾天皇は幕府の許可を得ずに譲位し、朝廷と幕府の緊張状態が続いた。一方、事件の結果、天皇の勅許よりも幕府の定めた法が優先する事が明示された。 |
本末制度 | 1632年 | 3代将軍、徳川家光の代。幕府による仏教に対する統制制度。寺院を階層化し、本山と末寺の上下関係を確定させ、本寺のない寺院や特定の宗派に属さない寺院をなくし、仏教勢力を統制しようとした。1631年には新寺の創建を禁止し、翌年には各本山に「末寺帳」を提出させ、全ての寺院を管理した。 |
大目付 | 1632年 | 3代将軍、徳川家光の代。大名・高家・朝廷を監視し、謀反から幕府を守る監察官。江戸時代中期になると、伝令や江戸城中での儀礼官としての役割が中心となっていった。なお、幕府以外にも、同様の役職を置く藩があった。 |
若年寄 | 1633年 | 3代将軍、徳川家光の代。老中に次ぐ役職で、通常定員は4人で、政務を行った。 |
参勤交代 | 1635年 | 3代将軍、徳川家光の代。原則として1年おきに大名が江戸に滞在する制度(一部の藩には例外あり)。江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に住む必要があり、また江戸までの旅費・江戸の滞在費を大名が負担する必要があったため、各藩の財力を削ぐとともに、人質を取った。以前より同様の制度はあったが、家光が武家諸法度の中で参勤交代の制度化を行った。1722年の上米の制では、石高1万石に対し100石の米を納めると、江戸滞在期間を半年にできる例外的措置があった。また、1862年には参勤交代の頻度が3年に100日に変更された。 |
寛永通宝 | 1636年 | 3代将軍、徳川家光の代。江戸時代全体を通して広く流通した銭貨で、幕末まで鋳造が続いた。寛永通宝が登場するまでの銅銭は、江戸を中心に東国では明銭である永楽通宝が使われていた。 |
島原の乱 | 1637年 | 3代将軍、徳川家光の代。島原藩主の松倉勝家が改宗を拒んだキリシタンに対する熾烈な拷問・処刑を行ったことを契機に発生した反乱で、江戸時代最大級の内戦。なお、松倉勝家は農民に対する過酷な年貢の取り立ても行っており、これも影響した(キリシタンではなく、強制的に一揆に参加させられた百姓もいた)。反乱勢力側の中心人物は天草四郎(益田時貞)。幕府軍の攻撃により、籠城した全員が死亡したとされる。また、島原藩主の松倉勝家は、過酷な年貢取り立てで一揆を発生させたとして改易処分となり、後に江戸時代の大名で唯一となる斬首となった(他の大名は切腹)。 |
大老 | 1638年 | 3代将軍、徳川家光の代。将軍の補佐役で、臨時の最高職。定員は通常1名で、重要な政策決定にのみ関与した。 |
寺請制度 | 1640年 | 3代将軍、徳川家光の代。幕府による宗教統制の制度で、寺請証文を受けることを義務付ける事で、キリシタンではないことを証明させた。この制度により、民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度とも呼ばれることがあるが、厳密には両者は別物。 |
田畑売買禁止令 | 1643年 | 3代将軍、徳川家光の代。農民が自分の田畑を売買する事を禁止する法令。1642年の寛永の飢饉の際、田畑の売買で農民の格差が拡大したため、本百姓の没落を防ごうとしたために出された。しかし、質流れなどで実際は田畑の売買が継続的に行われ、江戸中期になると、法令違反の訴えがない限り容認された。 |
慶安御触書 | 1649年 | 3代将軍、徳川家光の代。農民統制のための法令で、百姓の贅沢を戒め、家業に精を出すよう求めたもの。ただし、原本が発見されておらず、現在は偽書説や、実在性を疑う意見もある。 |
俸禄制への移行 | 17世紀後半~ | 17世紀後半頃から、多くの藩で地方知行制(家臣に一定の領地と権限を与え、領地と農民を直接支配させた制度)から、俸禄制(藩の直轄領からの年貢を蔵米として家臣に支給する制度)に移行していった。 |
浮世絵 | 17世紀後半~ | 江戸初期に成立した、絵画の様式の一つ。菱川師宣が確立者とされる。その他、主な作家に喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽、歌川広重、歌川国芳など。 |
元禄文化 | 17世紀後半~18世紀初頭 | 裕福な町人や武士が主体となった、活気に満ちた文化で、上方(京都や大阪)を中心に栄えた。現世を肯定的に捉え、現実的・合理的な考え方による作品が生まれた。代表作は『浮世物語』、井原西鶴の『好色一代男』、近松門左衛門の『曽根崎心中』、尾形光琳の『紅梅白梅図屏風』、菱川師宣の『見返り美人図』など。 |
慶安の変(由井正雪の乱) | 1651年 | 3代将軍、徳川家光~4代将軍、徳川家綱の代。由井正雪を中心とした浪人が起こした事件。当時、武断政治での大名への抑え込み(末期養子(死に際に養子を取る事)の禁止など)により、多くの大名が減封・改易され、浪人の数が激増していた。また、家光が48歳で病死し、11歳の家綱が将軍を継ぐこととなった事が契機となった。結果、軍学者で浪人の支持を集めた由井正雪が、幕府の転覆を計画する。しかし、計画は露見し、由井正雪は自害した。この事件と、翌年の承応の変は、政策の見直しにつながり、従来の「武断政治」から、法や儀式・制度により社会秩序を維持する「文治政治」への転換点ともなった。 |
末期養子の禁止の緩和 | 1651年 | 4代将軍、徳川家綱の代。大名が死に際に養子を取る「末期養子」の禁止に対して緩和が行われた。背景として、浪人が増加していた事が上げられる(浪人の増加は「慶安の変」の原因にもなった)。文治政治の政策の一つでもあるが、同時期にかぶき者の取り締まりを強化した |
隠元隆琦が来日し、日本で黄檗宗が広まる | 1654年 | 4代将軍、徳川家綱の代。隠元隆琦が来日し、幕府から許容されて、黄檗宗が広まった。黄檗宗は禅宗の一つ。ちなみに、インゲン豆は、隠元が日本に持ち込んだことが名前の由来とされるが、実際に持ち込んだものは現代のフジマメとも考えられており、関西ではフジマメがインゲンマメと呼ばれる。 |
明暦の大火 | 1657年 | 4代将軍、徳川家綱の代。明和の大火・文化の大火と並ぶ「江戸三大大火」の一つ。延焼面積・死者ともに江戸時代最大。 |
大日本史 | 1657年 | 4代将軍、徳川家綱の代。日本の歴史書で、御三家の水戸徳川家当主、徳川光圀が1657年から編纂に着手した。光圀の死後も水戸藩の事業として継続され、明治時代に完成した。 |
藩札 | 1661年 | 4代将軍、徳川家綱の代。藩内で流通した独自の紙幣。福井藩松平家が発行したものが最初とされ、禁止された時期もあったものの明治時代の調査では244藩で発行されていた事が記録されている。 |
若年寄 | 1662年 | 4代将軍、徳川家綱の代。老中に次ぐ役職として設置されて政治を担った。通常、定員は4人。ちなみに、原形は1633年に3代将軍、徳川家光が日常の雑務を扱う為に任命した六人衆とされる(この制度は、6人中4人が老中になり、1649年に廃止された)。 |
諸宗寺院法度 | 1665年 | 4代将軍、徳川家綱の代。江戸幕府による寺院統制のための法令。寺院運営や僧侶の行動について、本山宛に詳細な規律を求める事で、仏教勢力全体のの統制を図った。 |
シャクシャインの戦い | 1669年 | 4代将軍、徳川家綱の代。アイヌのシャクシャインを中心とした松前藩に対する武装蜂起。原因は1648年頃から発生していたアイヌ同士の抗争に遡る。この抗争は、松前藩の仲介で一度は収まったものの、1665年に再び対立が激化、片方のアイヌ民族集団(シュムクル)の首長であるウタフが松前藩に武器を借りようとする。しかし、これを松前藩が拒絶し、そのタイミングでウタフが疱瘡で死亡する。これが「松前藩による毒殺」と誤報され、アイヌの松前藩・和人に対する敵対感情を煽る。結果、対立していたアイヌ同士がシャクシャインを中心に団結し、松前藩への武装蜂起へ至った。松前藩は和睦の話を持ちかけ、その宴席でシャクシャインをはじめ、アイヌの首長を殺害。戦後、松前藩は蜂起したアイヌ以外も含め、対アイヌ交易で絶対的な主導権を握った。 |
東廻海運 | 1671年 | 4代将軍、徳川家綱の代。幕府の命で河村瑞賢が開発した輸送航路による海上輸送。日本海沿岸の酒田から津軽海峡を経由し、東北地方と江戸とを結ぶ。しかし、必ずしも航海の安全が保証されなかったため、西廻海運ほどには発達しなかった。 |
西廻海運 | 1672年 | 4代将軍、徳川家綱の代。幕府の命で河村瑞賢が開発した輸送航路による海上輸送。日本海沿岸を西廻りに、酒田から佐渡小木・能登福浦・下関などを経由し、大阪へと向かい、紀伊半島を迂回して江戸へと結ぶ。瑞賢は、東廻海運と比較し距離は倍以上になるが、安全性で勝る西廻海運を採用した。 |
分地制限令 | 1673年 | 4代将軍、徳川家綱の代。田畑の分割相続による百姓の零細化を防ぐための法令。田畑永代売買禁止令とともに、百姓の没落を阻止する意図があった。 |
囲米 | 17世紀後半~ | 幕府や諸藩で米などを貯蔵し、万が一に備えた制度。幕府が発令したものは1683年が最初とされ、その後もたびたび発令された。とくに松平定信の寛政の改革の際のものが有名で、この時は七分積金(天災などに備えてお金を積み立てる制度。一部は米として備蓄した)として行われた。 |
服忌令 | 1684年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。忌引きの日数などを決めた法令。8代将軍徳川吉宗の時代に改定服忌令が出され(1736年)、確定された法令となった。 |
貞享暦 | 1685–1755年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。和算家の渋川春海によって作られた暦。これにより、平安時代から823年続いた宣明暦の改変に至った。同じく和算家で算聖と言われる関孝和も改暦の機会をうかがっていたが、渋川に先を越され、暦学においては功績をあげられなかった。 |
生類憐みの令 | 1687年頃 | 5代将軍、徳川綱吉の代。動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。成立時期は明確でないが、1687年には綱吉が「人々が仁心を育むように」と生類憐れみの政策を打ち出したとされる。行き過ぎた内容から「天下の悪法」とも言われる反面、福祉的な側面もあり、生類憐みの令廃止後も、捨て子の禁止や病人の保護などの法令は残された。 |
奥の細道 | 1689年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。1689年から旅に出て書き始め、1702年に刊行された松尾芭蕉による紀行及び俳諧の文書。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という冒頭の文章で有名。ちなみに、芭蕉が崇拝した西行の500回忌のタイミング(1689年)に合わせての旅だった。余談だが、私も、西行は小者っぽくて人間臭いエピソードが多いため、そこそこ好きな歴史上の人物である(崇拝はしていないか……)。 |
三奉行 | 17世紀末頃 | 寺社奉行・町奉行・勘定奉行の総称。役職には原則として数名の譜代大名・旗本が就任し、1か月交代で勤務する事で、不正防止を行った。なお、各組織の成立時期にはずれがあり、寺社奉行は1635年頃に設置されたとされるが、勘定奉行は元禄年間に確立していったとされる。 |
(徳川)御三家 | 17世紀末頃 | 将軍家に次ぐ家格で、徳川の名を称することを認められていた3つの分家の事。尾張家・紀伊家は当初より定まっていたが、三つ目は変化もあり、5代将軍徳川家綱の代頃から水戸家が三家に入った。なお、水戸家は駿河家(初期の御三家の一つ)断絶後の1636年から徳川の名を称する事を許可されており、尾張家や紀伊家よりも格下とされていた。 |
湯島聖堂 | 1690年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。徳川綱吉によって建てられた孔子廟で、世界最大の孔子の銅像が祀られている。後に幕府直轄の学問所となった。 |
元禄金銀 | 1695年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。勘定吟味役の荻原重秀が、従来出回っていた貨幣の質を落とし、新たに金や銀の含有量の少ない元禄金銀を作った。この貨幣の水増しにより、一時幕府は大きく利益を上げた。また、従来は過度なインフレが発生して庶民の生活を圧迫したとされたが、近年の研究では11年間のインフレ率は名目で平均3%程と推定され、庶民への影響は少なかったとも言われる(改鋳直後の米価の高騰は冷夏によるもの)。その後、綱吉時代の死後、新井白石らがこの政策を転換し良貨政策を行うが、経済停滞が停滞したとも言われ(逆の意見もある)、「白石デフレ」とも呼ばれる。 |
農業全書 | 1697年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。出版されたものでは日本最古の農書。作者は宮崎安貞。付録は草本学者で有名な貝原益軒の兄、貝原楽軒の著。明の『農政全書』から多くの知識を得た書物だが、内容は日本の事情に合うように編集されている。日本の農業に大きな影響を与え、明治に至るまで何度も刊行された(現在もKindleで読める)。 |
赤穂事件 | 1702年 | 5代将軍、徳川綱吉の代。江戸城の松之大廊下で、吉良義央を斬りつけたとして、赤穂藩藩主の浅野長矩が切腹させられた事件と、その後、取り潰された赤穂藩の旧藩士の一部である大石良雄ら47人が、咎めの無かった義央を恨み、吉良邸に討ち入って義央らを殺害した事件。討ち入りした内46名は切腹となった。なお、浅野長矩が吉良義央を斬りつけた理由は不明。47人が討ち入りした理由には諸説あり、近年では「あだ討ち」という形を取る事で殺人罪を逃れつつ、浪人にならず再仕官しやすいようアピールするための活動であったとの説もある。なお、1748年以降に『仮名手本忠臣蔵』として 人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として上演される(創作なので、史実とは異なる部分もある)。 |
大和本草 | 1709年 | 本草学者の貝原益軒が編纂した本草書。明治時代に西洋からの書籍が輸入されてくるまで、日本史上最高峰の生物学書であり農学書であった。薬用植物(動物、鉱物も含む)・農産物・雑草など1,362種が掲載されていた。 |
参考にしたサイト
この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。