【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト⑧ 戦国時代
この記事では、歴史能力検定2級(日本史)の戦国時代(主に大問3~4の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです。また、わかりやすさの為、戦国時代以外の内容も一部掲載しています)。
実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません。「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用ください。
記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。
可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。
また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。
歴史能力検定2級(日本史)の知識【主に戦国時代】
出来事・用語 | 年代 | 内容 |
応仁の乱(応仁・文明の乱) | 1467–1477年 | 8代将軍、足利義政~9代将軍、足利義尚の代。管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いに端を発し、将軍の後継者問題に細川勝元と山名宗全の有力守護大名の対立が絡み、幕府を東西に分け、各々の領国でも争いとなった大乱。乱の後、幕府の権威が低下した事は、大内氏や細川氏が日明貿易を主導するきっかけにもなった。また、守護や国人が荘園の重層的支配を、一元的に支配する立場となった事で(一円知行化)公家や寺社の荘園が横領され、公家などは没落した。なお、応仁の乱が戦国時代の始まりとする説が古くから一般的だが、近年は明応の政変(1493年)頃まで幕府の権威は一応保たれていたとする見解もある。 |
山城の国一揆 | 1485~1493年 | 山城国において、守護大名の畠山氏の政治的影響力を排除し、国人や農民が8年間自治を行った一揆。当時、後継者争いをしていた畠山義就と畠山政長の両軍を、山城国の国人・農民が撤退させ、国人・農民側の中心人物36名により議会による自治を行うようになった。幕府は山城国を畠山氏から奪おうとした細川政元の思惑もあって、一揆に対して静観する。しかし、荘園領主への年貢の滞納、国人同士や国人と農民の対立などの問題が発生し、幕府は介入を始め、1493年に伊勢貞陸を守護として据える事で終息した。 |
慈照寺(銀閣寺) | 1486年 | 九代将軍、足利義尚の代。東山文化の代表として知られる臨済宗相国寺派の寺院。義政が営んだ慈照寺東求堂にある四畳半の書斎「同仁斎」に見られる書院造は、現代和風建築の源流とも言われる。開基は八代将軍、足利義政。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の1つ。 |
加賀の一向一揆 | 1488~1580年 | 守護の富樫政親と、加賀の一向宗の門徒の間で行われた一向一揆。背景として、富樫正親が一向宗を弾圧していた事があげられる。一向宗側は国人(地方豪族)と協力し、追い込まれた正親は自害した。一揆の後、加賀は浄土真宗が支配する状態が、1580年に石山合戦に敗れるまで継続した。 |
六斎市 | 15世紀後半~ | 都市・農村で特定の日に月6度開かれた定期市。応仁の乱後に一般化されたといわれる。荘官や農民が、これらの市で貨幣を入手したことで、年貢として納められていた農産物の多くが商品として流通するようになった。 |
明応の政変 | 1493年 | 10代将軍、足利義稙の代。細川政元が起こした将軍の擁廃立事件。背景は応仁の乱に遡る。応仁の乱で西軍の盟主として擁立され、劣勢のまま乱が終結した足利義視は、嫡子の義稙と共に美濃へ逃れていた。一方、9代将軍で東軍の盟主であった足利義尚は、六角高頼の討伐に向かった先で病死してしまう。これをチャンスと見た義視と義稙は上洛し、義稙を10代将軍に推挙する。しかし、7代将軍、足利義政や管領の細川政元などが、足利義澄(後の11代将軍)を推挙する。最終的に、日野富子(9代将軍、義尚の母)が、甥である義稙を後援し、義政の死去後(1490年)、義視の出家などを条件に義稙を10代将軍として決定させる。しかし、この決定に義澄を擁立しようとした政元が不満を持つ。また、義稙は政元に政務を任せると約束しながら、政元の反対を無視し、六角征伐と河内征伐と2度も大規模な軍事作戦を行った。このため、政元は日野富子などを懐柔し、1493年起こしたクーデターが明応の政変である。義稙は将軍職を廃され幽閉された。政元は幕政を掌握し、以後将軍権力は細川氏の権力に支えられる。また、将軍は足利義澄となり、足利将軍家は「義稙流」と「義澄流」に二分される。事件は全国(特に東国)で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となり、近年では、戦国時代の始まりをこの事件とする説もある。 |
三浦の乱 | 1510年 | 李氏朝鮮の三浦(さんぽ)で起きた、対馬守護の宗氏と朝鮮居留日本人による反乱。背景として、朝鮮側にとって負担となっていた日本との通交を朝鮮側が制限をしようとした事、また朝鮮に居留する日本人が増加したことで多くの問題が発生し、これに対しても朝鮮側が強硬姿勢で臨んだことが上げられる。反乱は朝鮮に鎮圧され、三浦居留地の廃止や通交の大幅な制限を受け、日朝貿易は衰退した。 |
寧波の乱 | 1523年 | 明の寧波で大内方の遣明船が起こした事件。応仁の乱(1467年)後、堺を拠点にする細川氏と、山口・博多などで活動していた大内氏は、それぞれ独自に明へ使節団を派遣し貿易を行い、勘合符を巡って両者は対立していた。そんな中、1523年、先に寧波に入港していた大内方の遣明船に対し、細川方が賄賂を使って割り込んで入港を進める事件が起こる。これに大内方が怒り、細川方の遣明船を襲撃した。更に、明の役人が細川方に味方した為、大内方は明の役人も殺害する。これが外交問題に発展し、対日感情の悪化も引き起こした。事件後、1536年には大内方が遣明船による貿易を再開し、博多商人が莫大な富を得た。また、この事件によって寧波に近い沿岸部で、日本人商人との私貿易・密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動へとつながっていく。 |
南蛮貿易 | 16世紀半ば~17世紀初期 | 南蛮人、中国人、ヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易。南蛮人は、ポルトガル人とスペイン人を指す。ヨーロッパの物や文化が伝えられ、鉄砲やキリスト教などは大きく影響した。また、当時の明は海禁政策で日本と貿易できなかったが、税制の関係で銀が必要であり、ポルトガル人は明の生糸と日本の銀で中継貿易をしていた。なお、16世紀の日本では朝鮮半島から伝わった灰吹法により、銀の産出量が増加し、世界の銀生産量の1/4~1/3を占めたと考えられている。世界遺産の石見銀山も代表的な産地であった。 |
天文法華の乱(法華一揆) | 1532–1536年 | 延暦寺が京都の日蓮宗を襲撃した事件。背景として京都で日蓮宗の勢力が広がっていた事、事件直前に、以前から日蓮宗と対立していた延暦寺に、日蓮宗側から宗教問答を持ち掛け、延暦寺側が論破された事が上げられる。結果、宗教戦争に発展し、法華一揆となった。近江国の守護大名である六角定頼が仲裁に入るが失敗。六角定頼が比叡山延暦寺側に加担し、日蓮宗の京都にある21の寺が全て焼け落ち、以後6年間は京都での日蓮宗が禁教とされた。1547年に日蓮宗と延暦寺で和議が成立し、15か寺は再建された。 |
鉄砲の伝来 | 1543年 | 種子島(鹿児島県)に中国船(または倭寇の船)で漂着したポルトガル人が、持参したことが伝来の始まりとされる。伝来後、和泉国の堺で量産されるようになった。 |
キリスト教の伝来 | 1549年 | カトリック教会の修道会であるイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を開始した。本国からの軍事的・経済的な支援が無かったため、宣教師たちは到着した土地の有力武将へ南蛮貿易の利益などを訴えながら、布教の許可の取得と安全の確保を行った。 |
徳川家康(当時、松平竹千代)、今川家の人質となる | 1549年 | 徳川家康(当時、松平竹千代)が、父である松平広忠の主君、今川義元のもとへ、織田信広との人質交換の形で移され、人質となった。桶狭間の戦い(1560年)で義元が織田信長に討たれた後、家康(当時、松平元康)は今川氏から離れはじめ、1561年、今川方の拠点であった牛久保城を攻撃して今川氏からの独立を明確にした。その後、1562年に家康は信長と清洲同盟を結んだ。 |
陶晴賢の謀反 | 1551年 | 大内義隆の家臣であった、陶晴賢が謀反を起こして義隆が切腹、大内氏の滅亡につながった事件。背景として義隆は軍事より文化事業に注力しており、その事が家臣団の反感を買っていた。義隆の切腹後、晴賢は大内義長に家督を継がせて傀儡政権を作り、大内氏の内部統制の為に軍事に力を入れ、北九州に影響力を置こうとした。しかし、晴賢の政策に反感を持った毛利元就に敗れ自害した。晴賢の死後も大内氏の内紛は続き、大内義長が毛利軍に打たれ、大内氏は滅亡した。 |
桶狭間の戦い | 1560年 | 尾張国の桶狭間における織田信長と今川義元の合戦。戦いの理由には諸説あるが、近年では義元が三河支配の安定を狙った策の一環だったとも言われる。また、数に劣る信長が奇襲をしかけて勝利したとも言われているが、近年では奇襲はなかったとも言われる。戦後、今川家は没落し、信長は尾張を統一するとともに、畿内制圧への足掛かりを得る。また、徳川家康(当時は松平元康)が三河で独立を回復するきっかけにもなり、信長との清洲同盟(1562年)にもつながった。 |
第4回川中島の戦い | 1561年 | 甲斐国の武田信玄と、越後国の上杉謙信との間で、主に川中島で行われた北信濃の覇権を巡る戦い。全体では1553~1564年まで繰り返され、第5回まで続く(実際に川中島で戦ったのは第2回、第4回)。また、一般に川中島の戦いというと、第4回を指す。第4回では謙信と信玄の一騎打ちが行われたとの話もあるが(真偽不明)、決着はつかず、両者が勝鬨を上げて退いていったといわれる。第四回の後、戦いは収束していき、直接衝突を避けるようになっていった。 |
清洲同盟 | 1562年 | 尾張の織田信長と三河の徳川家康(当時は松平家康)との間で結ばれた軍事同盟。1560年の桶狭間の戦い以降、家康が今川家と敵対関係となっていったため、西の隣国である尾張の織田家との接近を考えた事が背景となっている。同盟により、信長は、家康を今川・武田への守備として活用し、西日本の勢力拡大に集中できるようになった。また家康は、自国より強大な相手(今川・武田・北条)に対し、信長からの援助を受けて対処し、最終的には領地を奪取した。当初は対等同盟であったが、その後の信長と家康の力関係の変化もあり、徐々に実質的な従属同盟に変化。家康は実質的に信長の臣下の立場となる。 |
永禄の変 | 1565年 | 室町幕府13代将軍、足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢に殺害された事件。当時、将軍権力は失墜しており、権力は足利家から細川家へ、更にその家宰の三好家へと移っていた。そこで、義輝は幕府復権を目指し、諸大名との関係を強化、親政を推し進める。幕府と三好家は一旦協力態勢となり、幕府は義輝、実権は三好長慶が握る体制となった。しかし、長慶の病死後、長慶の後継者となった三好義継がまだ若かったことを、義輝は好機とみて勢力拡大を図り、三好方との対立構造が発生する。事件により三好義継・松永久通らが義輝を殺害。また、三好三人衆が足利義栄を14代将軍に擁立した。その後、三好家中でも対立関係が表面化し、三好三人衆と松永久秀は対立。更に、足利義栄と足利義昭の間で将軍の跡継ぎ問題も発生した。 |
15代将軍、足利義昭が将軍となる(室町幕府最後の将軍) | 1568年 | 織田信長と合流し、信長に擁立されることとなった足利義昭が上洛し、第15代将軍に就任した。就任後、義昭は信長と対立し、武田信玄・浅井長政などと信長包囲網を築き上げ、一時は信長を追い詰める事もあった。1573年、義昭は信長に京都を追われ、これをもって室町幕府滅亡とするのが一般的であるが、征夷大将軍の地位は継続しており、朝廷に地位を返上した1588年が室町幕府滅亡とする説もある。なお、室町幕府滅亡後も、朝廷や豊臣秀吉から最後まで好待遇であった。 |
撰銭令 | 室町時代~ | 室町幕府や大名などが、支払の際に劣悪な銭貨を排除すること(撰銭)を禁止した法律。室町時代前後から貨幣経済は発達し、税の銭納化も進められていた。そのため貨幣の需要が増えるにしたがい、質の悪い銭貨が流通。取引において悪銭が嫌われ、円滑な流通が阻害されていたことが原因となった。幕府からは1500年に発令され、1542年まで、たびたび撰銭に関する法令を発布している。また、信長の撰銭令は1569年に発令された。 |
姉川の戦い | 1570年 | 織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍との合戦。戦いの前、信長は足利義昭が第15代将軍に就任した為、挨拶の為上洛しようとしていたが、朝倉義景に阻まれており、その為に信長側が越前へ攻め入ることになった(金ヶ崎の戦い)。当初、信長側が優勢に戦うが、信長の妹のお市の方と結婚して親戚関係を結んでいた浅井長政に裏切られる(長政は、古くからの朝倉氏との同盟を優先した)。この裏切りに怒った信長は、浅井長政を討つために北近江に向かった際の戦いが、姉川の戦いである。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢に戦うが、織田と同盟関係にあった徳川軍の援護により、織田・徳川連合軍が勝利。この戦いがきっかけとなり、浅井氏と朝倉氏は滅亡していく。また、この戦いで浅井・朝倉連合軍を助けた比叡山が、後に焼打ちされることになる。 |
石山合戦(石山戦争) | 1570~1580年 | 浄土真宗本願寺の勢力と、織田信長との間で10年に渡って行われた合戦。当時の経済の中心地で、天然の要塞であり、朝廷を牽制・監視できる場所に拠点を作りたいと思っていた織田信長は、石山本願寺の明け渡しを一方的に迫っていた。結果、石山合戦となり、浄土真宗本願寺の勢力と信長は10年にわたり戦いを続けていた。最終的に、信長は兵糧攻めを行う。本願寺側についた毛利水軍が食料の輸送路である川を守るが、信長の軍艦により撃破され、本願寺法主の顕如は1580年に石山本願寺を信長に明け渡した。戦後、秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築城(1583年)した。 |
比叡山延焼き討ち | 1571年 | 比叡山延暦寺を、織田信長が攻めた戦い。当時、足利義昭を上洛させて第15代将軍に就けた信長は、畿内の大名に上洛を求めたが、朝倉氏だけはこれに従わず、戦いが始まった。味方と思っていた浅井長政に信長は攻められるものの、浅井長政と朝倉義景を追い詰める(姉川の戦いなど)。この際、両者が延暦寺に避難すると思われたため、信長は延暦寺に対し「浅井氏・朝倉氏を保護しない事」「浅井氏・朝倉氏に協力したら焼き払う事」などと書いた書簡を送った。しかし、延暦寺はこの書簡を無視し、浅井長政・朝倉義景を保護した為、信長が激怒し焼き討ちに至った。焼き討ちの後、延暦寺の寺領・社領は信長に没収され、武将に配分された。延暦寺の再建が始まったのは1584年で、生き残った僧侶達が豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に僧兵を置かない事を条件に再建の許可と寄付を取り付け、実現した。なお、この戦いで信長軍は延暦寺を焼き払い、女子供も皆殺しにしたとされるが、近年の発掘調査では、延暦寺の施設の多くは以前から廃絶していた可能性があるという。 |
三方ヶ原の戦い | 1572年 | 武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加しようと上洛中の武田軍を、徳川・織田の連合軍が迎え撃った。結果は、ほぼ武田軍の狙い通りに進み、徳川・織田軍が敗退。ただし、戦闘開始時刻が遅かったこと、本多忠勝などの武将の防戦で、家康は生き残った。圧勝した信玄だが、病状が悪化し、1573年に撤退し、その年に没した。その後、長篠の戦(1757年)で、今度は武田軍が敗北し、滅亡へつながる。余談だが、自身の慢心を戒めるため、三方ヶ原の戦いの直後の家康を描いたとされる「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は逸話と共に有名だが、近年では「後世に描かれたのでは?」「そもそも三方ヶ原とは関係ないのでは?」との指摘がされている。 |
室町幕府の滅亡 | 1573年 | 織田信長に第15代将軍、足利義昭が京都を追われ、これをもって幕府滅亡とするのが一般的である。また、征夷大将軍を朝廷に返上した1588年を室町幕府滅亡とする説もある。 |
長篠の戦い | 1575年 | 織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼軍による長篠(三河国。愛知県東部の方)における合戦。戦いの原因は、家康の領地である三河の重要拠点、長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたこととされる。武田軍が敗北し、滅亡へとつながる。「鉄砲三段撃ち」で有名な戦いであるが、『信長公記』には明確な記述は無く、実在したかは疑問視されている。 |
安土城 | 1576年 | 琵琶湖東岸、近江国の安土山に織田信長が築いた城。軍事拠点より、政治的機能を優先して作られたとされる。城下町には楽市令が出され、市場の振興が促された。山崎の戦いの後、安土城の天主と周辺の本丸などは焼失したが(焼失後も城としての機能は果たしていた)、その原因は不明で、明智光秀軍の敗走に伴う放火、織田信雄軍による放火、略奪目的の放火など諸説ある。 |
信長の楽市令 | 1577年 | 美濃国・近江国・安土などに信長は楽座令を発令し、自由な商売を認めることで、市場振興を図った。なお、楽市令は他の戦国武将も出しており、1549年に六角定頼が発令したものが最初とされる。 |
信長が本願寺の顕如と講和 | 1580年 | 石山合戦の終結の際、信長との間で行われた講和。1570年より、当時の経済の中心地で、天然の要塞であり、朝廷を牽制・監視できる場所に拠点を作りたいと思っていた織田信長は、石山本願寺の明け渡しを一方的に迫っていた。結果、石山合戦となり、浄土真宗本願寺勢力と信長は10年にわたり戦いを続けていた。最終的に、信長は兵糧攻めを行う。本願寺側についた毛利水軍が食料の輸送路である川を守るが、信長の軍艦により撃破され、本願寺法主の顕如は1580年に石山本願寺を信長に明け渡した。戦後、秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築城(1583年)した。 |
天正遣欧少年使節 | 1582年 | 九州のキリシタン大名、大友義鎮・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。1590年に帰国するも、既にバテレン追放令を発した後であったため、布教は許されなかった。 なお、過去問では見かけなかったが、派遣を進めた宣教師のヴァリニャーニも、難易度的には出題される可能性があるかと思われる。ヴァリニャーニは印刷技術も伝え、『伊曽保物語(イソップ物語)』などが印刷された。 |
本能寺の変 | 1582年 | 織田信長が京都に滞在中、明智光秀が謀反を起こし、信長を自害に追い込んだ事件。信長は中国征討中の豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)を援助するため出陣の途中であった。変の後、秀吉は中国大返しをして、山崎の戦いで光秀を破り、天下人として前進していくこととなる。 |
山崎の戦い | 1582年 | 本能寺の変を受け、中国征討中の羽柴秀吉が毛利氏と和議を結んで引き返し(中国大返し)、山城の山崎で明智光秀を破った戦い。戦いの後、織田家の跡継ぎ問題を話し合う「清洲会議」が開かれた。また、秀吉は信長の後継者として勢力を増していくこととなる。 |
清洲会議 | 1582年 | 織田家の跡継ぎ問題と、領地再分配を話し合った会議。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人だが、勝家は山崎の戦いに参戦できなかった為、領地再分配では他の3人よりも領地が少なかった。また、後継者に選ばれた織田秀信が幼かった為、織田信長の側近、堀秀政が代官・守役となった。 |
太閤検地 | 1582年 | 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が日本全土で行なった検地。1598年に秀吉が死ぬまで続いた。従来の貫高制(土地の面積に応じて徴収)から、石高制(土地の生産性に応じて徴収)に切り替えた事で、年貢徴収の効率性を高め、後に石高が軍役や年貢の基準として利用される事につながった。また、土地の耕作者が土地の所有者としてみなされた事で、表向きでは荘園制の消滅につながった(実態としてはその後も農村内で様々な権利関係が残った)。更に農民が農地の所有権を認められ年貢納入の義務を負わされることで、刀狩と併せて兵農分離も促進した。 |
賤ヶ岳の戦い | 1583年 | 賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。背景として、清洲会議で信長の後継者にまだ幼い織田秀信を擁立しようとしたことで、秀吉と勝家の間で論争が起こっていた。結果、秀吉が推薦した秀信が擁立されたが、織田家内部は二分され、戦いへと至った。戦いの結果、勝家は自害。一方、秀吉はこの戦いに勝利し、天下人へ前進した。 |
大阪城 | 1583年 | 石山本願寺の跡地に築かれた城。豊臣政権による諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。しかし、秀吉の関白時代は京都の聚楽第、関白引退後は伏見城で政務にあたっていた為、大阪城はあまり利用されていない。大坂冬の陣、大坂夏の陣では戦場となった。 |
小牧・長久手の戦い | 1584年 | 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康陣営で行われた織田家の後継者争いの戦い。賤ヶ岳の戦いで、信長の三男である織田信孝や柴田勝家を破った秀吉は、当時織田家の実質的な後継者となっていた。また、「清洲会議」で、表向きの後継者は当時3歳であった織田秀信となっていた。これに対し、信長の次男、織田信雄が反発。信雄は家康と同盟を結び、更に反秀吉派の勢力を使い、秀吉勢力を包囲した。一方の秀吉は信雄を倒す為、信雄の家臣を寝返らせるが、これに信雄が怒り戦いとなる。長久手の戦いで、秀吉軍は家康軍に壊滅に追い込まれるものの、秀吉は信雄の領土であった伊勢を攻め和睦に持ち込んだ。ちなみに、戦いの後、家康は秀吉の大軍から総攻撃を受ける可能性が高かったものの、1586年に最大震度6と思われる大地震に見舞われ、秀吉軍は大きく被災。戦いどころではなくなったところで、和解する方向で交渉が進み、家康が豊臣氏に臣従して豊臣政権に加わった。 |
(羽柴秀吉の)四国攻め | 1585年 | 当時、四国で最大勢力を誇っていた、土佐の長宗我部氏と、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)との間の戦い。当初は秀吉、長宗我部元親ともに交渉による和解を目指していたが、領土の対立により交渉は決裂し、戦いとなった。元親の降伏により秀吉の四国平定が完了。元親は土佐一国20万石のみとなり、豊臣政権下の一地方大名となった。この後、秀吉は島津義久を降伏させて九州平定(1586-1587年)を果たした。 |
秀吉、関白に就任 | 1585年 | 武士として初の関白就任。就任前、羽柴秀吉が内大臣に昇進した事に伴い、二条昭実と近衛信輔の間で関白の地位を巡る争いが発生していたが(関白相論)、これに秀吉が介入し、結局秀吉が関白に就任した。なお、豊臣姓を賜ったのは翌1586年で、この年に太政大臣にもなった。ちなみに、1591年に秀吉の養子、豊臣秀次が関白職を継いでおり、武士で関白に就任したのはこの二名のみである。 |
聚楽第 | 1586年 | 豊臣秀吉が京都に建てた政庁・邸宅であるが、8年で取り壊されたため不明な点が多い。九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、後陽成天皇の行幸を迎えている。 |
バテレン追放令 | 1587年 | 豊臣秀吉が出したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。追放令の原因には「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していた」「キリスト教徒が神道・仏教を迫害した」「一向一揆を恐れた」など諸説がある。なお、ポルトガル国王セバスティアン1世は、大規模な奴隷交易がカトリック教会への開宗に悪影響を与えると考え、1571年に日本人奴隷貿易の中止を命令していたが、秀吉が知っていたかは定かではない。 |
惣無事令 | 1587年 | 豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令。あくまでも天皇の命令という立場を掲げ、大名を従わせて支配下に置いた。惣無事令に違反した者には、軍を動員した包囲攻撃・一族皆殺しを含む死罪・所領没収・減封・転封といった厳罰を与えるようにした。この事から、惣無事令により天下統一が成り立ち、豊臣政権の支配原理となったとする説もあるが、惣無事令以前にも権力者が出した停戦令は数多くあり、異論もある。 |
(豊臣秀吉の)刀狩令 | 1588年 | 豊臣秀吉による武士以外の武器所有を放棄させた政策であり、全国で兵農分離を進めた。なお、刀狩については戦国時代の諸大名によって行われており、記録上初見は1228年に、第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して発令したもの。海賊取締令とほぼ同時に出された。 |
海賊取締令(海賊停止令) | 1588年 | 豊臣秀吉による武士以外の武器所有を放棄させた政策であり、海賊衆(水軍)に対し、海賊行為をしない事を誓約させ、海民の武装解除を目的とした政策。刀狩令とほぼ同時に出された。なお、令の呼称は定まっておらず、いくつかある。 |
小田原攻め | 1590年 | 豊臣秀吉が、小田原北条氏(後北条氏)と戦った合戦。北条氏と真田氏(上杉氏)の領土紛争における秀吉の裁定の一部に北条家の家臣、猪俣邦憲が不満を持ち、独断で名胡桃城を攻撃したことが惣無事令違反と見なされ、北条氏が豊臣氏の軍事力による攻撃を受けた。北条氏直は、和解に向けて弁明した書状を秀吉に送るが戦いは避けられず、開戦の責任により、北条氏政と弟の北条氏照は切腹。北条氏の旧領は徳川家康に割譲された。 |
身分統制令(人掃令) | 1591年 | 豊臣秀吉が行った、身分政策で、武家奉公人が百姓・町人になることや、百姓が商人になる事などを禁じた法令。なお、1592年に出された人掃令と共通する内容があることから、両者を同じようにみなすこともあり、歴史能力検定2級の過去問(2022年まで)では毎回人掃令の名称で出題されていた。 |
人掃令(身分統制令) | 1592年 | 豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し行った全国の戸口調査。兵力の把握などの調査を行った事が、結果的に兵農分離にもつながった。なお、1591年に出された身分統制令と共通する内容があることから、両者を同じようにみなすこともあり、歴史能力検定2級の過去問(2022年まで)では毎回人掃令の名称で出題されていた。 |
文禄・慶長の役 | 1592~1598年 | 豊臣秀吉が明の征服を目指し、明の冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれ、始まった戦いであり、16世紀で世界最大規模の戦争。豊臣秀吉は肥前の名護屋(佐賀県)に本陣をおき、小西行長らを派遣した。文禄の役では、朝鮮の李舜臣率いる水軍に反撃され撤退。慶長の役は当初から苦戦する中、秀吉が病死したことで撤退となった。戦争により、明と朝鮮は深刻な財政難となり、豊臣家にも家臣団の内紛をもたらした。なお、戦いに伴い朝鮮から連行された陶工たちが優れた陶磁器技術を日本に伝えた事で、後に唐津焼や有田焼などが作られた。 |
サン=フェリペ号事件 | 1596年 | 土佐に漂着したスペイン船のサン=フェリペ号の乗組員が、スペインが海外征服に宗教を利用している旨の失言をし、その報告を受けた豊臣秀吉が激怒したとされる事件。再度の禁教令の発令や、京都で布教中だったカトリック信者26人を磔にして処刑する「二十六聖人殉教事件」のきっかけになった。なお、当時朝鮮出兵が頓挫していた秀吉は、フィリピン征服を検討する中で、アジアにおけるスペインの脆弱さを知っていたと考えられ、上記失言を真に受けて行った行動かは明確ではない。 |
五大老・五奉行 | 1598年 | 豊臣秀吉が死の間際に、豊臣政権継続の為に導入した制度。嫡男、豊臣秀頼が成人するまでに政治運営を行う様、有力大名5名である五大老(徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝)と、豊臣家吏僚の5名である五奉行(浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家)による合議制をとらせた。ちなみに、誰が五大老で、誰が五奉行かの知識が、2級で問われた事があります。 |
リーフデ号事件 | 1600年 | 豊後国の臼杵湾にオランダの商船、リーフデ号が漂着した事件。この事件で、初めてオランダ船が日本に到着した。生存した乗組員の多くは日本に留まることを選び、帰国しようとした船長は途中で死亡、航海士は結局日本に戻り貿易をおこなったため、リーフデ号の乗組員で帰国した者は誰もいなかった。ちなみに、徳川家康は関ヶ原の戦いに、リーフデ号の備砲や砲員を活用され、乗員のヤン・ヨーステン(耶揚子)やウィリアム・アダムス(三浦按針)は江戸幕府の外交顧問となった。 |
関ヶ原の戦い | 1600年 | 徳川家康を中心とした東軍と、石田三成を中心とした西軍による戦い。なお、西軍の総大将は、毛利輝元。東軍が勝利し、西軍側の大名は所領を没収され、首謀者の石田三成、総大将の毛利氏などが刑死。大名及びその家臣の多くが浪人となった。また、この後、1603年に家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
朱印船貿易 | 1601–1635年頃 | 日本人が東南アジア諸国へ出向いて行った貿易。貿易には、幕府から朱印状を発行してもらう必要があった。なお、明は海禁政策中であり、朝鮮は対馬藩が貿易を独占していたため、この二つは対象外。朱印船制度が完成したのは1604年。1620年代以降、東南アジアの紛争に巻き込まれる事件が多発し、また、朱印船を利用して日本人キリスト教徒を日本へ送り込む布教活動が行われたため、貿易の管理が強化されていく。1635年に全ての日本人の東南アジアへの渡航と帰国が全面禁止され(第3次鎖国令)、終了する。朱印船貿易で活躍した人物としては、京都の証人である茶屋四郎次郎と角倉了以、大阪の商人である末吉孫左衛門が有名。角倉了以は治水事業でも有名である。 |
かぶき踊り | 1603年 | 出雲阿国が「ややこ踊り」を基に創始したとされる。また、後に様々な変遷を経て、現在の歌舞伎となっていったとされる。 |
参考にしたサイト
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