【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト⑦ 室町時代
この記事では、歴史能力検定2級(日本史)の室町時代(主に大問2の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです。また、わかりやすさの為、室町時代以外の内容も一部掲載しています)。
実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません。「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用ください。
記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。
可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。
また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。
歴史能力検定2級(日本史)の知識【主に室町時代】
出来事・用語 | 年代 | 内容 |
津料 | 平安末期以降 | 港に停泊する船舶や積荷に対して徴収した入港税。室町幕府の財政基盤の一つ。 |
土倉役 | 鎌倉時代以降 | 京都の土倉に対して行われた課税。室町幕府においては、主要財源の一つ。元は有力寺院や朝廷などが徴税を行っており、朝廷の代理で幕府が徴収を行っていたが、徐々に幕府は土倉への独自課税を行うようになる。1393年には法令を出し、有力権門の権益を否定し、朝廷の課税も最低限に制限した。 |
関銭 | 鎌倉時代後期以降 | 交通の要所に設置された関所において、人、馬、荷物、船などに対して徴収した通行税。室町幕府の財政基盤の一つ。室町時代以降は、幕府以外の多くの主体が関所を設置し、関銭を求めた為、流通を阻害した。これに対し、織豊政権の時代に関所の撤廃が行われ、関銭は消滅していった。 |
正中の変 | 1324年 | 14代執権、北条高時の代。後醍醐天皇を中心とした討幕未遂事件。背景として、御家人の困窮や悪党の発生で、社会が荒廃する中、14代執権の北条高時は、内管領の長崎高資に政治を任せていた。更に権力を持った高資は、好き放題に政治を行っており、状況の改善は見えなかった(奥州安藤氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、紛争を激化させる(安藤氏の乱)など)。結果、後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が、倒幕計画を立てる。ただし、計画段階で幕府側に情報が漏れたため、実行はされなかった。後醍醐天皇は冤罪とされたが、9年後に再度倒幕を掲げ、元弘の乱が起き、幕府は滅亡する。 |
元弘の乱 | 1331~1333年 | 後醍醐天皇の代。鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、北条得宗家の勢力との間で起こった内乱。当初、倒幕の計画が漏洩し、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、退位させられ隠岐に流される。しかし、楠木正成が活躍している間に、後醍醐天皇は逃亡。更に各地でも反乱が発生し、足利尊氏や新田義貞の天皇側への寝返りもあり、後醍醐天皇が勝利する。その後、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる政治を行う。なお、一度後醍醐天皇が退位させられた際、後醍醐天皇の大覚寺統と対立する持明院統から光厳天皇が即位していたが、後醍醐天皇の勝利と共に、光厳天皇は廃位させられた。 |
建武の新政 | 1333年 | 後醍醐天皇の代。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が、天皇親政を復活させようとした政治。武士だけでなく、公家、農民からも不満が出て、元弘の乱後の混乱を収拾しきれなかった。足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、政権は3年で崩壊した。 |
雑訴決断所 | 1333年 | 後醍醐天皇の代。建武の新政の一環で、朝廷に設置された訴訟機関(令外官)。公家・武家出身者が混在した組織で、主に土地(所領)の相論を扱い、後には後醍醐天皇の綸旨の施行にもあたった。建武政権の崩壊に伴い消滅。 |
陸奥将軍府 | 1333年 | 後醍醐天皇の代。建武の新政の一環で、東北地方に設置された地方統治機関。東北や北関東(下野・上野・常陸の3国)を管轄した。 |
御料所 | 室町時代以降 | 天皇や幕府などの公権力が支配した直轄地。奉公衆ができてからは、奉公衆によって御料所の管理が行われた。室町幕府も50ヶ所近い御料所(公方御料)を持ち、経済基盤としていたが、戦乱により経営は安定しなかった。 |
酒屋役 | 室町時代以降 | 主に室町幕府による京都を中心とする酒屋に対する課税。1393年に幕府が出した法令により、有力権門の権益否定や、造酒正(酒などの醸造を扱った役所)による課税を最低限に制限することが定められ、幕府の財政基盤として機能した。 |
守護請 | 室町時代以降 | 守護が荘園領主に代わって年貢徴収を実施し、一定額の年貢を荘園領主へ渡す仕組み、またはその契約。背景として、荘園領主が荘園の保持に守護の力が必要だった事、また従来の請負人である地頭などが守護の被官となり、請負契約を守護と結ばざるをえなかった事が上げられる。守護は大きな軍事力を持っていた為、結果的に領主に年貢を支払わなかったり、荘園の乗っ取りを行う者も現れた。 |
同朋衆 | 室町時代以降 | 室町時代以降、将軍家に仕え、雑事や諸芸能に従事した人。時宗教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。 |
御醍醐天皇、記録所を再興する | 1334年頃 | 後醍醐天皇の代。建武の新政の一環で、八省の外に記録所を設置され、建武政権における最高政務機関として、重要審議を処理させた。なお、記録所とは当初は荘園調査機関として延久の荘園整理令で設置されたもの(高校日本史レベルでよく出題される)だが、その後復興される際に度々機能が変化し、建武の新政で再興された際は最高政務機関として機能するようになった。 |
中先代の乱 | 1335年 | 後醍醐天皇の代。14代執権、北条高時の遺児である北条時行が、幕府再興の為に起こした乱。後醍醐天皇暗殺を企てた北条泰家等の挙兵に応じて、時行が御内人の諏訪頼重に擁立され、挙兵した(時行は10歳だったので、代わりに頼重が中心になった)。時行は、足利直義軍に勝利し鎌倉を奪い返したものの、足利尊氏軍に敗れ、僅か20日で鎌倉を追われる(その為、廿日先代(はつかせんだい)の異名がある)。戦後、頼重は自害。時行は南北朝時代に南朝側で尊氏と再度戦うも、捕えられ鎌倉で処刑されたとされる。この戦いの際、尊氏は「総追捕使」と「征夷大将軍」の役職を後醍醐天皇に要請したが拒否され、そのまま出兵した。その対立は、南北朝の動乱へとつながっていく。ちなみに、先代(北条氏)と後代(足利氏)との間で、一時的に鎌倉を支配したことから「中先代の乱」と呼ばれる。 |
建武式目 | 1336年 | 後醍醐天皇の代。室町幕府で足利尊氏が示した施政方針。あくまで方針であって「御成敗式目」のような法ではない。「建武の新政」に対する批判も盛り込まれている。中先代の乱の後、武家政権を目指す足利尊氏と、それを阻止しようとする後醍醐天皇が対立し、湊川の戦い(1336年)で尊氏が勝利した後、制定した。なお室町時代の開始時期は建武式目を制定した1336年とする説が有力(征夷大将軍に補任された1338年とする説もある)。ちなみに、建武式目では「バサラ(身分秩序を無視した振る舞い、実力主義、華美な服を好む文化。室町時代初期に流行)」を禁じている(バサラは3級で出題されていたことがある)。 |
南北朝時代の始まり | 1337年頃~1392年 | 後醍醐天皇の代。足利尊氏が京都で光明天皇(北朝・持明院統)を擁立し、後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が京都から吉野に逃れ、「北朝」と「南朝」が並立に分立した。背景として、湊川の戦で後醍醐天皇が尊氏に敗れ、建武の新政が崩壊したことが上げられる。1392年、両朝が合一するまで続く。なお、南北朝時代の開始時期は、後醍醐天皇が吉野へ遷った1337年とする説や、建武の新政の開始年である1333年とする説などがある。 |
天龍寺船の派遣 | 1342年 | 初代将軍、足利尊氏の代。足利尊氏が |
鎌倉府 | 1349–1455年 | 初代将軍、足利尊氏の代。鎌倉幕府の本拠地であった鎌倉や関東10か国を掌握する機関。尊氏の次子である基氏が長官である鎌倉公方の初代となり、その子孫が世襲した。また、鎌倉公方を補佐する関東管領は、上杉氏が世襲した。評定衆・引付衆・侍所・政所等、幕府に準じた機構を持つ。永享の乱や享徳の乱では鎌倉公方と関東管領が対立し、享徳の乱(1454年)により体制が崩壊していくこととなり、1455年に終了。 |
観応の擾乱 | 1350~1352年 | 初代将軍、足利尊氏の代。尊氏の弟で幕府の実権を握る足利直義派と、尊氏による派閥を中心とした争い。背景として、初期の幕府は尊氏と直義で権限分割が行われた二頭政治であったこと、二頭政治の結果、守護の管轄が明確でなかった事、足利尊氏の執事である高師直が、直義と対立した事があげられる。直義が尊氏に強く頼み込み、師直が執事を解任された事で関係が悪化。1349年に、師直は尊氏派を集め、直義を包囲。直義の政務を罷免し、尊氏の嫡男、義詮を登用させた。更に、直義派の流罪・殺害を行い、師直は執事に復職した。1350年、一旦は出家した直義は、尊氏が足利直冬を追討しようとしたタイミングを好機とみて京都を出奔、南朝を味方につけ師直誅伐を掲げて挙兵。ここからの一連の戦いを観応の擾乱と呼ぶ(なお、直冬は直義の養子で、尊氏と敵対していた)。戦いに敗れた尊氏・師直は、一旦は直義と和睦するが、師直は直義派により殺害される。師直がいなくなったことで、直義が義詮の政務を後見する形式で幕政を再開するも、二頭政治状態は解消されず、更に南朝の影響もあり政局は安定しなかった。結局、再び戦いとなり、最終的には直義が死亡したことで派閥争いは収束。この乱は、南朝が力をつける原因にもなり、南北朝の動乱が長引くこととなった。 |
観応の半済令 | 1352年 | 室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めた法令。当時観応の擾乱により軍費などの調達が必要になったため、激戦地となった近江・美濃・尾張に対して半済令が出された。なお、後に出された1368年の応永の半済令では、皇族や寺社などを除き荘園年貢の半済を永続的に認めさせたため、守護の荘園・公領への侵蝕が本格化し、守護領国制・守護大名へとつながった。 |
朱元璋により明が建国される | 1361年 | 朱元璋により、漢民族の国家である「明」が建国される。3代将軍、足利義満の代に日明貿易が行われるが、4代将軍義持によって中断。6代将軍義教の代に再開する。この貿易の「開始→中断→再開」の流れは入試でも頻出なので覚えておくこと。 |
洪武通宝 | 1368年 | 中世の日本で流通した貨幣の一つ。明銭の一種で、洪武帝の代に発行が開始された。 |
猿楽 | 1374年~ | 3代将軍、足利義満の代。室町時代に成立した日本の伝統芸能。義満が観阿弥と世阿弥に感銘を受け、庇護したのが1374年とされる。庇護の後、公家社会との接点も生まれ、上流階級の文化も取り入れられ、洗練されていった。また、権力と結びつきながら発展し、能の原型として完成した。 |
室町幕府の五山・十刹制度の確立 | 1386年頃 | 3代将軍、足利義満の代。義満は、南宋に習った寺院の管理制度として、幕府が保護した臨済宗について、五山制度の改革にあわせて十刹制度の改革を行った。南禅寺を最上位(別格)として、鎌倉五山(一位から「建長寺」「円覚寺」「寿福寺」「浄智寺」「浄妙寺」)、京都五山(一位から「天龍寺」「相国寺」「建仁寺」「東福寺」「万寿寺」)。その下に鎌倉十刹、京都十刹。更に下に諸山として位付けした。 |
明徳の乱(内野合戦) | 1391年 | 3代将軍、足利義満の代。山名氏が室町幕府に対して起こした反乱。義満は有力守護大名勢力を削減し将軍権力の強化を図っており、その一環で義満は山名氏を挑発し、挙兵させた。戦いにより山名氏清は戦死し、敗北した山名氏は11か国の守護領国から3か国に減らされ、一方義満は将軍権力を示した。 |
南北朝の合一 | 1392年 | 3代将軍、足利義満の代。「南朝(大覚寺統)」と「北朝(持明院統)」2つの朝廷が存在していたが、南朝第4代の後亀山天皇が、北朝第6代の後小松天皇に三種の神器を渡し、譲位する形で両朝が合一した。この際、両朝の間で、和議と皇位継承について締結された約定が「明徳の和約」と呼ばれる。背景として、南朝の強硬路線の長慶天皇が、弟で和平派の後亀山天皇に譲位したこと、南朝の中枢の人物が相次いで亡くなった事、相次ぐ敗戦で南朝側の軍事力が失われていた事、足利義満が有力守護大名勢力を削減し、中央集権化を進め、力をつけていた事があげられる。 |
李氏朝鮮の成立 | 1393年 | 3代将軍、足利義満の代。クーデターを起こした高麗の武官、李成桂が、明に冊封される形で、成立した朝鮮半島最後の統一王朝。王朝成立前、明への遠征中にクーデターを起こした李成桂は、高麗王を廃位させ、1392年に新政権を作っていた。なお、李氏朝鮮では前政権を否定する為、高麗の国教であった仏教を否定し、儒教を国教化した。 |
鹿苑寺(金閣寺) | 1398年 | 4代将軍、足利義持の代。3代将軍、足利義満が開基。臨済宗相国寺派の寺院で、義満の北山山荘を、死後に寺としたもの。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年に放火で焼失し、1955年に再建された。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の1つ。 |
応永の乱 | 1399年 | 4代将軍、足利義持の代。守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。義持以前、室町幕府の将軍は権力体制がまだ弱かった(有力守護大名の連合による擁立が必要)。そこで3代将軍、足利義満は、権力強化のため、花の御所を造営して権力を示したり、直轄軍の増強なども行った。更に、義満は有力守護大名の弱体化も行った(康暦の政変や土岐康行の乱や明徳の乱)。そんな中で、大内氏は6ヶ国の守護を兼ね、貿易により財力を有し、義満から睨まれる存在であった。一方、大内氏も義満の守護大名を弱体化させるやり方を警戒し、義満と義弘は緊張関係にあった。義弘は九州での戦いに派遣される中で、「幕府が戦乱に乗じて義弘を殺そうとしている」との噂を聞き、挙兵に至った事が乱の直接的な原因と言われる。大内義弘は敗戦し自害。更に義弘に協力した守護大名も失脚。将軍の力がより強くなるきっかけとなった。 |
三毛作 | 15世紀初めごろ | 同じ耕地で一年の間に3種類の異なる作物を栽培すること。室町時代から畿内を中心に行われるようになった。代表的な手法では米、麦、蕎麦を育てる。 |
日明貿易 | 1401–1549年 | 室町時代に明との間で行われた朝貢貿易。対明貿易が莫大な利益を生むことを聞き、3代将軍足利義満が開始した。正式な遣明使船は、密貿易や倭寇などと区別できるよう勘合符を使用した。明の朱元璋が、冊封体制の復活を目指し、朝貢貿易のみに限定していたことも背景にある。主な輸入品としては、銅銭(永楽通宝など)、生糸など。朝貢形式なので日本に利益が多く、また大量に流入した明銭により、貨幣経済を発展させた。4代将軍義持によって一度中断され、6代将軍義教の代に再開されたことは入試でも頻出なので覚えておくこと。 |
永楽通宝 | 1411年 | 明の永楽帝の時代により鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた。 |
応永の外冦 | 1419年 | 4代将軍、足利義持の代。李氏朝鮮の軍が対馬を侵攻した事件。この事件の為、日朝貿易が一時中断された。戦いは、朝鮮軍の大敗で終結。戦いの後、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。また、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約(1443年)を結び、朝鮮への通交権は宗氏がほぼ独占するようになった。 |
正長の徳政一揆(正長の土一揆) | 1428年 | 4代将軍~5代将軍の間の空位の時代。土一揆の一つで、史料(大乗院日記目録)に「日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」とあるように、農民が起こした初めての一揆。凶作・伝染病・将軍の代替わり等で社会不安が高まり、馬借などが徳政を求めて発生した。一揆は畿内各地に及び、酒屋、土倉などが襲われ、私徳政を行った。なお、この時期は、凶作、伝染病、過疎、将軍の不信任などの影響で、徳政一揆が多発している。 |
琉球王国 | 1429–1879年 | 中山王の尚巴志が三山統一を行い、成立した王国。1609年、薩摩による琉球侵攻により、幕藩体制に入ったが、王国体制や中国との関係も維持した。1879年、藩の廃止と沖縄県の設置により、王統の支配が終わった。 |
宣徳通宝 | 1433年 | 明銭の一種で、宣徳帝の代に発行が開始された。中世の日本で流通した貨幣の一つ。 |
奉公衆 | 15世紀頃 | 室町幕府で整備された将軍直属の軍事力。6代将軍足利義教の代に制度化されたとされる。室町幕府の財政基盤である御料所の管理も任された。 |
永享の乱 | 1438~1439年 | 6代将軍、足利義教の代。鎌倉公方の足利持氏と、関東管領の上杉憲実の対立が発端となり、義教が持氏の討伐を命じた争い。結果、足利持氏は自害した。事件の前、6代将軍となる資格のある4代将軍、足利義持の息子4人は、全員出家していた。その為、自分が将軍になれると思っていた持氏が、クジ引きで将軍となった義持の弟の義教を妬み、対立関係になっていたといわれる。その為、持氏は幕府に従わず、鎌倉府を動かすことがあった。この状況に関東管領であった憲実は「自分も将軍への反逆と思われるのでは?」と危機感を持った。結果、憲実は持氏と対立。憲実の謀反を恐れた持氏は、憲実討伐の命令を各地に出すが、逆にこの状況を憲実は義教に訴え、持氏討伐の命令を受け、永享の乱に至った。追い詰められた持氏は自害。その後、持氏の息子も幕府と戦うが(結城合戦)ほとんどが死亡。後の享徳の乱(1455~1483年)を経て、関東地方は戦乱の世に入っていく。なお、5代将軍足利義量は名ばかりの将軍で、実権は父の義持が握っており、1425年、義量は19歳の若さで急死していた。 |
嘉吉の乱 | 1441年 | 6代将軍、足利義教の代。守護大名である赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に討たれるまでの一連の騒乱。「くじ引き将軍」と揶揄された義教が「万人恐怖」と呼ばれる政治を行っていた事で、追い詰められた赤松満祐が将軍暗殺を行った。事件後、将軍の立場が弱まり、守護大名が台頭する。 |
嘉吉の徳政一揆 | 1441年 | 6代将軍~7代将軍の間の空位の時代。京都・近江などで発生した土一揆。嘉吉の変で足利義教が殺害され、後継者である足利義勝が幼かった為に、政治が混乱した中で起こった。「今土民等、代始に此の沙汰は先例と称すと云々。言語道断の事なり」と史料(建内記)にある通り、代初めの徳政を、馬借を中心とした農民が訴え蜂起した。人数は数万人に及ぶが、各地への波及はなく、京都を包囲する形で行われた。 |
享徳の乱 | 1454–1482年 | 8代将軍足利義政の代~9代将軍足利義尚の代。鎌倉公方の足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を殺害した事を契機に発生した乱。乱の前、関東地方は永享の乱と結城合戦の後、幕府の強い影響の元、上杉氏の専制体制となっていた。しかし、嘉吉の乱の後、関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を要求する関東地方の武士団に応じて、鎌倉府が再興された。しかし、再興された鎌倉府で5代鎌倉公方となった足利成氏は、4代鎌倉公方であった足利持氏派を重用し、関東管領に就任した上杉憲忠と対立した。結果、成氏により憲忠やその側近が襲撃され、殺害される。これに対し、襲撃の際に不在だった山内上杉家の長尾景仲や、扇谷上杉家の太田資清は成氏へ挙兵し、享徳の乱となった。当初は成氏派が優勢だったが、後に上杉氏を将軍、義政が支持。上杉側に錦の御旗が与えられた事で、足利成氏は朝敵となって味方を失う。最終的には、上杉側の山内上杉家でも内紛が起き、やむなく成氏と上杉とで和睦が成立し、終結する。この乱を治められなかった将軍及び管領細川勝元に対する不満は、応仁の乱の遠因にもなっている(享徳の乱の間に、応仁の乱が始まり、終結に至っている)。 |
コシャマインの戦い | 1457年 | 8代将軍、足利義政の代。和人(蠣崎氏)とアイヌとの間で起こった戦い。当時、アイヌは製鉄技術を持っておらず、渡島半島から道南に進出した和人から鉄製品を入手していた。そんな中、和人の鍛冶屋とアイヌで口論が起き、怒った鍛冶屋がアイヌの男性を刺殺した事がきっかけとなり、コシャマインを中心としたアイヌが蜂起した。アイヌは、和人の拠点である道南十二館の花沢・茂別以外を陥落させるものの、1458年に蠣崎氏に身御寄せ、後に婿養子となった武田信広(蠣崎信広)によって七重浜でコシャマイン父子が殺害され、アイヌ軍は瓦解した。アイヌと和人の抗争はその後も継続するが、支配権は信広を中心にした和人側が得た。また、信広の子孫により松前藩が後に成立する。 |
応仁の乱(応仁・文明の乱) | 1467–1477年 | 8代将軍、足利義政の代~9代将軍、足利義尚の代。管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いに端を発し、将軍の後継者問題に細川勝元と山名宗全の有力守護大名の対立が絡み、幕府を東西に分け、各々の領国でも争いとなった大乱。乱の後、幕府の権威は低下した。また、守護や国人が荘園の重層的支配を、一元的に支配する立場となった事で(一円知行化)公家や寺社の荘園が横領され、公家などは没落した。なお、応仁の乱が戦国時代の始まりとする説が古くから一般的だが、近年は明応の政変(1493年)頃まで幕府の権威は一応保たれていたとする見解もある。 |
慈照寺(銀閣寺) | 1486年 | 九代将軍、足利義尚の代。東山文化の代表として知られる臨済宗相国寺派の寺院。義政が営んだ慈照寺東求堂にある四畳半の書斎「同仁斎」に見られる書院造は、現代和風建築の源流とも言われる。開基は八代将軍、足利義政。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の1つ。 |
六斎市 | 15世紀後半~ | 都市・農村で特定の日に月6度開かれた定期市。応仁の乱後に一般化されたといわれる。荘官や農民が、これらの市で貨幣を入手したことで、年貢として納められていた農産物の多くが商品として流通するようになった。 |
明応の政変 | 1493年 | 10代将軍、足利義稙の代。細川政元が起こした将軍の擁廃立事件。背景は応仁の乱に遡る。応仁の乱で西軍の盟主として擁立され、劣勢のまま乱が終結した足利義視は、嫡子の義稙と共に美濃へ逃れていた。一方、9代将軍で東軍の盟主であった足利義尚は、六角高頼の討伐に向かった先で病死してしまう。これをチャンスと見た義視と義稙は上洛し、義稙を10代将軍に推挙する。しかし、7代将軍、足利義政や管領の細川政元などが、足利義澄(後の11代将軍)を推挙する。最終的に、日野富子(9代将軍、義尚の母)が、甥である義稙を後援し、義政の死去後(1490年)、義視の出家などを条件に義稙を10代将軍として決定させる。しかし、この決定に義澄を擁立しようとした政元が不満を持つ。また、義稙は政元に政務を任せると約束しながら、政元の反対を無視し、六角征伐と河内征伐と2度も大規模な軍事作戦を行った。このため、政元は日野富子などを懐柔し、1493年にクーデター起こす。義稙は将軍職を廃され幽閉された。政元は幕政を掌握し、以後将軍権力は細川氏の権力に支えられる。また、将軍は足利義澄となり、足利将軍家は「義稙流」と「義澄流」に二分される。事件は全国(特に東国)で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となり、近年では、戦国時代の始まりをこの事件とする説もある。 |
撰銭令 | 室町時代~ | 室町幕府や大名などが、支払の際に劣悪な銭貨を排除すること(撰銭)を禁止した法律。室町時代前後から貨幣経済は発達し、税の銭納化も進められていた。そのため貨幣の需要が増えるにしたがい、質の悪い銭貨が流通。取引において悪銭が嫌われ、円滑な流通が阻害されていたことが原因となった。幕府からは1500年に発令され、1542年まで、たびたび撰銭に関する法令を発布している。また、信長の撰銭令は1569年に発令された。 |
永禄の変 | 1565年 | 室町幕府13代将軍、足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢に殺害された事件。当時、将軍権力は失墜しており、権力は足利家から細川家へ、更にその家宰の三好家へと移っていた。そこで、義輝は幕府復権を目指し、諸大名との関係を強化、親政を推し進める。幕府と三好家は一旦協力態勢となり、幕府は義輝、実権は三好長慶が握る体制となった。しかし、長慶の病死後、長慶の後継者となった三好義継がまだ若かったことを、義輝は好機とみて勢力拡大を図り、三好方との対立構造が発生する。事件により三好義継・松永久通らが義輝を殺害。また、三好三人衆が足利義栄を14代将軍に擁立した。その後、三好家中でも対立関係が表面化し、三好三人衆と松永久秀は対立。更に、足利義栄と足利義昭の間で将軍の跡継ぎ問題も発生した。 |
15代将軍、足利義昭が将軍となる(室町幕府最後の将軍) | 1568年 | 織田信長と合流し、信長に擁立されることとなった足利義昭が上洛し、第15代将軍に就任した。就任後、義昭は信長と対立し、武田信玄・浅井長政などと信長包囲網を築き上げ、一時は信長を追い詰める事もあった。1573年、義昭は信長に京都を追われ、これをもって室町幕府滅亡とするのが一般的であるが、征夷大将軍の地位は継続しており、朝廷に地位を返上した1588年が室町幕府滅亡とする説もある。なお、室町幕府滅亡後も、朝廷や豊臣秀吉から最後まで好待遇であった。 |
室町幕府の滅亡 | 1573年 | 織田信長に第15代将軍、足利義昭が京都を追われ、これをもって幕府滅亡とするのが一般的である。また、征夷大将軍を朝廷に返上した1588年を室町幕府滅亡とする説もある。 |
室町~戦国時代頃の文化・芸術など
室町~戦国時代頃の文化・芸術について、大問2・大問3で出題された用語を中心にまとめます。
また、関連性の高いものなど、一部別の時代のものも含みます。
建築関連
- 天龍寺:1343年創建。京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の大本山。夢窓疎石を開山として、足利尊氏が創建した。後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石の勧めで建立された寺院であり、また夢窓疎石の勧めのもと、建設費用を得るため、足利尊氏・直義兄弟が天龍寺船(日元貿易船)を作った事で有名。京都五山の第一位。
- 相国寺:1382年創建。京都市上京区にある臨済宗相国寺派の大本山。夢窓疎石を開山として、足利義満が開基となった。京都五山の第二位。
- 建仁寺:1202年創建。京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。栄西を開山として、源頼家が開基となった。京都五山の第三位。
- 京都五山:臨済宗の寺院の寺格で、京都にある寺院。第一位から順に「天龍寺」「相国寺」「建仁寺」「東福寺」「万寿寺」の五つの寺院をさす。なお、創設は鎌倉末期だが、確定したのは足利義満の代。
- 鎌倉五山:臨済宗の寺院の寺格で、鎌倉にある寺院。第一位から順に「建長寺」「円覚寺」「寿福寺」「浄智寺」「浄妙寺」の五つの寺院をさす。
- 南禅寺:1291年創建。京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山。室町時代に確立した五山・十の別格(最上位)。
- 妙心寺:1342年創建。京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の大本山。室町幕府の統制下にあった五山十刹などと違い、大徳寺と同様、在野にあって修行を重んじる派閥(林下)の寺院。
- 鹿苑寺:1397年創建。夢窓疎石を開山として、足利義満が開基となった臨済宗相国寺派の寺院で、元は義満の北山山荘だったものを、死後に寺としたもの。舎利殿は北山文化を代表する建築物。
- 慈照寺:1486年創建。夢窓疎石を開山として、足利義政が開基となった。臨済宗相国寺派の寺院で、東山文化の代表的な建築物。義政が営んだ慈照寺東求堂にある四畳半の書斎「同仁斎」に見られる書院造は、現代和風建築の源流とも言われる。
- 書院造:室町時代から近世初頭にかけて成立した、中央に書院がある武家の住宅様式。なお、書院とは、書斎と居間を兼ねた部屋の中国風の呼称。
- 龍安寺:京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。枯山水庭園である「方丈庭園」で有名。
- 大徳寺大仙院:大徳寺内にある塔頭寺院。枯山水庭園で有名。
- 西芳寺:京都市西京区にある臨済宗系単立の寺院。夢窓疎石が禅の思想にもとづき作庭を行った西芳寺庭園が有名で、上段の枯山水庭園、下段の池泉回遊式庭園で構成されている。
- 花の御所:足利義満が京都に作った足利将軍家の邸宅。室町通に正門が面していた為、「室町殿」「室町第」と呼ばれ、室町幕府の名前の由来となった。
- 待庵:千利休が設計した2畳の和室。過去問では見受けられなかったが、同等レベルの高校日本史で出てくる。臨済宗の妙喜庵にある事も含めて覚えておきたい。
芸術関連
- 五山文学:鎌倉時代末期~室町時代にかけて、禅宗寺院で行われた漢文学。室町時代には、幕府の外交文書を起草するという必要性も伴い栄え、義堂周信らが出た3代将軍、足利義満の頃に最盛期を迎えた。
- 太平記:日本の歴史文学の中では最長の作品と言われる軍記物の作品。南北朝時代を舞台に、1318年~1368年頃までを描いた。作者と成立年は不明。
- 花鳥余情:一条兼良による『源氏物語』の注釈書。室町時代、京都五山や公家を中心に古典研究が行われていた事が成立の背景にある。
- 瓢鮎図:初期水墨画を代表する画僧、如拙の作品。4代将軍、足利義持の命で描かれた。なお、北山文化の水墨画の人物は「明兆→如拙→周文」の順で、作品は「如拙の瓢鮎図」と「周文の寒山拾得図」が過去問の出題実績があり、大学受験でも有名どころなので覚えておきたい。
- 寒山拾得図:水墨画の確立に貢献した画僧、周文の作品。作品は寒山と拾得は中国・唐代の僧で、奇行が多く、文殊・普賢の化身と称された人物です(狩野山雪の寒山拾得図が、夢に出そうな程に不気味で個人的に好き)。
- 四季山水図:雪舟の水墨画で、中国滞在中に描かれた。
- 秋冬山水図:雪舟の水墨画で、歴史の教科書や、長野オリンピックの切手などにも使われた事で有名。
- 狩野正信:狩野派の祖とされる人物。中国の故事を題材にした『周茂叔愛蓮図』が代表作とされる。
- 土佐光信:室町時代中期~戦国時代の大和絵の絵師。土佐派中興の祖とされる人物。
- 村田珠光:茶と禅の精神を取り入れた、侘茶を創出した人物。なお、侘茶の歴史は「村田寿行→武野紹鴎→千利休」の順で、高校日本史でも問われるため、歴検でもこの三名の順は覚えた方が無難。
- 吉田兼倶:室町時代中期~戦国時代の神道家。反本地垂迹説に基づき唯一神道(吉田神道)を大成した。唯一神道は渡会家行が唱えた伊勢神道(度会神道)と同じく反本地垂迹説に基づいたものだが、伊勢神道を徐々に圧倒し、後の神道思想にも強く影響した。なお、神社検定2級でよく出る人物でもある。
- 観阿弥・世阿弥:能を田楽や猿楽から大成した親子。足利義満が感銘を受けた事で庇護し、これにより公家社会のような上流階級の文化も取り入れられ、洗練されていった。
陶器関連
- 瀬戸焼:愛知県瀬戸市で生産された陶磁器。平安時代から始まり、鎌倉時代に加藤景正が瀬戸焼を興したと伝えられる。
- 常滑焼:愛知県の知多半島を中心に作られた陶器で、平安時代末期から作られた。鉄分が多く、朱泥と呼ばれる朱色が特徴。
- 備前焼:岡山県備前市周辺で作られた陶磁器で、平安時代~鎌倉時代初期頃から作られた。絵付けや釉薬をせずに焼くため、赤みの強い味わいや、「窯変」による模様が特徴。
- 瀬戸焼:加藤景正が尾張(現、愛知県)で創始した陶器で、鎌倉時代から作られた。美しい白い素地が特徴。
- 楽焼:京都を中心に作られた陶器で、戦国時代から作られた。千利休らの嗜好を反映し、手捏ね(手とへらだけで成形する手法)によるわずかな歪みと厚みが特徴。
- 織部焼:主に美濃地方で生産された陶器で、江戸時代に作られた美濃焼の一種。主に織部流茶道において用いられている。花柄、幾何学模様、ゆがんだ形など、個性的な作品が多い。
- 有田焼:佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器で、江戸時代から作られた磁器。朝鮮出兵の際に連行された李参平が創始したとされる。
なお、陶器関連の人物では、上絵付けの技法で赤絵を完成させた酒井田柿右衛門、茶をたしなんだ武将の例として小堀遠州・古田織部が出題されたことがあり、また荻焼が毛利氏、薩摩焼が島津氏のもとで生産されたことが出題されています。
商業関連
- 堺商人:堺で勢力を持った商人。室町幕府が衰退する中、細川氏と結んで日明貿易に携わった。この事は、1523年に大内氏と細川氏が争った寧波の乱に影響した。
- 博多商人:博多で勢力を持った商人。室町幕府が衰退する中で、大内氏と結んで日明貿易に携わった。この事は、1523年に大内氏と細川氏が争った寧波の乱に影響した。
- 会合衆:室町時代~戦国時代に都市で自治の指導的役割を果たした組織。特に堺の豪商36名(時期により変動)で作られたものが有名。
- 年行司:博多に存在した会合衆と同様の組織。12名で構成された。
- 十三湊:津軽の港町。日本海交易の拠点。13~15世紀頃には蝦夷関連の諸職を統括したとされる安藤氏のもとで栄えた。
- 草戸千軒町:港町。現在の広島県にあたる鎌倉時代~室町時代に存在した大規模集落。大きな港町である鞆の浦と、内陸の地域とを結ぶ場所に位置した。1673年に洪水で水没した。
- 堺:大名に支配されず自治を行った自由都市。日明貿易の拠点ともなり、後には琉球貿易や南蛮貿易でも栄えた。
- 博多:大名に支配されず自治を行った自由都市。堺同様、日明貿易などの海外貿易で栄えた。
- 兵庫津(大輪田泊):平清盛の日宋貿易から栄えた兵庫の港町。鎌倉時代以降「兵庫津」と呼ばれるようになり、室町時代以降も日明貿易の拠点など、海外貿易で栄えたが、応仁の乱で戦場となった為に衰退。江戸時代から復興し、幕末には東隣に現在の神戸港が生まれる。
参考にしたサイト
この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。