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【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト⑥ 鎌倉時代

10月 16, 2023歴史能力検定(日本史2級)

この記事では、歴史能力検定2級(日本史)の鎌倉時代(主に大問2の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです。また、わかりやすさの為、平安時代末期の内容も一部掲載しています)。

実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用ください。

記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。

可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。

また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。

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歴史能力検定2級(日本史)の知識【主に鎌倉時代】

出来事・用語年代内容
知行国11世紀末-12世紀初頭
有力貴族・寺社・武家などが、特定の国の知行権(その国の国司推薦や官物収得の権利)を認められ収益を得た制度、およびその国。知行国主になった者は、受領の任命権があるため、受領から収益を取る事ができた。受領は、任国に直接赴任する国司であり、実質的な国衙行政の最高責任者。ちなみに、受領は租税を私物として貸しだして、利益を上げていた(受領の私財と中央への租税を明確に仕分けする制度が無かった為、命令に基づく納付があれば、受領の身勝手を罰することはできなかった)。知行国は、荘園と並んで鎌倉幕府の経済基盤にもなった
安堵平安時代末期頃主人が、従者のもつ所領などを承認する行為。御恩と奉公の体系の上に成立した鎌倉幕府では、将軍が御家人に対して、先祖伝来の所領支配を保障する事は、御家人の忠誠をつなぎとめる重要な手段だった。
惣領制平安時代末期頃中世武士団において、惣領(一族の統率者を中心として形成される社会組織の単位やその制度。中世武士は分割相続を行っていたが、惣領が主要部分を継承し、その他を残りで分けて相続することで惣領制を築いていた。惣領制は、主に鎌倉時代を中心に展開したが、所領分割に限界を生じたことで崩壊し、室町時代以降は嫡子単独相続の慣習が一般化した。なお、鎌倉幕府の政治・軍事体勢の構築といった御家人支配は、この惣領制を基盤に行われた
治承・寿永の乱11801185平氏政権の代。平家に対する不満から発生した戦いで、「以仁王の乱」から「壇ノ浦の戦い」(または「奥州合戦」)までの源氏と平氏の戦い。治承三年の政変で後白河院政を停止させ、平家一門が政治の実権を握ったことで、反対勢力を多く生み出したことが背景にある。日本各地で反乱が発生し、挙兵した勢力には源氏が多かった。この戦いで、平氏が滅亡し、鎌倉幕府の成立へとつながる。
侍所1180平氏政権の代。鎌倉幕府と室町幕府で、御家人の統率や、警察・軍事を担った組織。初代別当は和田義盛だが、和田合戦により義盛が討たれた後は、執権が兼ねたとされる。後に、東国の刑事事件(検断沙汰)の対応も行う。
寿永二年十月宣旨1183平氏政権の代。朝廷が頼朝に対し、東国の荘園公領からの年貢などの納入を請け負わせる代わりに、頼朝に東国(東海道・東山道)の支配権を認めた宣旨。なお、対象範囲については、東海道・東山道全域ではなく、遠江・信濃以東の13カ国に限定するとみる説もある。
問注所1184平氏政権の代。鎌倉幕府・室町幕府で、訴訟事務を担った組織。ただし、裁判は行わず、あくまで事務のみであり、後に訴訟が多くなると、時間の短縮化が求められた。結果、1250年には、御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を引付衆、その他の民事訴訟(雑務沙汰)・訴訟事務は問注所、東国の刑事事件(検断沙汰)は侍所、西国の刑事事件は六波羅探題の検断奉行と、役割分担された。
守護1185鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府・室町幕府で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官。仕事内容は主に警備や、犯罪者の逮捕など(大犯三箇条)で、地頭とともに設置された。室町時代からは、税の徴収も行うようになった(守護請)。追捕使が守護の原型であるが、源頼朝が設置・任免権を得た事で、幕府に吸収されていった。守護・地頭の設置権限を得たタイミングを、鎌倉幕府成立とする説が有力。
地頭1185初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府・室町幕府で荘園国衙領の管理を担った職。仕事内容は主に税の徴収や治安維持などで、守護とともに設置された。在地の御家人から選ばれ、荘園・公領で武力に基づいた軍事・警察・徴税権を持たせたため、御家人の所領安堵としても機能した設置理由には、全国統治を目的とした事と、源義経と頼朝の対立が上げられる。ちなみに、「地頭」の名称自体は10世紀初頭からあったが、制度化したのは源頼朝が朝廷から全国設置認可を得た1185年。なお、江戸時代も領主のことを地頭と呼んだ。守護・地頭の設置権限を得たタイミングを、鎌倉幕府成立とする説が有力。
京都守護1185年頃初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府の役職の一つ。京都の御家人を統率、京都市中の警護・裁判を行い、朝廷と幕府の間の連絡を担う。承久の乱後、六波羅探題が設置されたことで消滅。ちなみに、江戸幕府の職制である「京都守護職」とは別物。
奥州総奉行1189初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。頼朝奥州合戦の戦後処理のために任じた臨時職。詳細な役割については、記録が残っていない。
政所1191初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。鎌倉幕府と室町幕府で、一般政務を扱った組織。公文所を吸収する形で作られた。初代別当は大江広元だが、後に執権が兼ねた。
栄西、帰国し布教を開始1191年頃初代将軍、源頼朝の代(将軍就任前)。栄西は、形骸化していた日本天台宗を立て直すべく、1168年にも南宋に留学し禅宗を学んでいた。1187年に再び宋に向かい、天台山万年寺で学び、1191年に修行の成果を認められ(印可を受け)帰国、布教を開始した。1195年に日本最初の禅道場とされる聖福寺を建立する。栄西は、既存仏教勢力との調和・牽制も考えて行動し、1198年に『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であると説いた。栄西の教えは、日本の臨済宗となる。ちなみに、宋から帰国した際に茶の種を持ち帰り、栽培を始めたことで、武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まったとされる。
源頼朝、征夷大将軍に就任1192初代将軍、源頼朝の代。征夷大将軍就任を鎌倉幕府成立とする説もあるが、実質的な権力(諸国への守護・地頭職の設置・任免)を得た1185年が近年は鎌倉幕府成立とみられている。征夷大将軍に、正二位(常設職で政権最高位の左大臣に相当)で就いたことは、後に征夷大将軍を「軍権に基づく政権担当者」と位置付け、幕末まで700年近く続く慣例の始まりとなった。
源頼家が家督を継ぎ、十三人の合議制となる1199初代将軍、源頼朝の急逝に伴う対応。「十三人の合議制」は幕府の集団指導体制を指す歴史学上の用語で、1200年には解体したが、評定衆(1225年)の原型となった。当時、源頼家は18歳で第2代家督を継ぎ、補佐を受けながら政務を行ったが、訴訟を直接裁断することは禁じられ、有力者13人の合議で行われる事となった。この体制は、梶原景時の変やメンバーの安達盛長三浦義澄の病死もあり1年で瓦解。その後も内部政争などが続き、最終的に2代執権、北条義時が権力を掌握した(掌握後も、北条氏と有力御家人による内紛は続いた)。
梶原景時の変1199十三人の合議制の代。合議制に選ばれた有力御家人の梶原景時(二代将軍、源頼家の乳母の夫)が、御家人66名の連判状で幕府から追放され、一族の多くが自害した事件であり、頼朝急逝に伴う権力闘争の最初の事件。背景として、梶原景時が目付役(御家人の監視・勤務評定・取り締まりを行っており、御家人に恨まれやすい立場)だったことが上げられる。また、景時は讒言や権力欲などで、周囲から恨まれていたとも言われる(景時は、和田義盛に「一日だけでも別当になりたい」と懇願し、そのまま別当職を奪ったと『吾妻鏡』に記されている)。事件の後、合議制メンバーである安達盛長三浦義澄の病死もあり、合議制は解体された。
二毛作鎌倉時代頃~同じ耕地で一年の間に2種類の異なる作物を栽培すること。畿内西日本一帯で、稲を表作、麦を裏作とする二毛作が普及した。南北朝時代には、関東地方でも行われた。
西面の武士1200年頃上皇に仕えて身辺の警衛・奉仕などを行った武家集団後鳥羽上皇鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したとされ、白河上皇が設置した北面の武士(11世紀末)とともに、院の武力を担った。承久の乱(1221年)の後、廃止された。
建仁寺12022代将軍、源頼家の代。臨済宗建仁寺派の大本山の寺院が建立された。京都での布教に限界を感じた栄西が、鎌倉へ下り、1200年に頼家の外護を受け、京都に建立した。禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。建立後、栄西は朝廷からも庇護を受けた。京都五山の第三位の寺院でもある。
比企能員の変12032代将軍、源頼家の代。頼朝急逝後の内部政争の一つで、頼家の外戚の比企能員とその一族が、北条時政によって粛清された事件。背景として、比企能員の娘、若狭局が頼家の妾となり、嫡子を産んだ事で台頭し、頼家の母、北条政子とその父、北条時政が危機感を抱いた事が上げられる。1203年、頼家が危篤になった際に、時政らが北条政子の子・源実朝と、源頼家の子・源一幡の分割相続を決定し、これに能員が反発。若狭局を通じて、病床の源頼家に、北条時政を討つように訴え、承諾を得た。しかし、これを障子越しに聞いた政子が時政に通報し、時政は仏事の相談があるとして能員を自邸へ呼び、暗殺したとされる。ただし、上記のような『吾妻鏡』の記録は北条得宗家の側からの記録であるため、真偽には疑問があり「そもそも比企能員が北条時政を討つよう訴えた事自体が創作」とも考えられる。変の後、比企一族は滅亡し、頼家は鎌倉追放が決定された。
北条時政、初代執権に就任1203源頼朝急逝後の内部政争に勝利し、初代執権に就いた。背景として、比企能員の変で、比企一族を滅ぼすとともに、2代将軍、源頼家を追放した北条時政が、12歳の源実朝を3代将軍に擁立し、実権を握った事が上げられる。なお、執権は鎌倉幕府の役職で、鎌倉殿の補助・政務の統轄を担った。元は政所別当の中心人物の呼称。翌年、頼家は幽閉されていた伊豆の修禅寺で、北条時政の兵に暗殺された
畠山重忠の乱1205初代執権、北条時政の代。武蔵国の有力御家人であった畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀で滅ぼされた事件で、北条氏による有力御家人粛清の一つ。謀反の疑いをかけられた重忠は討ち取られたものの直ぐに無実であったことが判明したため時政は失脚。また、無実の重忠を討った憎しみの矛先を時政に向ける事で、義時が混乱に乗じて武蔵を掌握し、同年2代執権となった
承元の法難12072代執権、北条義時の代。後鳥羽上皇法然の弟子4人を死罪とし、法然親鸞ら7人が流罪とされた事件。背景として、後鳥羽上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の念仏法会で尼僧となった事が、上皇の怒りを買った事が上げられる。また興福寺から念仏宗を非難する訴えがあり、朝廷が無視することが難しかった事も上げられる。法然は土佐へ流罪となるが、円証(九条兼実。法然に帰依していた)の庇護により、讃岐国(現、香川県。九条家領地)に配流される。一方、親鸞は越後国(現、新潟県)に配流され、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗り、非僧非俗の生活を送った。1211年、法然と親鸞は許されるものの、2か月後に法然は死去し、2人が再開することは無かった。
和田合戦12132代執権、北条義時の代。鎌倉幕府の有力御家人で侍所別当の和田義盛による反乱泉親衡の謀反が露見した際(泉親衡の乱)、義盛の甥が流罪、屋敷が没収された事で、義盛と義時の関係が悪化していた。結果、義盛は三浦義村などと北条氏を打倒するため挙兵。しかし、兵力で勝る義時が圧倒し、義盛は敗死し、和田一族は滅亡した。戦いの後、北条氏の執権体制がより強固になる。また、和田義盛が敗死した事により、義時が侍所別当を兼務するようになる。
親鸞、東国で布教を開始1214年頃2代執権、北条義時の代。承元の法難(1207年)による流罪を赦免された親鸞は、東国に築いた複数の草案を拠点とし、東国での布教活動を約20年間行った。親鸞は生涯、法然の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。その為、自ら開宗するつもりはなかったとされ、独自の寺院は持たず、各地に草案を作って布教した。しかし、親鸞の勢力が増すことで、他の仏教教団・浄土宗他派からの攻撃を受けはじめる。結果、宗派の相違が明確化され、親鸞の没後に宗旨がまとめられ、浄土真宗という形となった(浄土真宗は1224年成立となっているが、それが定められたのは親鸞の没後)。なお、浄土真宗の重要な思想の一つに「悪人正機」の考え方があり、親鸞の師である法然も同じ様な考えを唱えていた。完全な余談だが、九条兼実(法然を戒師として出家)は、この悪人正機に疑問を持った。そこで「破戒僧でも念仏唱えれば極楽往生できるか?」を確認するため、法然の弟子と自らの娘(玉日)を結婚させ、破戒僧にしてみる実験を提案した。これに対し、法然は「じゃあ、綽空(のちの親鸞)で」と指名し、乗り気でない親鸞を結婚させたという話がある(親鸞の見た六角堂の夢告が強く影響している)。この話については『親鸞聖人正明伝』に記載されており、江戸時代までは一般的だったが、大正時代以降には親鸞聖人正明伝が偽書とされ、長く否定されてきた。しかし、近年になり親鸞聖人正明伝が再評価を受け、真偽は不明な状態である。
3代将軍源実朝、暗殺される12192代執権、北条義時の代。3代将軍源実朝が、武士として初めて右大臣となった翌年、鶴岡八幡宮で暗殺される2代将軍源頼家の子、公暁が実行犯黒幕の正体については北条義時三浦義村など諸説あるが、近年は公暁単独犯行説を取る研究者が多い。ちなみに、頼家は歌人としてしられ、小倉百人一首では「鎌倉右大臣」として知られ、金槐和歌集』の作者でもある。
承久の乱12212代執権、北条義時の代。後鳥羽上皇北条義時に挙兵して敗れた戦い。鎌倉幕府成立後、東日本を支配する鎌倉幕府と、西日本を支配する朝廷による公武二元支配となり、朝廷では反感が募っていった。そんな中、北条氏が鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至った事が挙兵の背景となった。戦いの後、幕府は朝廷を監視する六波羅探題の設置や、皇位継承等に影響力を持った。また、後鳥羽上皇は隠岐に流され、西面の武士は廃止、北面の武士は縮小。院の軍事力はほぼ崩壊した。乱に際し、北条政子が御家人に結束を呼び掛ける演説を行った事が、吾妻鏡などに記されている。
六波羅探題12212代執権、北条義時の代。承久の乱後、京都守護を改変し、西国の武士の監視・統制の為、幕府が置いた役職。承久の乱後に西国に幕府の支配が及んだことに伴い、西国の武士の反乱などを防ぐ必要があった。また、西国で幕府勢力を拡大する拠点としても活用された。設置に伴い、京都守護が改変(廃止)されたが、これは京都守護から、承久の乱で朝廷側につく勢力があった事も影響している。六波羅探題の設置により、支配が西国へ及んだことで、朝廷と幕府による公武二元支配は解消された。
浄土真宗12242代執権、北条義時の代。親鸞を開祖とする浄土信仰を行う鎌倉仏教。ただし、親鸞は生涯を通して法然の教えを継承し、独自開宗の意思は無かった。その為、1224年が浄土真宗の立教開宗とされるが、これが定められたのは親鸞の没後。
連署12253代執権、北条泰時の代。執権を補佐するために置かれたもので、北条泰時が北条時房を任命したのが最初の連署実質上の「副執権」であり、執権と連名で署名したことから「連署」と呼ばれた。政権安定策の一環とも言われ、後の評定衆(1225年)」「御成敗式目(1232年)」も泰時の代に制定され、執権政治は安定していった。なお、連署の成立は1224年とするものもある。
評定衆12253代執権、北条泰時の代。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関、またはそれに参加する執権・連署を除く11名のメンバーの事十三人の合議制(1199年)が原型。重要政務や裁判を合議で話し合った。トップは執権で、執権は北条氏が独占していた。評定衆の制度化と、御成敗式目によるルール化により、執権政治は安定していった。なお、室町幕府でも同様の機関が設置されたが、権限は小さかった。
道元、南宋から帰国12273代執権、北条泰時の代。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を学び、道元が南宋から帰国した。また、同年『普勧坐禅儀』(坐禅を勧める書物。現在も坐禅の際に唱えられる事がある)を著した。道元は、後に日本の曹洞宗の開祖とされるが、弟子たちには特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることも否定)。しかし、後に興福寺の焼き討ちから逃れた日本達磨宗と合同したことを契機に、道元の死後、徐々に禅宗を標榜。宗派としては「曹洞宗」を名乗るようになっていった。
御成敗式目12323代執権、北条泰時の代。源頼朝以来の先例や、武家社会の慣習、道徳をもとに制定された武家政権のための最初の武家法で、51カ条からなり、裁判の基準として使われた。なお、51は17の3倍で、17は十七条憲法に由来するとされる。承久の乱後、西国に御家人が地頭守護として赴任したことに伴い、荘園領主や住人と地頭のもめ事が多発していたことが背景にある。幕府が強くなるにしたがい適用範囲は拡大され、足利尊氏も御成敗式目を継承した。
宝治合戦(三浦氏の乱)12475代執権、北条時頼の代。有力御家人である三浦氏と、執権の北条氏の対立から起こった戦い。当時の幕府は、執権の北条派と将軍派に分裂して対立していたが、三浦氏は将軍派だった。また、4代将軍、藤原頼経が時頼によって京都に送還され、頼経の父で将軍派の後ろ盾となっていた九条道家も失脚させられ、将軍派は実力行使以外に手段が無くなっていた。戦いの結果、三浦一族とその与党が滅ぼされた。また、この戦いにより、得宗専制政治が確立していくこととなった
引付(引付衆)12495代執権、北条時頼の代。評定衆のもとで、裁判(御家人の領地訴訟)の公平化・迅速化をはかるために設置された役職。なお、室町幕府も同様の制度を踏襲している。
日蓮、法華宗の布教開始1253年頃5代執権、北条時頼の代。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗法華宗)の宗祖、日蓮による布教活動が行われた。日蓮誕生の前年、承久の乱(1221年)で真言密教を用いた朝廷方が敗れた事、複数の宗派が争っていた事などの社会情勢も影響し、日蓮は既存の宗派の教義を妄信せず、主体的に物事を考えた。その為、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺園城寺高野山などで学んでいた時期がある。結果、日蓮は、一切経の中で法華経が最も優れた経典であり、天台宗以外は法華経が最も優れている事を否認する誤り(正法誹謗)を犯していると考えた。1252年、日蓮は初等教育の為に登った清澄寺に戻ると、「念仏と禅宗が法華経を誹謗する謗法を犯している」とし、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。翌1253年、日蓮は鎌倉に移り、布教活動を開始した。なお、南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、天台宗の修行としても行われていたが、称名念仏などと並行して行われた。
立正安国論12606代執権、北条長時の代。日蓮の執筆した文書で「相次ぐ災害は、人々が正法である法華経を信じず、浄土宗などの邪法を信じているから」とし「このまま放置すれば国が滅ぶが、邪教を止めて正法である法華経を中心にすれば国も民衆も安定する」とした。この文書は、浄土宗を刺激し、日蓮襲撃事件(松葉ケ谷の法難)を起こし、また禅宗であった5代将軍、北条時頼からは「政治批判」とみなされ、翌年、日蓮は伊豆国に流罪となった。しかし、その後も元寇による海外からの侵略(1274-1281年)や、二月騒動(1285年)などの内紛などもあり、日蓮は更に2回『立正安国論』を提出した。背景として、1回目の提出前から地震・飢饉・疫病などが相次いでいたこともあげられる。
異国警固番役12718代執権、北条時宗の代。幕府が九州の御家人に課した軍役で、北九州の沿岸を警備させた文永の役後、元の再襲来に備え強化された。
文永の役12748代執権、北条時宗の代。元が日本を侵略する目的で九州北部に攻め入ってきた戦い。フビライが高麗を通じて日本に服属を要求したが、これを拒否したことで始まった。一旦は博多を占領されるも、元軍は翌日に撤退。理由は、もともと元の目的が武力差を見せつけることだったの見方がある。戦いの後、幕府は博多湾の沿岸に「元寇防塁」を作らせ、「異国警固番役」を強化した
久遠寺12818代執権、北条時宗の代。日蓮宗総本山で、開山は日蓮。1274年、佐渡での流刑を終え日蓮を招致し草庵を構え、法華経の読誦・信徒の育成、元軍の退散、国土安穏を祈念した。1281年に整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられた。
弘安の役12818代執権、北条時宗の代。元が日本を侵略する目的で九州北部に攻め入ってきた2度目の戦い。元軍と高麗軍の連合軍である「東路軍」、旧南宋の軍である「江南軍」は当時世界最大規模の艦隊だった。日本優勢で戦いが進み、元軍は撤退。しかし、御家人に十分な恩賞が与えられず、御家人が困窮し幕府が求心力を失う。戦いの後、警備と九州の統括のため「鎮西探題」が設置された。
霜月騒動12859代執権、北条貞時の代。北条氏と有力御家人による内紛。以前より、御家人勢力の代表格である安達泰盛と、北条氏得宗家を支持する勢力の代表格である平頼綱が対立していた。そんな中、両者の調停役となっていた8代執権、北条時宗が死去する(1284年)。そこで泰盛は、文永・弘安の役(1274年・1281年)で不安定化した幕府を立て直すため、弘安徳政と呼ばれる改革で、御成敗式目の補強を行い、執権を中心とした政治から将軍の権威復活を目指し、北条氏得宗家と、その御内人の影響力を削ごうとした。そこで先手を打った頼綱は、貞時に「泰盛の息子が謀反を起こそうとしている」と報告。頼綱の軍に囲まれ、泰盛とその一族は滅ぼされた事件後、頼綱が率いる北条氏得宗家に仕える御内人勢力が権力を握り、得宗専制体制が完成した。
鎮西探題12939代執権、北条貞時の代。鎌倉時代に西国(九州)の統括のために設置された機関で、行政・訴訟・軍事を統括した。背景として、元寇により異国警固の強化の必要性があったこと、九州御家人が関東・六波羅探題へ訴訟をおこす事が禁じられたため(東国御家人を異国警固に専念させる目的)、代わりとなる訴訟機関が必要だったことがあげられる。担当者は北条氏一族から任命され、1296年からはワンオペ。1333年、鎌倉幕府滅亡とともに消滅したが、後に室町幕府も九州統治のため、鎮西探題に倣って九州探題を設置した。
平禅門の乱12939代執権、北条貞時の代。鎌倉で起こった政変で、北条貞時によって、北条氏得宗家の内管領であった平頼綱が、滅ぼされた。当時、霜月騒動(1285年)で権力を得た頼綱は、徐々に恐怖政治を行うようになっていた。結果、貞時は頼綱に対して不安を抱くようになり、頼綱邸への襲撃を命じる。頼綱は自害し、一族93名が死亡した。乱の後、御内人の勢力は一時後退し、貞時の専制政治が始まった
永仁の徳政令12979代執権、北条貞時の代。文永の役、弘安の役などで困窮した御家人の救済のために出された、借金帳消しを中心とした法令。結果として、借上などの金融業者の貸し渋りを引き起こした。また、御家人の困窮には分割相続制による零細化や貨幣経済の影響もあったため、困窮の流れは継続した。
見世棚14世紀~主に室町・戦国時代における商品の販売・陳列方式。軒端に棚を設けて商品を並べて販売した。鎌倉時代後期には、京都や鎌倉などではじまり、徐々に浸透していった。
正中の変132414代執権、北条高時の代。後醍醐天皇を中心とした討幕未遂事件。背景として、御家人の困窮や悪党の発生で、社会が荒廃する中、14代執権の北条高時は、内管領の長崎高資に政治を任せていた。更に権力を持った高資は、好き放題に政治を行っており、状況の改善は見えなかった(奥州安藤氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、紛争を激化させる(安藤氏の乱)など)。結果、後醍醐天皇とその腹心の日野資朝日野俊基が、倒幕計画を立てる。ただし、計画段階で幕府側に情報が漏れたため、実行はされなかった。後醍醐天皇は冤罪とされたが、9年後に再度倒幕を掲げ、元弘の乱が起き、幕府は滅亡する。
元弘の乱13311333後醍醐天皇の代。鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、北条得宗家の勢力との間で起こった内乱。当初、倒幕の計画が漏洩し、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、退位させられ隠岐に流される。しかし、楠木正成が活躍している間に、後醍醐天皇は逃亡。更に各地でも反乱が発生し、足利尊氏新田義貞の天皇側への寝返りもあり、後醍醐天皇が勝利する。その後、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる政治を行う。なお、一度後醍醐天皇が退位させられた際、後醍醐天皇の大覚寺統と対立する持明院統から光厳天皇が即位していたが、後醍醐天皇の勝利と共に、光厳天皇は廃位させられた。

鎌倉時代関連の文化・芸術関連

鎌倉時代の文化・芸術関連について、大問2で出題された用語を中心にまとめます。また、関連性の高いものなど、一部鎌倉時代ではないものも含みます。

主な鎌倉時代の書物

  • 吾妻鏡鎌倉幕府が編纂に関わった歴史書で、1180~1266年までの幕府の事績を編年体で記したもの
  • 愚管抄:1221年の承久の乱の直前に著された神皇正統記』と並ぶ中世日本の重要な歴史書著者は僧侶の慈円なお、「愚管」とは私見の謙譲語。
  • 禁秘抄:1221年に成立した順徳天皇による有職故実の解説書
  • 選択(せんちゃく)本願念仏集九条兼実の要請で、法然まとめた論文。「選択本願念仏」とは、阿弥陀仏が、あらゆる仏道修行の中から「選択」した結果、極楽浄土往生するための「本願」行として定めた称名念仏」を指している。
  • 教行信証:鎌倉時代初期に成立した全6巻からなる浄土真宗の根本聖典著者は親鸞教行信証を著したことで知られる親鸞。
  • 歎異抄:鎌倉時代後期に親鸞の弟子の唯円が記した仏教書「歎異」とは「異なることを嘆く」という意味で、親鸞の死後、親鸞の教えを無視した教義を説く者が後を絶たなかった事を嘆いて書かれたとされる。
  • 元亨(げんこう)釈書:鎌倉時代末期に、虎関師錬によってまとめられた日本初の仏教通史
  • 宇治拾遺物語:1212~1221年頃に成立したとされる鎌倉時代の説話集。作者は不明。日本インド、中国の三国を舞台とし、多彩な説話を集められている。オリジナルの説話は少ない。
  • 十訓抄:1252年に成立したとされる説話集。先行説話集や作者は不明。先行説話集などからの引用の他、平家一門の生活圏における説話や、作者が直接見聞したと思われる説話まである。
  • 平家物語 鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落などが描かれている。冒頭の「祇園精舎の鐘の声」や、平時忠が「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と言った事などで有名。
  • 保元物語:保元の乱の顛末を描いた軍記物語。源為朝が主人公とした様な物語だが、物語と史料には大きな隔たりがあるとされる。
  • 新古今和歌集:鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集で、撰進者は和歌の名手として有名な藤原定家
  • 方丈記鴨長明が記した随筆で、「徒然草」「枕草子」と並んで「古典日本三大随筆」とされる。
  • 徒然草兼好法師が記した随筆で、「方丈記」「枕草子」と並んで「古典日本三大随筆」とされる。
  • 玉葉:平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、九条兼実が執筆した日記。日記の中には、守護・地頭の設置に関する記述もみられる。

主な鎌倉時代の仏像・絵画

  • 一遍上人絵伝:清浄光寺に伝わる文化財。備前国の福岡の市における踊り念仏のようすが描かれている。
  • 蒙古襲来絵巻:肥後国の御家人の竹崎季長が、子孫に元寇における自分の活躍を伝えるために描かせたもの。
  • 男衾三郎絵巻:武蔵国の武士の物語を描いた絵巻。男衾三郎は『男衾三郎絵巻』に登場する武士。作者は土佐隆相とされる。
  • 東大寺南大門金剛力士像:1203年に完成。鎌倉彫刻の最高傑作とされる寄木造像。作者は運慶と弟子の快慶ら。
  • 東大寺僧形八幡神像:1201年に完成。作者は快慶
  • 興福寺天灯鬼像・龍灯鬼像:制作者は康弁、またはその周辺の人物とされる。
  • 興福寺無著像・世親像:運慶の指導で制作された彫刻。
  • 六波羅蜜寺空也上人像運慶の四男康勝が制作した寄木造の彫刻で、日本の肖像彫刻としては屈指の名作といわれる。
  • 高徳院阿弥陀如来像:「鎌倉大仏」として知られる。完成年は不明だが、1252年から鋳造が始められた。

主な鎌倉時代の建築様式

  • 大仏様:大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色とする。当時としては斬新なデザインであったため、あまり人々から受け入れられず、重源以後は継承者が少なく衰退した。代表的な建築物は、重源が東大寺再建を行った際の「東大寺南大門」「東大寺開山堂」など。
  • 禅宗様:北宋の影響を受けた建築様式で、禅宗寺院の建築で多く見られ、のちに禅宗以外の寺院建築にも広まった。代表的な建築物は「円覚寺舎利殿」「善福院釈迦堂」など。
  • 和様:鎌倉時代以前よりあった日本的様式で、ゆるい屋根の勾配や、穏やかな軒反りが特徴。代表的な建築物は「石山寺多宝塔」。
  • 折衷様:和様に、大仏様の構造と、禅宗様の装飾を取り入れた様式。代表的な建築物は、「観心寺金堂」「明王院本堂」など。
  • 武家造:武家の住宅の建築様式で、実用性があり質素な点が特徴。

主な鎌倉時代の建築物

  • 南禅寺:1291年創建。京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山。室町時代に確立した五山・十の別格(最上位)。
  • 建長寺:1253年創建。神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の大本山蘭渓道隆を開山として、北条時頼が開基となった。鎌倉五山の第一位。
  • 円覚寺:1282年創建。神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の大本山無学祖元を開山として、北条時宗が開基となった。円覚寺は、元寇の戦没者を弔うために創建された。舎利殿は禅宗様の代表的建築。鎌倉五山の第二位。
  • 寿福寺:1200年創建。神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院栄西を開山として、北条政子が開基となった。鎌倉五山の第三位。
  • 鎌倉五山:臨済宗の寺院の寺格で、鎌倉にある寺院。第一位から順に「建長寺」「円覚寺」「寿福寺」「浄智寺」「浄妙寺」の五つの寺院をさす。
  • 建仁寺:1202年創建。京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山京都五山の第三位。栄西を開山として、源頼家が開基となった。
  • 京都五山:臨済宗の寺院の寺格で、京都にある寺院。第一位から順に「天龍寺」「相国寺」「建仁寺」「東福寺」「万寿寺」の五つの寺院をさす。なお、創設は鎌倉末期だが、確定したのは足利義満の代。
  • 大徳寺:1315年(または1319年)創建。京都市北区にある臨済宗大徳寺派の大本山
  • 総持寺:神奈川県横浜市にある曹洞宗の大本山。前身となる寺院は、1321年に能登国(現在の石川県)に開かれていた。なお、曹洞宗は「○○派」のような分派がなく、大本山は他に永平寺がある。
  • 善光寺:長野県にある無宗派の単立仏教寺院。創建年は644年と伝えられるが、1179年に火災で焼失。その後、1187年に源頼朝が再建を命じる。関東では善光寺信仰が盛んで、頼朝や北条家から信仰され、戦国時代も善光寺如来の争奪が行われた
  • 北山十八間戸:1243年、鎌倉時代奈良につくられ病人の救済施設。西大寺の僧侶忍性によってつくられたとされる。

主な鎌倉時代の僧侶

  • 法然:浄土宗の開祖念仏を唱えることで救われるという「専修念仏」を説いた。有名な著書は選択本願念仏集
  • 栄西:臨済宗の開祖鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を開いた。廃れていた喫茶の文化を日本に再び伝えたことでも有名。有名な著書は興禅護国論
  • 親鸞:浄土真宗の開祖。師は法然。悪人正機説で有名(ただし、法然の時代からこの考え方はあった)。有名な著書は『教行信証』。悪人正機説の考え方もあり、親鸞は公然と妻帯を実践した初の僧侶であり、浄土真宗の僧侶は明治以前から公に妻帯が認められていた。
  • 道元:曹洞宗の開祖。道元は、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」を説いた。有名な著書は正法眼蔵』。
  • 日蓮:日蓮宗(法華宗)の開祖。南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。他の宗派との衝突が多く、対立宗派を非難した『立正安国論』が有名。
  • 一遍:時宗の開祖。一遍は各地を遊行した。平安時代の僧、空也も行っていた「踊り念仏」でも有名(一遍の尊敬する人が空也だった)。
  • 無学祖元:鎌倉時代臨済宗建長寺と円覚寺に兼住し、多くの鎌倉武士の参禅を得た。時宗が元寇の戦没者を弔うため創建した円覚寺の開山となったことで有名。
  • 夢窓疎石:鎌倉時代末~室町時代初期の臨済宗僧侶。後醍醐天皇や足利尊氏・直義兄弟の帰依を受けた。また、天龍寺や相国寺の開山となった。

職業・商業関連

  • 鋳物師:中世日本における鍋や釜を作る鋳物職人。
  • 番匠:中世日本における大工。
  • 紺屋:中世日本における染め物業者。
  • 鍛冶:中世日本における金属を鍛錬して製品を製造する業者。刀鍛冶など。
  • 大原女:山城国大原(現在の京都府)の女子で、を頭に載せ、京の都で行商する職業。
  • 大山崎油座:鎌倉時代前期頃~戦国時代末期にかけて存在した、油を独占販売した座。石清水八幡宮を本所とし、その力を背景に関銭免除の特権を得て広範囲での販売を行ったが、応仁の乱で大山崎が戦場になった事や、戦国大名が自国の油商人を保護した為衰退した。

なお、中世の職業については「七十一番職人歌合」から多くの種類を確認することができる。

騎射三物

  • 笠懸:疾走するから的に向かって鏑矢を射る稽古・儀式などのこと。流鏑馬よりも実戦的だった。鎌倉時代が最盛期。
  • 犬追物:競技場の中を馬で移動しながら、特殊な鏑矢で犬を射る稽古などのこと。文献上は1207年から見られる。
  • 流鏑馬:疾走するから的に向かって鏑矢を射る稽古・儀式などのこと。鎌倉時代に特に盛んであった。

なお、騎射三物は武士騎射稽古法の事で、成立時期は平安時代鎌倉時代。「流鏑馬」については、過去に筆記で問われた事がある。

参考にしたサイト

この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。

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10月 16, 2023歴史能力検定(日本史2級)