【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト⑤ 平安後期
この記事では、歴史能力検定2級(日本史)の平安末期(主に大問2の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです。また、内容は、わかりやすさを優先して平安時代中期の記事と若干重複させています)。
実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません。「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用ください。
記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。
可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。
また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。
歴史能力検定2級(日本史)の知識【平安末期】
出来事・用語 | 年代 | 内容 |
日宋貿易 | 10–13世紀 | 日本と宋で行われた貿易。平安時代の中期から鎌倉時代の中期に行われたが、日宋間での公的な国交は無かった。清盛は、貿易活性化のため、12世紀後半に現在の神戸市に大輪田泊という港を整備した。この交易により宋銭が流入したことで、貨幣経済の発展に至った。 |
前九年の役 | 1051–1062年 | 後冷泉天皇の代。藤原氏の全盛時代。陸奥国の有力豪族、安倍氏が半独立的な勢力を形成し、朝廷への納税を怠る状態であったため始まった戦い。当初は安倍氏(安倍頼時・貞任の父子)が勝利するも、長期戦となり、源頼義を出羽の豪族である清原氏が助け、阿部氏を討伐した。背景として、武士の台頭がある。 |
延久の荘園整理令 | 1069年 | 後三条天皇の代。藤原頼通の関白在任時に違法荘園が増え、有力貴族が寄進地系荘園を増やしている状況を改善する目的もある。従来の荘園整理令よりも強固に実行するため、職務を全て中央で実施した。 |
知行国 | 11世紀末-12世紀初頭 | 有力貴族・寺社・武家などが、特定の国の知行権(その国の国司推薦や官物収得の権利)を認められ収益を得た制度、およびその国。知行国主になった者は、受領の任命権があるため、受領から収益を取る事ができた。受領は、任国に直接赴任する国司であり、実質的な国衙行政の最高責任者。ちなみに、受領は租税を私物として貸しだして、利益を上げていた(受領の私財と中央への租税を明確に仕分けする制度が無かった為、命令に基づく納付があれば、受領の身勝手を罰することはできなかった)。知行国は、荘園と並んで鎌倉幕府の経済基盤にもなった。 |
後三年の役 | 1083–1087年 | 白河天皇の代。前九年の役の約20年後、清原氏の内紛に端を発した戦い。勝利した清原(藤原)清衡は、その後、平泉に移り奥州藤原氏の基礎を築く。一方、協力した源義家(前九年の役で戦った源頼義の子)は朝廷から戦いを「私戦」とみなされ、報酬はなく、陸奥守も罷免され、戦中の貢納が未納扱いになる。しかし、義家は将士に私財から恩賞を与えたことで、関東武士との結束を高め、源氏の「武家の棟梁」としての基礎を作った。 |
奥州藤原氏 | 1087–1189年 | 後三年合戦の後から、1189年に源頼朝に滅ぼされるまで、陸奥の平泉を中心に奥羽地方(現在の東北地方)で勢力を誇った藤原北家の支流の豪族。奥州藤原氏のもと、浄土教の影響を受けた中尊寺金色堂などの建築物も造営された。 |
北面の武士 | 11世紀末 | 白河天皇の代。院御所の北面に詰め、天皇の身辺警護や、御幸の際の護衛を行った武士。院の直属軍で、主に寺社の強訴に対抗する目的で設置された。天皇に近い者(近習や寵童(男色の相手)など)から選抜され、武士団の母体となる軍事貴族も採りたてられた。1118年頃に延暦寺の強訴を防ぐため動員された人数だけで1000人規模にもなる。従来の院の警護役(武者所)は北面の武士に吸収され、また白河方法は北面の武士を検非違使に抜擢し、最高責任者である検非違使別当を介さず指示をしたことから、検非違使も形骸化していった。承久の乱(1221年)後は衰退したが、江戸時代まで残る。 |
源義親の乱(康和の乱) | 1107年 | 鳥羽天皇の代。源義家(後三年の役で活躍)の子、義親が起こした事件。1102年、義親は九州で略奪や官吏の殺害を行い、隠岐国へ流罪となっていた。しかし、義親は出雲国で再び略奪や目代の殺害を行った。父の義家は自ら子の義親追討をせざるを得なくなるが、三男と弟も騒動を起こし、それらを治めている間に死去(1106年)。結果、白河法皇は平正盛を派遣し、義親を討たせた。乱後、河内源氏は内輪もめが続き凋落。一方、伊勢平氏は平正盛の功績で台頭し、西国で勢力を拡大。平清盛の時代に全盛期となる。余談だが、京都で首が晒された義親であるが、それまで武功の少ない正盛が、剛勇で知られる義親を討ったことは疑われ、義親生存の噂が発生した。結果、4人の「義親」を名乗る者が現れ、1130年まで世が乱れた。 |
借上(かしあげ) | 12世紀頃~ | 平安時代後期~南北朝時代頃の高利貸業者。最初は米を貸したが、貨幣経済の発達後は、主に金銭を貸すようになった。担保として物品を預かる業者も現れ、担保品を保管するために土蔵を建てたことから土倉と呼ばれるようになる。読みは「かしあげ」であり、江戸時代の「借上(かりあげ)」とは別。 |
似絵(にせえ) | 12世紀後半~ | 鎌倉~南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画。写実性・記録性が強い。似絵の名手としては、藤原隆信派の藤原隆信、藤原定家などが有名。 |
保元の乱 | 1156年 | 後白河天皇の代。後白河天皇と崇徳上皇による権力争いに伴う戦い。崇徳上皇派には藤原頼長、源為義など、後白河天皇派には藤原忠通、信西、平清盛などが付いた。鳥羽院の崩御に伴い「藤原頼長と崇徳上皇に謀反の動きあり」と噂が流され(信西が流したとされる)、後白河天皇は藤原頼長の財産を没収。追い詰められた崇徳院と頼長は挙兵するも、夜襲をかけた後白河天皇側が1日で勝利した(崇徳上皇側でも夜襲を仕掛ける話はあったが、頼長が却下したとされる)。戦後の武士に対する処罰は厳しく、薬子の変(810年)以来行われなかった死刑が行われた。朝廷内の抗争に、平清盛や源義朝などの武士の力を借りたため、武者の世の始まりとも言われる。乱の後、摂関家は「武力組織を解体」「忠実・頼長の持つ摂関家伝来の荘園は没官領として剥奪」「藤氏長者の人事権は天皇による任命制」との処分を受け、一気に没落した。完全な余談だが、崇徳上皇側だった鎮西八郎為朝は、あまりの強さから「ガンダム」「平安時代のモビルスーツ」と呼ばれ、流罪後も数々の伝説を作った。戦いの末に琉球にたどり着き、初代琉球王舜天の父となったという逸話もある。なお、戦いについて、慈円が愚管抄で「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ」と評したことで知られる。 |
平治の乱 | 1159年 | 二条天皇の代。後白河天上皇の側近、信西と藤原信頼の対立で引き起こされた戦い。保元の乱で後白河上皇のもとで戦った勢力が対立し、信西側には平清盛、信頼側には源義朝がついた。平清盛一行が熊野詣(院政時代(1086~1192年頃)より流行)で、都を留守にしたタイミングを、信西側が襲われた事で、後白河天皇は信頼側に幽閉され、追い詰められた信西は自害したとされる。しかし、清盛の反撃により、信頼、義朝も討たれた。戦後、後白河上皇の治世で平氏が勢力を増し、平家の繁栄へつながった。一方、源義朝の子である、源頼朝・源義経らは死罪にならず生き残った。 |
平清盛が武家出身で初の太政大臣となる | 1167年 | 関白の藤原基実に娘の平盛子を嫁がせ、また後白河上皇に妻の妹である平滋子を嫁がせるなど、有力者との婚姻関係により地位を固めた清盛が、武家出身者で初の太政大臣となった。しかし、日宋貿易で力を付けた事や、貴族化していったことにより、貴族からも武士からも反発を受けるようになっていく。 |
高倉天皇が平清盛の娘である徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える | 1172年 | 平氏政権の代。高倉天皇が徳子を中宮に迎えた。1178年に高倉天皇と徳子の間に皇子(後の安徳天皇)が誕生。高倉天皇は1180年に安徳天皇に譲位して太上天皇となるが、病でこの年に崩御。1185年には壇ノ浦の戦いにて安徳天皇は入水する。なお、高倉天皇の母である平滋子は、平清盛の妻の妹。滋子は、朝廷内で権力を争う後白河上皇(高倉天皇の父)と清盛の間で板挟みになっていた高倉天皇を守るように、後白河上皇と平清盛の間を取り持っていたが、平滋子が亡くなった後は鹿ケ谷の陰謀(1177年)もあって、二人の関係は破綻した。 |
法然、専修念仏(称名念仏)の教えを説く | 1175年頃 | 平氏政権の代。「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依する)」と唱えることで、平等に往生できるとする「専修念仏」の考えを説き、法然が布教し始めた。1145年、法然は比叡山で修行を始めたが、『観無量寿経疏』に影響され、専修念仏(称名念仏)を奉ずる新たな宗派として「浄土宗」を開くことを決意。1175年に比叡山を下山し、活動を開始した。しかし、比叡山の考えとは相いれず、1204年、比叡山の僧徒が専修念仏の停止を迫って蜂起した。更に、後鳥羽上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の念仏法会で尼僧となった事が、上皇の怒りを買った。結果、1207年に後鳥羽上皇から念仏停止を命じられ、法然は還俗の上で、讃岐国への流罪となった(元は土佐国に流される予定だったが、法然に帰依する九条兼実の庇護で讃岐へ変更)。一連の流れを「承元の法難(1207年)」といい、弟子で浄土真宗の開祖となる親鸞も越後国へ配流となる。 |
鹿ケ谷の陰謀 | 1177年 | 平氏政権の代。後白河上皇による、平家打倒の陰謀。密告によって阻止されたとされるが、実際には延暦寺と争うことを避けようとした平清盛が、陰謀を捏造したとも言われる。背景として、朝廷の要職の座で対立した後白河上皇と清盛の間を取り持っていた平滋子が亡くなったこと、また延暦寺と揉めていた後白河上皇が清盛に助けを求め、清盛が対処に苦慮した事がある。結果として、後白河上皇は弱体化し、平氏との関係も悪化する。 |
治承三年の政変 | 1179年 | 平氏政権の代。平清盛が軍勢を率いて京都を制圧し、幽閉された後白河法皇が院政を停止した事件。院政の停止により、清盛の影響を受けた高倉天皇が政権を握り、高倉天皇は1180年には清盛の孫である安徳天皇に譲位した。 |
治承・寿永の乱 | 1180–1185年 | 平氏政権の代。平家に対する不満から発生した戦いで、「以仁王の乱」から「壇ノ浦の戦い」までの源氏と平氏の戦い。治承三年の政変で後白河院政を停止させ、平家一門が政治の実権を握ったことで、反対勢力を多く生み出したことが背景にある。日本各地で反乱が発生し、挙兵した勢力には源氏が多かった。この戦いで、平氏が滅亡し、鎌倉幕府の成立へとつながる。 |
福原京への遷都 | 1180年 | 平氏政権の代。治承・寿永の乱が始まるなか、清盛が高倉上皇と平家一門の反対を押し切り、福原(摂津国の現在の兵庫県)へ遷都を行った。ただし、公家たちの反対のため、半年で京都に還都した。遷都の背景として、政情不安や宋との貿易拡大を目的とした事などがあげられている。 |
侍所 | 1180年 | 平氏政権の代。鎌倉幕府と室町幕府で、御家人の統率・警察・護衛を担った組織。初代別当は和田義盛だが、和田合戦により義盛が討たれた後は、執権が兼ねたとされる。後に、東国の刑事事件(検断沙汰)の対応も行う。 |
倶利伽羅峠の戦い | 1183年 | 平氏政権の代。「治承・寿永の乱」の戦いの一つ。源義仲軍と平家軍との間で戦われた合戦で、源義仲が勝利した。この戦いが起こる以前に、以仁王は平家追討の令旨を各地に送り、源氏が一斉に挙兵した。戦いに勝利した義仲は、その後入京を果たし、平氏は安徳天皇と伴に京から西国へ落ち延びた(この時点で、清盛はすでに亡くなっている)。ただし、義仲は京の環境改善に失敗したため後白河法皇と関係が悪化した。また、西国での平氏との戦いにも失敗。これらの対応の中で、関係が悪化した源頼朝が、義仲の敵になってしまい、粟津の戦い(1184年)で討ち死にした。 |
(鎌倉幕府の)公文所 | 1184年頃 | 平氏政権の代。公文書の管理が行われた組織で、源頼朝が鎌倉幕府に設置した。なお、1184年に設置の記録があるが、それ以前の1180年には同様の業務は行われていたとされる。また、公文所としては鎌倉政権のものが有名だが、公文所の言葉自体は、古代・中世の公文書管理を行う他の組織をさすこともある。 |
問注所 | 1184年 | 平氏政権の代。鎌倉幕府・室町幕府で、訴訟事務を担った組織。ただし、裁判は行わず、あくまで事務のみであり、後に訴訟が多くなると、時間の短縮化が求められた。結果、1250年には、御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を引付衆、その他の民事訴訟(雑務沙汰)・訴訟事務は問注所、東国の刑事事件(検断沙汰)は侍所、西国の刑事事件は六波羅探題の検断奉行と、役割分担された。 |
屋島の戦い | 1185年 | 平氏政権の代。「治承・寿永の乱」の戦いの一つ。源義経が平宗盛の率いる平氏を敗走させた。この戦いにより、平氏は彦島に孤立し、壇ノ浦の戦いにつながる。なお、那須与一が平氏側の扇の的を射るエピソードがあった戦いである。 |
平安時代の文化・芸術関連
平安時代の文化・芸術関連については、平安時代前期~中期(大問1の範囲)の記事にまとめました。興味がある方は、こちらをご参照ください。
荘園関連のまとめ
古代・中世の荘園関係について、簡単にまとめておきます(主に大問1~2の範囲の用語です)。
用語 | 内容 |
屯倉 | 律令制以前の支配制度で、大王やその一族の直轄地。後の地方行政組織の先駆けにもなったと考えられる。 |
田荘 | 古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度で、豪族が所有した私有地。 |
公地公民 | 中央政府(天皇)による土地・人民の支配制度。大化の改新後、律令制が成立する中で完成していった。この制度の更に基礎となったのが「班田収授」や「戸籍」などの制度。 |
班田収授制(班田制) | 律令制における国家による農地(班田)の耕作権の支給・収容に関する制度。これに関する法体制を班田収授法と呼ぶ。飛鳥時代後期~平安時代前期にかけて行われた。 |
班田 | 国家の農地の耕作権の支給を行う事、またはその土地。なお、記録上全国一斉の班田は800年が最後、記録上最後の班田は902年が最後とされる。 |
百万町歩開墾計画 | 722年に掲げられた墾田を増やそうとする計画。百万町歩という数値がほぼ不可能であったことから、スローガンであったともされる。 |
三世一身の法 | 723年に発布された法令で、開墾社から三世代に限って、墾田の私有を認める法令。 |
墾田永年私財法 | 724年に発布された法令で、墾田の永年私財化を認める法令。荘園発生の基礎となった。 |
輸租田 | 班田制において、収穫物から田租(租)を国衙に納める事が定められた田地。輸租田に含まれるものは「口分田」「墾田」など(時期によって変化する)。反対に、国衙へは田租を納めず、田地の領主が給与として年貢を直接受け取る田地は「不輸租田」と呼ばれる。 |
不輸租田(免田) | 不輸の権を与えられ租税を免除され、田地の領主が給与として年貢を直接受け取る田地。不輸租田に含まれるものは「官田」「公廨田(くがいでん)」「寺田」など。反対に、国衙へ田租を納める田地は「輸租田」と呼ばれる。 |
不輸の権 | 不輸租田に指定され、国家への租税の一部または全てを免除される権利。 不輸租田に指定されると、収穫物に対する国衙の徴税対象外とされた。 |
不入の権 | 不輸租田が、国司・国衙からの使者である検田使・収納使・四度使などの立入調査をも拒否できる権利。寄進地系荘園では、領主の権威を背景に、検田使などの立ち入りを認めない荘園が増加した。 |
口分田 | 律令制において、民衆へ一律に支給された輸租田。戸籍に基づいて6年に一度、口分田として6歳以上になると耕作権が貸与された(女性は、男性の2/3)。収穫物のおよそ3%は租(田租)として国衙の主要財源とされた。浮浪・逃亡する百姓の増加や、初期荘園の誕生を背景に弛緩し始め、桓武天皇は12年に一度の班田に改めたが、手続きの煩雑さ、偽籍の増加などもあり、班田は廃れていき、記録上は902年が最後となる。 |
墾田 | 班田制において、新たに開墾した輸租田。初期は開墾者の耕作権を一代に限り認める規定があったが、8世紀から人口増加により口分田が不足した事を背景に、墾田開発が求められるようになった。722年に百万町歩開墾計画が行われるが、ほぼスローガンの様なもので目標達成はできず、723年には三世一身法が出され三代まで世襲が認められるが、三代目で荒廃するというデメリットがあった。743年に出された墾田永年私財法で、墾田の永年私有が認められた。 |
公営田 | 主に、平安前期(9世紀頃)に大宰府などで設置された公営の田地制度。大宰府では、当時不作による税収不足や、百姓の困窮が問題になっていた。そのため、823年、小野岑守が財源確保と農民救済のために、管内田地の一部(放棄された農地)を期限付きで公営田とすることを提案し、太宰府の農民を雇って耕作を行わせ、そこからの収入を財源とした。広義では、朝廷や地方官衙が設置した田地のこともさす。 |
官田 | 古代日本における皇室・朝廷が所有する田地。平安期の畿内では、公営田と似た制度で、官人給与に充てるため、計4000町の官田が設置された。 |
寺田 | 仏教寺院の運営経費にあてる領田(寺社領)。同様に神社の運営のためのものは神田と呼ぶ。律令制が整備された当初、寺院や神社は神仏に帰属するものとみなされていた為、寺田(神田)は班田されず、また売買もできなかった。大宝律令以降、規定が置かれるようになり、不輸租田となったが、この時点では個人から寺院・神社への田地の寄付は禁止されていた。その後、743年に墾田永年私財法が施行されると、大寺院が墾田開発を進め、荘園を作った(初期荘園)。律令制崩壊後、寺院・神社には不輸の権が認められていた為、不輸の権を獲得しようと開発領主が自分の田地を有力寺院・有力神社へ寄進した。これにより、有力寺院・有力神社には荘園の寄進が集中していった。 |
勅旨田 | 天皇の勅旨により開発された田地。主に、平安時代前期(820年代~840年代)に開発され、皇室経済の財源に充てられた。延喜の荘園整理令(902年)により、勅旨田の新設は禁止された。また、後三条天皇が発令した「延久の荘園整理令」(1069年)では、法的要件を満たさない荘園は勅旨田とされ、これは後三条院勅旨田と呼ばれた。 |
荘園 | 中央の貴族・公家や大寺社などが、収入を得るために領有支配した農地。また、その周辺の山野なども含む。墾田永年私財法の発布によって、墾田の永年所有が可能となった事に伴い、当初は畿内を中心に作られていった(初期荘園)。中央政府との関係を築くことで、不輸の権をも認めさせる者も現れた(不輸が承認された荘園は「官省符荘」と呼ばれる)。また、11世紀頃から中央政府の有力者へ田地を寄進し、不輸の権、不入の権を得る開発領主も現れた。このような開発領主と、寄進を受けた荘園領主(領家)、更にその荘園領主から寄進を受けた皇族や有力貴族などの最上位に位置する荘園領主(本家)といった荘園の所有関係が構築された。このような重層的な所有関係のある荘園を「寄進地系荘園」と呼ぶ。なお、中世の日本における土地所有形態は、形の上では、荘園と国衙領(公領)とにほぼ二分されたが、後者を領有支配も、事実上は中央の貴族・公家などの権門だった。 |
初期荘園 | 墾田永年私財法の発布によって、墾田の永年所有が可能となった事に伴い、中央貴族・大寺社・地方の富豪などの資本家が墾田を行い、作られた荘園。畿内を中心に作られていった。 |
寄進地系荘園 | 11世紀頃から見られるようになった重層的な所有関係のある荘園。土地開発をおこなった開発領主、開発領主から寄進を受けた有力者や有力寺院などの荘園領主(領家)、領家から寄進を受けた皇族やより有力な貴族などの最上位に位置する荘園領主(本家)といった、重層的な所有が行われた。 |
官省符荘 | 不輸が認められた荘園のこと。荘園領主は、中央政府と関係を築くことで、不輸を認めさせる事があった。なお、田租にかかわる権限は太政官と民部省が持っており、これらが発する符が国司へ通達され、指定された田が不輸租田となった。 |
国免荘 | 国司が不輸を認めた荘園。ただし、国免荘は、承認した国司の在任中のみが有効だった。背景として10世紀以降に租税制度が崩壊していくなかで、国司請負へと制度が移行していき、国司が租税納入の請負を行うようになっていた。 |
国衙領(公領) | 平安時代中期頃以降の公領で、国衙が支配した公領。国司が管理し、その土地は荒廃した口分田などがもととなった。10世紀以降で戸籍や班田を基にする租税制度が崩壊し、筆頭国司(受領)が租税納入を請け負うようになったことから、受領の勢力下にある国衙領は、受領の私有財産の様に扱われる事もあった。鎌倉幕府の成立以降は、国衙領は守護・地頭の勢力の下に置かれるようになっていったが存続したが、荘園と同様、最終的には太閤検地によって消滅していった。 |
田堵 | 平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層。不輸租田を中心に田地を開発して土地支配を進めた田堵は、開発領主にも含まれる。また、経営規模により、大名田堵、小名田堵などとも呼ばれた。 |
開発領主 | 田地を開発して領地を確保した者。開発領主には開発した領地を寄進して荘園とする者も現れ、寄進地系荘園が作られていった。また、寄進先の荘園領主から荘官に任命される者も多くいた。 |
荘官 | 荘園領主(本所)から、現地で荘園を支配・管理することを任じされた者。荘園を開発した開発領主が任命されることが多かったが、荘園領主が家臣を現地へ派遣することもあった。 |
領家 | 開発領主などから、寄進を受けた領主の事。更に寄進された場合、最上位の領主は本家と呼ばれる。 |
本家 | 領家から、更に寄進を受けた領家の中で、最上位の領主の事。主に、皇族や中央の有力貴族が本家となった。 |
延喜の荘園整理令 | 902年に醍醐天皇が発令した荘園整理令。荘園の新規設置の規制、不正な寄進の取締りなどを通して、国家財政の再建を目指したが、実効性には乏しかった。また、この年が記録上は最後の班田となった。 |
延久の荘園整理令 | 1069年に後三条天皇が発令した荘園整理令。藤原頼通の関白在任時に違法荘園が増え、有力貴族が寄進地系荘園を増やしている状況を改善する目的もある。従来の荘園整理令よりも強固に実行するため、職務を全て中央で実施した。 |
地頭 | 鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理するために設置した職。 |
地頭請 | 荘園領主と地頭が契約し、毎年一定額の上納分を領主に納めることを条件として、地頭がその荘園の管理・支配・年貢の徴収を任されるという制度。領主には凶作などに左右されず一定の収入を得られるメリットがあり、地頭側は上納額以外をすべて自分の収入とできるメリットがあった。なお、時代と共に年貢納入を請け負う主体が変化し、地頭請(鎌倉時代)、守護請(室町時代)、地下請(室町・戦国時代)、村請(江戸時代)と似た制度が続いていく。 |
下地中分 | 荘園領主と地頭が土地を折半し、それぞれの土地の領有権を認めたことで、西日本で多く見られた。背景として、鎌倉時代中期~南北朝時代に荘園領主と地頭による領有権の争いが見られ、その解決策とした幕府が推奨した。これにより、従来の重層的な土地支配から、それぞれの主体による一元的な土地支配(一円知行)へと移行していった。 |
守護請 | 室町時代において、守護が荘園・国衙領(公領)の年貢納入を請け負ったこと。守護は、守護請を通じて荘園・国衙領への支配を強めていった。守護の支配強化に伴い、荘園領主の支配権は守護に侵害されるようになっていき、守護請は荘園・公領の減少につながっていった。 |
荘園の消滅 | 室町時代の守護(守護大名)による荘園支配が強まり、応仁の乱(1467年)以降は武士による横領もあって、荘園制は事実上崩壊していった。最終的に羽柴秀吉による太閤検地によって、土地制度が大幅に修正され、荘園は消滅に至ったとされる。 |
(肥後国)鹿子木荘 | 平安~室町時代にかけて肥後国にあった代表的な寄進地系荘園。東寺百合文書に寄進について記載があり、荘園制の研究でも重要なものとなっている。 |
(伯耆国)東郷荘 | 領家と地頭が土地争いをし、下地中分で和解した事で有名な荘園。下地中分を行って和解した事が、下地中分絵図として残されている。 |
(紀伊国)阿氐河荘 | 荘民から地頭が訴えられた事で知られる荘園。地頭の湯浅氏は、元は荘園領主と良好な関係であったが、徐々に在地支配を強化して対立が深まった。なお、鎌倉幕府に訴えられた地頭側だが、訴訟が進む前に幕府は滅亡し、訴訟による地頭排除は失敗した。 |
参考にしたサイト
この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。