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【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト④ 平安前期~中期

9月 25, 2023歴史能力検定(日本史2級)

この記事では、歴史能力検定2級(日本史)に出題された平安前期~中期(主に大問1の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです)。

実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用ください。

記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。

可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。

また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。

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歴史能力検定2級(日本史)の知識【平安前期~中期】

出来事・用語年代内容
平安京794桓武天皇の代。日本最後の古代都城で、長安をモデルとした。遷都前、この地は畿内「山背国」であったが、遷都後は「山城国」と改名された。先の長岡京遷都(784年)により、寺社勢力や天武天皇系統の勢力の排除は行われていたが、早良親王の怨霊の噂や、長岡京での大洪水の影響で遷都に至った。平氏政権による福原遷都1180年)の時期を除くと、1869年まで一貫して日本の首都であった。
勘解由使797年頃桓武天皇の代。律令制下の令外官の一つ。地方行政を監査するために設置され、主に国司の不正や交代の際のトラブルを監視した。とくに現地に赴く国司受領)は、8世紀後半頃から、租として徴収した稲(正税)を勝手に高利で貸し出して(出挙)大きな利益を得ていた(公廨稲収入)。こういった立場から、新しい国司との交代時に不正・賄賂が横行していため、その取締りが必要だった。なお、前任者が役職を果たしたことを確認し、後任者へ交替する手続きを解由と呼び、その際に発行される解由状を前任者が持ち帰り、勘解由使が監査していた。
坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命される797桓武天皇の代。坂上田村麻呂が東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ持った。桓武天皇の時代、蝦夷を服従させるための武力行使が789年から行われていたが、失敗が続いていた中での抜擢であった。坂上田村麻呂は、蝦夷のリーダーの阿弖流為母礼と交渉し、2人の命を助ける代わりに降伏させたが(802年)、貴族達の反対を受け、結局2人は処刑された。
鎮守府が多賀城から胆沢城へ移転802812桓武天皇の代。坂上田村麻呂胆沢城を築城したことに伴い実施。後三年の役の頃まで約150年機能した。ちなみに、完成は阿弖流為の降伏(802年)の後。正確な移転時期は不明で、802~812年の間とされる。
最澄空海の遣唐使船による入唐804最澄天台山への還学生(1年程の短期留学)として、空海が留学生(るがくしょう。20年程の長期留学)として唐に渡る。当時、最澄はすでに仏教界で地位を築いていたが、空海は無名だった。最澄は行満から天台の教えを受けた他、大乗菩薩の戒法・禅法・密教なども学び805年に帰国し天台宗を開く。一方、空海は恵果から密教を深く学び、半年という短い期間で真言密教の師として認められ、806年に帰国した。しかし、空海は20年の留学期間を2年で切り上げた為、809年まで入京を許されなかった。最澄は日本の天台宗の、空海は真言宗の開祖となる。ちなみに、空海と同じ船で橘逸勢も唐に渡っている(最澄は別の船)。また、空海と橘逸勢は、同じ時代の嵯峨天皇と並んで三筆と呼ばれる(三筆の話が出題されたら、誰か一人でも知っていると時代を特定できるので便利)。
蔵人所810嵯峨天皇の代。律令制下の令外官で、天皇秘書的役割を担った。当時、嵯峨天皇は平城上皇と対立しており朝廷内の平城上皇派(藤原薬子と仲成など)が脅威であった。そこで、天皇直属の機関として作られたとされる。蔵人所の実際の責任者は蔵人頭と呼ばれ2名。初代は藤原冬嗣巨勢野足が任命されていた。また、蔵人所設置に伴い、平城天皇が設置した観察使を廃止したことは、薬子の変のきっかけにもなった。後に、藤原良房菅原道真なども蔵人頭に任命された。
平城太上天皇の変(薬子の変)810嵯峨天皇の代。平城上皇と嵯峨天皇が対立し、平城上皇の出家で決着した事件。嵯峨天皇が即位後に、平城上皇が設置した観察使の制度を改めようとした為、平城京に移っていた平城上皇が怒り、対立していた(二所朝廷と言う)。当時の太上天皇は、天皇と同様に国政に関与できるという考えがあった(平城上皇が、上皇に寵愛されていた薬子の職権で、太政官を動かす可能性がある)。更に嵯峨天皇が810年正月に病に倒れた事も影響し、平城上皇に復位の可能性を持たせた。観察使を廃止(蔵人所を設置)したことも影響し、平城上皇は平城京に遷都を宣言し、これに対し嵯峨天皇は坂上田村麻呂藤原冬嗣を平城京へ派遣。平城上皇は、関東へ逃げるが捕らえられた。事件後、藤原薬子尚侍を解任された後、自害。薬子の兄で参議藤原仲成も処罰され藤原式家は没落。藤原北家の繁栄につながる。なお、藤原薬子が平城上皇を唆したとされたため「薬子の変」と呼ばれたが、実際には制度上の問題が大きく、また、薬子が首謀者とされたのは、嵯峨天皇が平城上皇に皇族として配慮した為との説もあり、近年は「平城太上天皇の変」と呼ばれる。
文室綿麻呂蝦夷征討の責任者を務める811嵯峨天皇の代。文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)東北地方に駐在し、蝦夷征討の責任者を務めるようになった。
検非違使の設置816年頃嵯峨天皇の代。律令制下の令外官の一つ。「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。桓武天皇による軍団廃止(健児の制に移行)により治安が悪化したため設立された。以前より弾正台が治安維持を職務としていたが、弾正台には逮捕や裁判の権限がなかった。検非違使は、850年までに権限を拡大させ、監察や治安維持(弾正台の仕事)・逮捕(衛府の仕事)・裁判など(刑部省の仕事)の権限を一手に担うようになる。その後、六波羅探題(1221年)が治安維持を担うようになり、消滅していく。
金剛峯寺819嵯峨天皇の代。高野山真言宗総本山で空海が高野山に建立した。空海は、若い頃に修行した高野山に、真言密教の道場を設立しようと嵯峨天皇に願い出て、816年に賜ったとされている。世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産でもある。
弘仁格式820嵯峨天皇の代。養老律令に対する補充法典として編纂された三代格式の一つ。編纂したのは藤原冬嗣。820年に撰進されるが、その後も修訂事業が継続され、施行は830年
大宰府に公営田が設けられる823大宰府に有力農民を利用して運営される直営方式の公営田が設けられた。
綜芸種智院828淳和天皇の代。空海設置した私立学校。当時の教育機関である大学国学は、庶民は入学できず、また学習内容は主に儒教であった。一方、寺院では仏教中心で、儒教などは扱っていなかった。空海はこの状況を打開すべく、誰でも入学でき、儒教・仏教・道教などの総合的な学習ができる学校として、綜芸種智院を計画した。ただし、どこまで計画通りに運営できたかは不明であり、空海の死後10年ほどで、計画の達成は困難とされ、売却された。
令義解833淳和天皇の代。淳和天皇の指示で右大臣清原夏野が編纂した律令の解説書。この書物によって、大宝律令や養老律令が伝えられている。
承和の変842仁明天皇の代。皇位継承をめぐる政争に絡んだ藤原良房による他氏排斥事件の1つで、伴健岑橘逸勢が処罰された。823年、嵯峨天皇は、父母ともに皇族の血を引く恒世親王を次期天皇にしようとし、慣例に習い先に恒世親王の父、淳和天皇の即位をさせた。しかし、淳和天皇は後ろ盾が乏しく、恒世親王が政争に巻き込まれることを危惧し、嵯峨上皇の息子、正良親王を皇太子にした。833年、淳和天皇が崩御し、正良親王が仁明天皇として即位するが、再び嵯峨上皇が、淳和天皇の息子、恒貞親王を皇太子に選ぶ(この時点で恒世親王は病死)。この事に、自分の息子、道康親王が皇太子に選ばれなかった仁明天皇が不満を抱く。また、道康親王は藤原良房の孫にもあたり、仁明天皇と藤原良房が協力関係となる。結果、842年の嵯峨天皇の崩御で、恒貞親王が後ろ盾を失ったタイミングで、仁明天皇が恒貞親王に仕える伴健岑橘逸勢などを謀反人とし処罰した(謀反の真偽は不明だが、冤罪とも言われる)。事件後、藤原北家の勢力が拡大し、良房は皇族以外で初めて太政大臣(857年)や摂政(858年)となり、藤原氏繁栄の基礎を築いた。
応天門の変866清和天皇の代。藤原氏による他氏排斥事件の1つ。応天門が放火され、伴善男源信を犯人として告発するが、藤原良房の進言で無罪。その後、今度は伴善男父子が疑われ、流罪となった。この事件で、古代から続く大伴氏は没落した。なお、伴善男と源信は以前より不仲な政敵であり、864年にも伴善男が源信に謀反の噂があると申し立てている。放火犯には諸説あるが、真相は不明。ちなみに、藤原良房は初代の蔵人頭で、良房は皇族以外で初めて太政大臣になった。また、平城太上天皇の変で登場し、嵯峨天皇のもとで弘仁格式を編纂した藤原冬嗣の息子にあたる。
令集解868年頃清和天皇の代。惟宗直本が編纂した養老令の注釈書。私撰の注釈書であるため、令義解』と違い法的な効力は持たない。
元慶官田879陽成天皇の代。畿内5か国に設置された計4000町の官田。有力農民を利用した直営方式を採用し、直接中央の財源とした。
藤原基経の関白就任(初の関白)884光孝天皇の代。天皇を補佐する役職で、藤原良房養子である藤原基経が初めて就任した。応天門の変などの他氏排斥事件により、藤原基経が出世していたことが背景にある。基経が陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を即位させた際、即位助力の見返りに、関白として政治の実権を得られるよう取引していたとも言われる。宇多天皇の代では、基経への関白任命の詔勅に「阿衡」の文字があり、これが阿衡事件(887年)にもつながった。
滝口武者9世紀末宇多天皇の代。蔵人所の下、内裏の警護をしていた武士。背景として、平安京の治安が悪化していたことがあげられる(重税などで盗賊行為が横行し、内裏に侵入することもあった)。内裏の中心的建物である清涼殿近くの「滝口」近くにある渡り廊を詰め所にしていたことから、清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶようになった。平将門も滝口となっていた時期があり、滝口小二郎と名乗っていた。その後、治安の悪化は10世紀以降の武士の反乱としても社会問題となる。
阿衡事件887宇多天皇の代。藤原基経への関白任命の詔勅に「阿衡」の文字がある事に基経が怒り、ストライキを始めた事件。中国の古典では「阿衡」は名ばかりの職であったため、基経はこれに抗議した。宇多天皇は詔勅を撤回し、起草者の橘広相を罷免。広相は抗議するも、「阿衡」の解釈に学者の多くは基経の味方をした(菅原道真は広相を弁護)。事件後、宇多天皇は藤原氏を排斥(菅原道真などを重用)しようとするが、詔勅を撤回させた基経(藤原氏)は権威を高めた
遣唐使派遣の停止894年宇多天皇の代。唐の混乱や日本文化の発達を理由に、菅原道真によって、停止が建議された。完全な中止ではなかったため、その後も情報収集などが続くも、907年の唐の滅亡で、遣唐使は自然消滅した。
昌泰の変901醍醐天皇の代。左大臣藤原時平が、策略により右大臣菅原道真大宰府へ左遷した事件で、藤原氏による他氏排斥事件の一つ。藤原時平は「菅原道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を天皇に擁立しようとしている」と醍醐天皇に報告し、道真と関係者を処罰させた。当時、宇多上皇は、藤原氏の弱体化を狙い、時平(藤原氏)と対立構造になっていた。そんな中で宇多上皇(899年より法皇)の側近である道真を排除し、宇多上皇の影響力を弱める事が狙いだったとされる。
延喜の荘園整理令(記録上最後の班田)902醍醐天皇の代。荘園の新規設置を規制と、不正な寄進を取締り、国家財政の再建を目指したもの。ただし、実効性には乏しかった。また、田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等もあり、この年が記録上は最後の班田となった。
意見封事十二箇条914醍醐天皇の代。学者の三善清行が、醍醐天皇に提出した政治意見書国家財政窮乏の原因と、その対策を述べられている。背景として、当時は偽籍が横行しており、また浮浪・逃亡で持ち主不在となった土地が寺社・有力貴族の荘園となり、それらが中央財源減少の原因となっていた。
押領使10世紀頃日本の律令制下の令外官の一つ。地方警察のようなもので、治安の維持を行った。史料上の初見は795年。本格的に実戦に参加したのは承平天慶の乱の頃。
延喜式927醍醐天皇の代。三代格式の一つで、律令の施行細則をまとめた法典。醍醐天皇に命じられ藤原時平らが編纂を開始。時平の死後は藤原忠平が編纂。905年に開始し、927年に完成。施行は967年。三大格式の中で、唯一ほぼ完全な形で残っているため、古代史研究の上で重要。
追捕使932朱雀天皇の代。日本の律令制下の令外官の一つ。「追い捕らえる」の意で、元は軍事的な役割を含んでいなかったが、海賊の反乱などを鎮圧する目的から、戦闘に参加する事が多かった。1190年に源頼朝が日本国惣追捕使に任命され、諸国の惣追捕使の任免権が鎌倉殿に移り、守護と名を変え、発展していった。
土佐日記934年頃朱雀天皇の代。日本最古の日記文学の一つで、紀貫之土佐からへ帰る55日間の旅路を、冗談を交えて綴ったもの。女性のふりをして書かれており、ほとんどかな文字で書かれている。
平将門の乱935940朱雀天皇の代。関東勢力を拡大した平将門が、受領と地方富豪層の間の調停に積極介入し、そのこじれから国衙と戦となり、「親皇」を名乗った事で、朝廷への叛乱とみなされるに至った戦い。平貞盛が鎮圧にあたった。藤原純友の乱とあわせて、承平天慶の乱と呼ばれる。武士の台頭を示す事件であった。
藤原純友の乱939941朱雀天皇の代。瀬戸内海の海賊の討伐に当たっていた藤原純友が、瀬戸内海の海賊を率いて起こした乱。大宰府、伊予の国府が攻め落とされた。源経基が鎮圧にあたった。平将門の乱とあわせて、承平天慶の乱と呼ばれる。武士の台頭を示す事件であった。
六波羅蜜寺(西光寺)951年(または963年)村上天皇の代。空也が創建し、活動拠点とした寺。現在は真言宗智山派に属している。空也は南無阿弥陀仏」とひたすら唱える称える称名念仏を初めて実践したとされ、浄土教の先駆者ともされる幅広い層(世俗者含む)に念仏信仰を広め、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる空也は超宗派的立場であり、特定の宗派の開祖とはならなかった(親鸞道元も開祖になろうとはしなかったが、結果的に特定の宗派の開祖となっている)。
乾元大宝の鋳造開始958村上天皇の代。皇朝十二銭の一つで、最後に鋳造されたもの。963年に、朝廷発行の最後の貨幣として鋳造を終了。なお、皇朝十二銭は最初(和同開珎(708年)と最後の乾元大宝が入試で出題されやすいため、歴史能力検定2級でもこの二つは覚えておくこと。
安和の変969冷泉天皇の代。藤原氏が左大臣源高明を失脚させた他氏排斥事件。病弱で子供がいなかった冷泉天皇が即位に伴い、皇太子を決める事となったが、その候補が冷泉天皇の弟である為平親王守平親王だった。結果、弟の守平親王が選ばれた(兄の為平親王の叔父は源高明で、関白の藤原実頼が阻止したと思われる)。そんな中で、源高明の謀反が、源満仲らに密告される。源高明が宮中では孤立しつつあったこともあり、疑惑により大宰府へ左遷となった。なお、密告の内容や、源高明が謀反にどう係わったかは不明。事件後、摂政・関白は基本的に常置されるようになった。
往生要集985比叡山の恵心院に隠遁していた源信が、多くの仏教の書物から、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書。極楽往生には、一心に念仏の行を行う事と説き、浄土教の基礎となった。
長徳の変996一条天皇の代。藤原道長の甥で、道長と勢力争いを行っていた藤原伊周が失脚した事件。当時、藤原伊周は藤原為光の三女と付き合っていた。そのタイミングで、花山法皇が藤原為光の四女と近づき女通いを始める。三女と四女は同じ屋敷に住んでいたため、伊周は花山法皇が三女の元へ通っていると勘違いした。伊周が弟に相談した結果、弟とその従者は、法皇の一行を襲って法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまう。花山法皇は、出家の身であったため、女通いを口外しないようにしていたが、噂は道長へと伝わってしまい、これが利用されて伊周は左遷される。これにより、道長と伊周の勢力争いは、道長の勝利となる。
比叡山の円仁派と円珍派の対立が激化10世紀末頃比叡山の輩出した名僧、円仁円珍の派閥に比叡山の僧がわかれて対立が激化した。円珍派は山下して延暦寺の別院、園城寺に入り独立。以後、延暦寺の円仁派は山門(山門派)、園城寺の円珍派は寺門(寺門派)と呼ばれる。対立は武装化した僧兵を生み、後に白河法皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている(山は比叡山の事)。武力を備えた事は、強訴のきっかけにもなり、白河法皇の北面の武士創設(11世紀末)にもつながった。
日宋貿易1013世紀日本とで行われた貿易。平安時代の中期から鎌倉時代の中期に行われたが、日宋間での公的な国交は無かった。清盛は、貿易活性化のため、12世紀後半に現在の神戸市に大輪田泊という港を整備した。この交易により宋銭が流入したことで、貨幣経済の発展に至った。
枕草子
1001年頃一条天皇の代。中宮定子に仕えた清少納言が執筆した随筆で、知性的な「をかし」の文学。簡潔な文体で、現代日本人にも読みやすい内容。ちなみに、清少納言は紫式部からは酷評されている(理由には諸説ある)。
源氏物語1008年頃一条天皇の代。中宮彰子に仕えた紫式部が執筆した長編小説で、心情的な「もののあはれ」の文学。長く読まれ続け、諸外国にも少なからず影響し、文学以外の芸術にも影響した。余談だが、平安時代には架空の物語を作る行為は仏教における五戒の1つ「不妄語戒」に反するとされ、紫式部は地獄に堕ちたと考えられた。また、架空の物語の読者も五戒に反するとされ、紫式部の霊を慰め、読者の罪障を消すため『源氏供養』の法会が度々行われた。
北山抄10121023藤原公任による私撰の儀式書。各巻ごとに成立の事情が異なり、1冊の書物として成立したのは1012~1023年頃とされる。
藤原道長が摂政に任命される1016後一条天皇(母は藤原彰子)の代。藤原氏の全盛時代。藤原道長一条天皇藤原彰子を嫁がせ、その子、後一条天皇を天皇に即位させることで、力を付けて実現した。また、一条天皇以外に、三条天皇、後一条天皇にも娘を嫁がせた(「一家立三后」と呼ばれる)。更に、摂政に任命され1年ほどで、摂政を頼通に譲り、後継体制を固めた。しかし、頼通が天皇に嫁がせた娘から男子が生まれず、藤原氏と血縁関係のない後三条天皇の即位(1068年)により、藤原氏は衰退していった。
刀伊の入寇1019後一条天皇(母は藤原彰子)の代。藤原氏の全盛時代。大陸北部の女真族の一派とみられる集団を主体とした海賊「刀伊」が、朝鮮半島づたいに南下し、壱岐対馬九州に侵攻した事件。大宰権帥藤原隆家らが撃退するも、記録では日本人365人が殺害され、1289人が拉致されたとされる。この件に対し、朝廷はほぼ対応できず、対応は現地で行われたことから、朝廷の地方統治の杜撰さを露呈したとも評価される。後に高麗の水軍も刀伊を撃退し、その際には日本人300人ほどが返還された。なお、事件については藤原実資の日記「小右記にも記されている。
平忠常の乱1028後一条天皇(母は藤原彰子)の代。藤原氏の全盛時代。房総三カ国(上総国下総国安房国)で起こった反乱で、平将門の乱以来の大規模な反乱。忠常は、上総国、下総国、常陸国の広範囲の領地を持ち、国司に税を納めない等、横暴な態度をとっていた。1028年、忠常は安房国の国府を襲って安房守を焼き殺し、更には上総国の国衙を占領、上総国の国人は乱に加担し、事態は房総三カ国に広がった。朝廷は3年経っても鎮圧できなかったが、有力武士の源頼信が追討使に起用されたことで、忠常は戦わず出頭した。乱の後、平氏の多くが頼信の配下となり、東国における源氏勢力拡大につながった。
前九年の役10511062後冷泉天皇の代。藤原氏の全盛時代。陸奥国の有力豪族、安倍氏半独立的な勢力を形成し、朝廷への納税を怠る状態であったため始まった戦い。当初は安倍氏が勝利するも、長期戦となり、源頼義出羽の豪族清原氏が助け、阿部氏を討伐した。背景として、武士の台頭がある。
末法思想が広まる1052年頃~後冷泉天皇の代。藤原氏の全盛時代。釈迦の死後、悟りに至れる人がいなくなり、1500年後(または2000年後)には正しい教えが全く行われない時代が来るとする考え方。日本では1052年が末法元年とされ、人々は恐れた。また、武士の台頭に伴う治安の乱れ、仏教界の退廃は、社会情勢と末法の世のイメージを一致させたため、更に不安を煽った。結果、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生し、成仏することを説く浄土思想の流行につながった。
平等院1053後冷泉天皇の代。藤原氏の全盛時代。藤原頼通によって創建された。翌年には西方極楽浄土をイメージして阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立されたとされる。本尊は阿弥陀如来。現在は特定の宗派に属していない。
寄進地系荘園11世紀後半荘園の保有者が、朝廷に影響力を持つ有力者に保護してもらう形で、国司受領)からの租税を免れるために成立した荘園。有力者に土地を寄進することで、国司から手を出されないようにして実現した。その代償として有力者には、名義貸し料を納めた。なお、田畑の開発を通して領地を確保するものを「開発領主」と呼び、開発領主は、その所領を寄進して荘園としていったが、この際に国司よりも権威のある有力者に寄進する事で、寄進地系荘園とした。また、開発領主は寄進先の荘園領主から現地管理を任される立場(荘官)となる事も多かった

平安時代の文化・芸術関連

平安時代(末期も含む)の文化・芸術などを、過去問で出題された用語を中心にまとめます。

主な大学別曹

  • 弘文院:平安時代初期、平安京に建てられた和気氏の大学別曹とされるもの(異論もある)。
  • 勧学院:821年、藤原冬嗣が創建した藤原氏の大学別曽
  • 学館院:847年に創建された橘氏の大学別曹
  • 奨学院:881年に在原行平が創設した在原氏や皇族の大学別曹

なお、大学別曹とは大学寮の付属機関のことで、大学寮は式部省(現在の人事院)直轄下の官僚育成機関。ただし、大学別曹の事実上の運営は、設置した氏族に属した。

主な建築物

  • 延暦寺:788年に最澄が開いた天台宗の本山寺院なお、最澄が還学生として唐の天台山へ向かったのは804年。後に、源信、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮なども修行した。
  • 東寺(教王護国寺):796年、平安京内に創建された真言宗総本山寺院嵯峨天皇は、東寺を空海に与え、密教の保護を行った。
  • 金剛峯寺:816年、高野山真言宗の総本山で空海が嵯峨天皇より賜った寺院。
  • 六波羅蜜寺(西光寺):951年(または963年)に空也が創建し、活動拠点とした寺。鎌倉時代に作られた空也上人像で有名。
  • 法界寺阿弥陀堂:1050年頃、藤原氏の一族である日野家の氏寺として建てられた阿弥陀堂
  • 平等院鳳凰堂1053年、藤原頼通が建立した阿弥陀堂和様建築の代表例。
  • 富貴寺大堂大分県にある平安末期頃に建てられた阿弥陀堂近畿地方以外に現存する数少ない平安建築の一つ
  • 白水阿弥陀堂:1160年福島県いわき市内に建立された阿弥陀堂
  • 蓮華王院本堂:1165年、後白河法皇が建立した寺院。三十三間堂の名前で知られる。和様建築の代表例。
  • 東大寺(再建):平重衡による南都焼討で壊滅的な打撃を受けたため僧の重源(ちょうげん)が、大仏様で再建した。大仏殿が完成したのは1195年。

なお、阿弥陀堂とは、阿弥陀如来本尊とする仏堂で、浄土信仰が流行った事に伴い、国風文化期に多く建てられた

平安時代の文学・歴史書など

  • 日本霊異記:822年頃成立(諸説あり)とされる説話集。正式名称は日本国現報善悪霊異記』であり、善悪に関する説話には「仏法を軽んじると恐ろしい目にあう」といった内容が見られる。
  • 類聚国史:892年に完成した歴史書で、編纂者は菅原道真。六国史の内容を分類してまとめている(全18部門)。
  • 竹取物語:10世紀初め頃に成立したとされる現存する中では日本最古の物語
  • 伊勢物語:900年前後~900年代中頃に成立したとされる歌物語。在原業平を主人公にしたとされる
  • 往生要集:985年、源信による極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書。浄土教の基礎となった。
  • 源氏物語:平安時代中期に成立したと考えられる長編物語(文献初出は1008年)。作者は紫式部で、中宮彰子(藤原道長の長女)に仕えた
  • 扶桑略記:1094年以降に編纂されたもので、私撰歴史書であると共に、総合的な日本仏教文化史。司馬達等という渡来人が、私宅で仏像を礼拝していた記録がある。
  • 今昔物語集:平安時代末期の院政期に成立したと考えられる説話集。幅広い階層の人物が描かれている。

平安時代の日記文学

  • 土佐日記:934年後半頃に成立したとされる日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る過程を記している。
  • 蜻蛉日記954~974年の出来事が書かれた日記文学。作者は藤原道綱の母
  • 小右記:藤原実資の日記で、982~1032年の部分が現存。藤原道長・頼通全盛時代における社会・政治・宮廷儀式・故実などが詳細に書かれており、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と藤原道長が詠んだことが記されている。なお、道長は飽食の為に、日本の記録に残る最古の糖尿病患者とされる。
  • 御堂関白記藤原道長が著した日記998~1021年の間の記事が現存している。
  • 枕草子:1001年頃に完成した随筆。作者は中宮定子に仕えていた清少納言知性的な「をかし」の文学。
  • 紫式部日記:1008~1010年の間の出来事が、宮中の様子を中心に書かれたもので、日記と手紙からなる。作者は紫式部。
  • 更級日記:1060年頃に菅原孝標の次女(本名不明)が書いた回想録。平安時代の中流貴族の生活や、女性の生き方が記されている。
  • 大乗院日記目録:1065〜1504年(平安後期~戦国時代頃)の出来事が記された日記類を編集した書物。正長の徳政一揆に関する記録が残されている。
  • 中右記:1087~1138年に書かれた日記。作者は藤原宗忠。院政の開始に関する記述も見られ、当時の政治社会情勢や有職故実、人物像を知る上で重要な資料。
  • 玉葉:1164~1200年(平安末期~鎌倉時代)の出来事が記された九条兼実の日記。守護・地頭の設置に関する記述がある。

その他芸術関連

  • 三筆:一般に、平安時代初期に活躍した空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3名をさす言葉
  • 三蹟:平安時代中期に活躍した小野道風、藤原佐理、藤原行成の3名の能書家のこと。
  • (教王護国寺講堂)不動明王像:弘仁・貞観文化の作品で、密教の影響を受けた仏像。
  • 観心寺如意輪観音坐像:弘仁・貞観文化の作品で、密教の影響を受けた仏像。
  • 高野山聖衆来迎図:平安時代後期の作品。極楽浄土への往生を願う念仏者の元へ、阿弥陀如来が来迎した情景を描いたもの。なお、国風文化の仏教絵画では来迎図がよく描かれた
  • 鳥獣戯画:12~13世紀(平安時代末~鎌倉時代初期)にかけて、複数の作者によって描かれた。当時の世相を動物や人物を使って戯画的に描いている。

なお、平安時代前期(ほぼ9世紀に相当)の文化を「弘仁・貞観文化」と呼ぶ。弘仁・貞観文化は、晩唐文化の影響がみられる貴族文化であり、密教の影響が濃い仏教文化でもある。

また、平安時代中期から摂関政治期(10~11世紀頃)を中心とする文化を「国風文化」と呼ぶ。従来の唐風に対して、美しい色彩ややわらかく穏やかな造形の組み合わせによる日本的な美が意識され、仏教では末法思想を背景に浄土信仰が流行した。

参考にしたサイト

この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。

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9月 25, 2023歴史能力検定(日本史2級)