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【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト⑪ 江戸時代後期

歴史能力検定(日本史2級)

この記事では、歴史能力検定2級(日本史)の江戸時代後期(主に大問3の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです。また、わかりやすさの為、江戸時代後期以外の内容も一部掲載しています)。

実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用ください。

記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。

可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。

また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。

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歴史能力検定2級(日本史)の知識【主に江戸時代後期】

この記事では、「江戸時代後期」について、1793~1853年頃(大御所政治~ペリー来航まで)と定義してまとめます。なお、分かりやすさの関係で、「江戸時代後期」ではない部分も若干含みます。

出来事・用語年代内容
ラクスマンの来航179211代将軍、徳川家斉の代。日本人漂流民の送還と通商を求めて、ロシア人のラクスマンが根室に上陸する。これに対し、漂流民は受け取るものの、老中の松平定信は即時の通商開始を拒絶し、どうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを松前藩に指示。ラクスマンは長崎への入港許可証を渡されるが、長崎へ向かわず帰国する。ラクスマンが受け取った長崎への入港許可証は、後にロシア側の正式な大使としてレザノフが所持して長崎に来航するが、レザノフは半年間実質的に幽閉され、通商も認められなかった(これが文化露寇(1806年)につながる)。
ハルマ和解179611代将軍、徳川家斉の代。蘭学者の稲村三伯を中心に作られた日本最初の蘭和辞典。以前より蘭和辞典作成の試みはあったが、膨大な作業量のため未完に終わっていた。三伯は蘭仏辞書(1729年出版)を日本語訳する手法で編纂に取り組み、とくに作業量が膨大だったオランダ語の単語をABC順に並べる手間を回避した。
大日本恵登呂府1798180011代将軍、徳川家斉の代。探検家の近藤重蔵らによる2度にわたる択捉島探査で立てた標柱。当時、ロシア人が度々の北方の島に進出してきており、幕府はロシアの南下の状況の調査と、国防など観点から近藤重蔵らを派遣。日本の領土を示す標柱を立てた。
問屋制家内工業19世紀初頭商人から原材料の前貸ししてもらい、自宅で製造を行う製造形態。農民の副業として発達した。
レザノフが長崎出島に来航する180411代将軍、徳川家斉の代。1792年に来航したラクスマンが受け取った入稿許可証を持ち、ロシア側の正式な大使、レザノフが長崎に来航する。レザノフたちは半年間出島近くに留め置かれるが、通商を拒否される。
関東取締出役180511代将軍、徳川家斉の代。勘定奉行配下の役職で、広域的な治安の維持や犯罪の取り締まりを行った。背景として、江戸時代後期は無宿人や浪人が増加して治安が悪化してこと、また、藩や幕府などの領地を超え広域的に取り締まる役職が必要だったことが上げられる。
文化の薪水給与令180611代将軍、徳川家斉の代。外国船に水・燃料などの給与を認め、穏便に出国してもらうことを狙った法令。19世紀以降、外国船が日本に来航し、通商を求めていたことから作られた。しかし、文化露寇(1806年)でロシア側から日本側の北方拠点を攻撃されたことから、翌年には撤回。1808年のフェートン号事件もあり、1825年には異国船打払令が発令された。
松前奉行180711代将軍、徳川家斉の代。蝦夷地の支配を行った幕府の役職西蝦夷地を直轄地としたことに伴い、箱館奉行を改称する形で作られた。1822年に蝦夷地が松前藩に返された際に廃止されるが、1856年に箱館奉行の名称で復活。
フェートン号事件180811代将軍、徳川家斉の代。長崎港に、当時オランダと敵対関係のイギリス軍艦フェートン号が侵し、オランダ商館員を人質に、薪、水、食料を要求した事件。当時、オランダはナポレオン戦争でフランスの属国となっていた。また、フランスとイギリスは対立し、イギリスは東アジア貿易の独占を狙っていた。この事件は1825年の異国船打払令の発令につながる。
ゴローニン事件181111代将軍、徳川家斉の代。ロシア軍艦艦長、ゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月の間、日本に抑留された事件。背景に、文化露寇(正式の入港許可証を持ち、1804年に通商を求めたレザノフが、日本に拒絶されたため、1806年に日本へ独断の武力行使をした事件)と、その結果でロシア船内払令(1807年)が発令されたことがある。日本人との交換でゴローニンは釈放。後に、ゴローニンが記した『日本幽囚記は、日本文化などが海外に広まるきっかけとなった。
大日本沿海輿地全図182111代将軍、徳川家斉の代。幕府の事業として伊能忠敬を中心に作られた日本全土の実測地図。当時、ロシア南下の脅威に備え、幕府は蝦夷地海岸線の防備を増強する必要があった。忠敬は幕府の許可を得て、蝦夷地域の測量を兼ね、更に往復の北関東・東北地方を測量し、子午線1度の測定を行った。幕府としては、ロシアを始めとした西洋の艦隊に対策するために利益があり、忠敬としては、緯度1度に相当する子午線弧長を正確に測定したいという目標があった。測量は最終的に第10回まで行われ、範囲は日本全土に至る。忠敬の死(1818年)後、弟子が作業を継続して完成。「大日本沿海実測録(全国の主要地点の地名や緯度を収録したもの)」と共に、幕府へ提出された。
異国船打払令182511代将軍、徳川家斉の代。当時貿易をしていたオランダ・清以外の外国船が、日本沿岸に来航した場合に砲撃することを命じた法令文化露寇フェートン号事件大津浜事件宝島事件など、外国船によるトラブルが連続していたことが背景にある。また、水戸の漁民が、欧米の捕鯨船と物々交換を行っていたため、そういった外国人との交流を断つ目的もあったとされる。後の「モリソン号事件」や「アヘン戦争」が影響し、1843年には「天保の薪水給与令」が発令された。
寄場組合182711代将軍、徳川家斉の代。農村秩序の維持の為、幕領・私領に関わらず近隣の村々を組み合わせ、治安維持・風俗の取締にあたらせたもの。背景として、貨幣経済の浸透により格差が増大し、土地を失った農民の離村による村の荒廃、没落農民による治安の悪化が起きていた事が上げられる。同様に、幕領・私領に関わらず治安維持に当たった組織としては関東取締出役(1805年)があり、その補佐として活動した。
シーボルト事件182811代将軍、徳川家斉の代。幕府の天文方・書物奉行の高橋景保に、シーボルトが『世界周航記』を贈ったお返しに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った事件。当時、地図は禁制品であり、高橋景保含む十数名が処分され、景保は獄死した。翌1829年、シーボルトは国外追放処分となるが、日蘭修好通商条約(1858年)締結で追放は解除となる。1859年、シーボルトは長男アレクサンダーと共に来日し、幕府の外交顧問となった。
薩摩藩の天保改革1828184811代将軍、徳川家斉~12代将軍、徳川家慶調所広郷を中心として行われた藩政改革。藩財政の再建のため、藩の借金500万両を250年無利子で支払いとし、事実上、藩の負債を帳消しにした。更に、当時薩摩藩が独占していた砂糖について、増産を行うとともに厳しい取り締まりによる専売制として莫大な利益を上げた。
工場制手工業1830年頃~天保年間(1830~1843年)から広まった地主・商人などが工場を作り、労働者を集めて賃金を払って働かせる形式の製造形態。製造の各工程を分業させることで、効率化を図った。問屋制家内工業の次に広まる。
天保の大飢饉1833183911代将軍、徳川家斉の代。江戸四大飢饉の一つ。春~夏頃に、西国以外の地域で冷害が発生し、東北・北関東で不作となり、大飢饉に至った。この飢饉が、大塩平八郎の乱の原因にもなった。
世直し一揆の始まり加茂一揆と郡内騒動)1836年頃~三河国加茂郡の「加茂一揆」や甲斐国郡内地方の「郡内騒動」など、打ちこわしを伴い、世直しを要求する一揆が起こる。背景として、天保の飢饉に伴う米価高騰の影響があるその後、世直し一揆は、江戸後期~明治初期に多発するようになっていく。
大塩平八郎の乱183711代将軍、徳川家斉の代。大阪町奉行所の元与力、大塩平八郎らが起こした反乱。1833年の天保の大飢饉で、多くの餓死者が発生する中、大塩は私財を売却し救済に当たっていた。しかしこれを奉行所は「売名行為」とし、更に大塩が奉行所に提出した救済案を却下。大坂町奉行は、大阪の米を徳川家慶の将軍就任の儀式のため江戸へ廻送した。更に豪商による米の買い占めも発生し、大阪で決起に至った。決起は半日で鎮圧されるも、元与力が反乱を起こしたことは多方面へ影響し、各地で一揆や打ちこわしが相次いだ(生田万の乱など)。
モリソン号事件183712代将軍、徳川家慶の代。日本の漂流民を乗せたアメリカのモリソン号が、イギリスの軍艦と勘違いされ、浦賀や薩摩で砲撃を受け、帰港した事件。浦賀の大砲は殆どモリソン号に届かず、防備の脆弱性が露わとなった。また、一年後にはモリソン号が日本人送還も目的としていたことが判明。この事も幕府への批判へつながった。批判は「蛮社の獄」のきっかけにもなり、また「天保の薪水給与令」へとつながり、鎖国終了へと向かった。
長州藩の天保の改革18381849年頃12代将軍、徳川家慶の代。村田清風を中心とした藩政改革。藩の抱える借金については「三七ヵ年賦皆済仕法」により毎年3%、37年支払う事で完済とし、また特産物である蝋の専売制を緩和する代わり、商人に運上銀を課税することで税収を得た。
蛮社の獄183912代将軍、徳川家慶の代。モリソン号事件と江戸幕府の対外政策を批判したため、高野長英渡辺崋山などが捕らえられ、罰を受けた言論弾圧事件。長英は匿名で『戊戌夢物語』を書き、崋山は『慎機論』を書いて、それぞれ幕府の鎖国政策・モリソン号事件を非難した。処罰した幕府側だが、モリソン号事件以降の批判と、アヘン戦争に影響され、1843年には「天保の薪水給与令」を発令した。
アヘン戦争1840184212代将軍、徳川家慶の代。イギリスと清の間で起こった戦争。イギリスは清から紅茶を輸入し、貿易赤字が発生していた。そこでインドで栽培したアヘンを清に売るという三角貿易を始めた。これに対し、清がアヘンの取り締まりを行ったため、戦争が発生した。清は敗北し、イギリスと「南京条約」を結ぶ。日本が「異国船打払令」を解除するきっかけにもなった。
天保の改革184112代将軍、徳川家慶の代。享保の改革寛政の改革と並ぶ、江戸の三大改革で、中心人物は老中の水野忠邦。当時、天保の大飢饉大塩平八郎の乱アヘン戦争モリソン号事件などで、幕府が揺らいでいた。更に11代将軍、徳川家斉の大御所時代に幕府財政は破綻に向かっていた。忠邦は、その状況を改善する為、賄賂を取り締まる人事改革、農業重視の経済改革、外国船対策の軍事改革、風紀の取り締まりを行った。具体的には、人返し令株仲間解散令上知令相対済令享保の改革のものが有名)の公布などが行われた。芝居小屋の江戸郊外への移転、寄席の閉鎖、歌舞伎への弾圧など、庶民の娯楽にも影響が出た。
株仲間解散令184112代将軍、徳川家慶の代。水野忠邦天保の改革の一環。享保期以来行われた株仲間を介した物価・流通の統制システムを解体し、商品流通の自由を保証した。また、市場の価格調査も行われ、価格表示や価格引き下げが強制的に実施された。問屋株仲間による流通の独占が、物価の騰貴につながっていると考えた幕府は、自由化によって物価を引き下げることを狙った。しかし、株仲間の解散では解決にならず、反対に流通の混乱につながったと当時は認識された。一方、近年は発令直後の市場は混乱したものの、長期的には規制緩和につながり、地方の商品が中央市場に多く流入することにつながったとも評価される。
上知令184212代将軍、徳川家慶の代。水野忠邦天保の改革の一環大名・旗本の持つ江戸・大阪の周辺の高い収穫高が見込める土地と、幕府の年貢収入が少ない土地を交換させ、幕府の収入を上げようとした政策。また、主要な土地を直轄地にすることで、外国に対する警備強化を狙った。しかし、大名・旗本の反発が大きく、水野の上知令は実行されなかった。なお、上知令というと、一般に天保の改革の上知令をさすが、他にも上知令は存在し、明治政府からは寺院・神社に対して2度の上知令が出されている。
天保の薪水給与令184212代将軍、徳川家慶の代。異国船打払令を撤回し、遭難船に限り飲料水・燃料の給与を認める法令モリソン号事件から高まっていた対外政策への批判と、アヘン戦争が影響して、幕府が行った対外政策の転換の一つ。
人返しの法184312代将軍、徳川家慶の代。水野忠邦天保の改革の一環江戸に流入し、没落した農民を送り返し、江戸の人口減少と、地方の農村人口の増加を目的とした法令。天保の飢饉も発令のきっかけとなっている。同様の政策で、松平定信寛政の改革の一環で出された旧里帰農令(1790年)と類似しているが、旧里帰農令には強制力がなかった。
将軍継嗣問題1847185812代将軍、徳川家慶~13代将軍、徳川家定の代。徳川家定の跡継ぎ争いで、紀州藩主の徳川慶福(井伊直弼などが支持)と一橋家の一橋慶喜(雄藩の藩主などが支持)が争った。井伊直弼が大老に就任したことで決着し、徳川慶福が14代将軍徳川家茂となった。しかし、その後も井伊直弼は一橋派を弾圧し、桜田門外の変(1860年)で暗殺された。
公武合体1850年代-1860年代頃朝廷と幕府・諸藩を結びつけ、幕藩体制の再編をはかろうとした政策。幕府は、日米修好通商条約の調印で悪化した朝廷との関係を回復させ、権威を強化する目的があった。また、薩摩藩などは、朝幕の連携にあわせ、有力諸藩も含む挙国一致体制を目指した。具体的な対応として、孝明天皇の妹、和宮と14代将軍、徳川家茂の結婚が行われた。しかし、これが尊王攘夷派を刺激してしまい、結婚を進めた安藤信正は水戸浪士に襲われ(坂下門外の変、1862年)失脚。また、公武合体派の薩摩藩と、尊王攘夷派の長州藩の対立は「八月十八日の政変(1863年)」にも影響した。
集成館事業1851年~12代将軍、徳川家慶の代。薩摩藩の島津斉彬が起こした近代的西洋式工場群をつくる事業。これによって作られた工場群を「集成館」と呼び、反射炉やガラス製造所などが建設され、殖産興業政策が推し進められ、日本の近代化に貢献した。
日米和親条約185413代将軍、徳川家定の代。アメリカに対し下田・箱館の2港を開港し、下田に領事を置くことが規定された(通商は拒否した)。アヘン戦争で清が植民地化しつつある状況も、締結に影響した。日本側全権は林復斎、アメリカ側全権はペリーこの条約により鎖国が終了した。

江戸時代の学問関連

ここでは、学者としての側面が問われやすい江戸時代の人物・施設についてまとめます。

  • 中江藤樹:江戸前期の陽明学者で、日本における陽明学の祖熊沢蕃山の師
  • 熊沢蕃山:江戸前期の陽明学者。岡山藩主の池田光正に仕え、藩政の刷新に尽力。『大学或問』を著した。中江藤樹の弟子
  • 藤原惺窩:江戸時代前期の儒者で、京学の祖として知られる朱子学者。慶長の役で捕虜として日本に連れてこられた朝鮮の儒者、姜沆と親交したでも有名林羅山、松永尺五の師
  • 林羅山:江戸前期の京学派の儒者。徳川家康から家綱までの4代の将軍に仕え、朱子学の発展に貢献した。藤原惺窩の弟子
  • 松永尺五:江戸前期の京学派の儒者。幕府や藩に対して仕官はせず、私塾を設営し、多くの弟子を育成した。藤原惺窩の弟子
  • 木下順庵:江戸前期の京学派の儒者。5代将軍、徳川綱吉の侍講をつとめた。松永尺五の弟子で、雨林芳洲、新井白石、室鳩巣の師にあたる。
  • 新井白石:江戸中期の京学派の儒者6代将軍、徳川家宣~7代将軍・徳川家継に仕え、正徳の治で幕政に貢献。8代将軍、徳川吉宗の代で失脚してからは著述活動に集中し、諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』と『読史余論』、古代史に関する『古史通』、シドッチを訊問して得た知識をまとめた『西洋紀聞』などを著した。木下順庵の弟子
  • 雨林芳洲:江戸中期の京学派の儒者。対馬藩に仕え、朝鮮との外交を担当し、朝鮮通信使の待遇簡素化などの措置を批判した。木下順庵の弟子
  • 室鳩巣:江戸中期の京学派の儒者。6代~8代までの徳川家宣、家継、吉宗に仕え。吉宗の時期には享保の改革を補佐た。木下順庵の弟子
  • 青木昆陽:江戸中期の儒者。8代将軍、徳川吉宗の享保の改革で、甘藷の普及に貢献した。
  • 山鹿素行:江戸前期の古学派の儒者。当初は朱子学者であり、『聖教要録』などを著したが、後に朱子学に批判的になり、古学派となる。伊藤仁斎と共に古学古義学)の祖とされる。
  • 伊藤仁斎:江戸前期の古学派の儒者。当初は朱子学者であったが、後に朱子学を批判し、古学派となる。山鹿素行と共に古学古義学)の祖とされる。
  • 荻生徂徠:江戸中期の古学派の儒者。8代将軍、徳川吉宗や柳沢吉保に政治的助言を与えた。また、『政談』を著した。太宰春台の師
  • 太宰春台:江戸中期の古学派儒者。経世家として有名。『経済録』を著した。荻生徂徠の弟子
  • 谷時中:江戸前期の南学派儒学。南学派の実質的な祖野中兼山の師
  • 野中兼山:江戸前期の南学派儒者。土佐藩の家老で、産業の振興、新田の開発、港の整備などで活躍。谷時中の弟子
  • 柴野栗山:江戸中期の儒者。寛政異学の禁に伴い登用された儒官。寛政の三博士の一人
  • 尾藤二洲:江戸中期の儒者。寛政異学の禁に伴い登用された儒官。寛政の三博士の一人
  • 林子平:江戸後期の経世家。『三国通覧図説』『海国兵談』を著したため、寛政の改革で処罰を受けた。

その他の学問関連の人物

  • 契沖:江戸中期の国学者『万葉集』を研究し、『万葉代匠記』を著した。
  • 本居宣長:江戸中期国学者『古事記』に対する注釈書である『古事記伝』を著した。
  • 宮崎安貞江戸前期の農学者。農書である農政全書』を著した。
  • 貝原益軒:江戸前期本草学者。本草書である大和本草』を著した。江戸前期の京学派の儒者の弟子でもある。
  • 稲生若水:江戸前期の本草学者。博物書である庶物類纂』を著した。
  • 宇田川玄随:江戸中期の蘭学医。西洋の内科書を訳した『西説内科撰要』を著した。
  • 杉田玄白:江戸中期~後期の蘭学医。前野良沢が翻訳を行い、解剖学書の『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳した書物『解体新書』を著した。
  • 伊能忠敬江戸中期~後期の測量家。『大日本沿海輿地全図』の制作に貢献するも、完成前に没した。また、実家は九十九里浜の鰯漁の網元。九十九里浜では千曳網を用いて鰯をとり、干鰯に加工して肥料として売っていた。
  • 渋川春海:江戸前期の天文学者。従来の暦を観測によって修正し、日本独自の貞享歴をつくった。
  • 関孝和:江戸前期の和算家。発微算法』を著し、代数の計算法を発明した。
  • 吉田光由:江戸前期の和算家。基礎から実用、専門的なものまで含めた数学書『塵劫記』を著した。
  • 徳川光圀:御三家の水戸徳川家当主、1657年から『大日本史』の編纂に着手した。光圀の死後も水戸藩の事業として継続され、明治時代に完成した。

学問関連の施設

  • 湯島聖堂5代将軍、徳川綱吉が建てた孔子廟で、後に幕府直轄の学問所となった。寛政の改革では、湯島聖堂の学問所で、朱子学以外の講義と研究が禁じられた。
  • 興譲館:江戸前期に作られた米沢藩の藩校。
  • 時習館:江戸中期に作られた熊本藩の藩校。
  • 造士館:江戸後期に作られた鹿児島の藩校
  • 明徳館:江戸後期に作られた秋田藩の藩校。なお、同名の物が三河国の奥殿藩にもある。
  • 懐徳堂:江戸中期に大阪町人の出資を得て、大阪に設立された学塾富永仲基山片蟠桃らが学んだ。
  • 芝蘭堂:江戸後期に大槻玄沢の開いた蘭学塾
  • 適々斎塾:江戸後期に緒方洪庵が開いた蘭学塾。「適塾」「適々塾」とも呼ばれる。
  • 寺子屋:江戸時代中期以降に広まった学問施設。卒業時期や修学期間も決まっておらず、読み・書き・そろばんの他、実生活に必要とされる学問などを教えた。

なお、上記以外の有名な藩校として、会津藩の「日新館」、水戸藩の「弘道館」、紀州藩の「学習館」、岡山藩の「閑谷学校」、長州藩の「明倫館」があります(ただし、2016~2022年の過去問では、選択肢でこれらの藩校が登場した問題は確認できませんでした)。

参考にしたサイト

この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。

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