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【歴史能力検定2級(日本史)】WEBテキスト⑩ 江戸時代中期

11月 14, 2023歴史能力検定(日本史2級)

この記事では、歴史能力検定2級(日本史)の江戸時代中期(主に大問3の範囲)の知識を中心にまとめました(実質、自分の勉強ノートです。また、わかりやすさの為、江戸時代中期以外の内容も一部掲載しています)。

実際に出題されたレベルと、その基礎となる用語を中心に解説しているため出題範囲のカバー率は高めだと思いますが、試験範囲を網羅はしていません「試験知識の基礎作り」「本番レベルの知識試し」「試験勉強の仕上げ」などにご活用ください。

記載内容は3級用WEBテキストから流用をしていますが、2級の出題レベルでは出題されなさそうな知識の一部は割愛しています。高校日本史の学習を全くやったことが無い場合は、より基礎のレベルからの学習を検討してもいいでしょう。

可能であれば実際に一度過去問を解いて、出題形式や傾向を掴むことをおすすめします。

また、間違いなどあればご指摘いただけますと幸いです。

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歴史能力検定2級(日本史)の知識【主に江戸時代中期】

この記事では、「江戸時代中期」について、武断政治から文治政治に移り変わっていった1709~1793年頃(正徳の治~寛政の改革頃。大御所政治より前)と定義してまとめます。なお、分かりやすさの関係で、「江戸時代中期」ではない部分も若干含みます。

出来事・用語年代内容
正徳の治170917166代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継のもと、侍講新井白石と側用人間部詮房が進めた文治政治。荻原重秀の元禄小判で発生していたインフレ(実際には大したことは無かったとの説もある)を抑えるため、良貨政策を行った(成否については、意見が分かれる)。良貨政策は、新井白石が罷免された後も吉宗が引き継いだ。また、正徳の治では貿易制限も行われ、海舶互市新例により国際貿易を制限。これにより、密貿易の防止や、銅の輸出抑制による貨幣価値安定が目指されたとされる。その他、閑院宮家の創設や、生類憐みの令の廃止朝鮮通信使の経費削減なども行われた。なお、朝鮮通信使の経費削減をしたことは、対馬藩に仕えて朝鮮との外交を行っていた雨森芳洲(新井白石と同じく京学派の木下順庵の弟子)に批難された。なお京学派の系譜に関わる出題は、歴史能力検定2級で度々出題されているため「藤原惺窩→松永尺五→木下順庵→新井白石(と室鳩巣と雨森芳洲)」の順は覚えた方が無難。
閑院宮家(かんいんのみやけ)17106代将軍、徳川家宣の代。新井白石による「正徳の治」の一環。白石が皇統を維持する目的で設立された第四の世襲親王家。残りの世襲親王家は、伏見宮・桂宮・有栖川宮である。当時、文治主義への転換に際し、礼儀による秩序を維持する目的で、朝幕関係の改善が行われており、幕府の費用で閑院宮家の創設に至った。また、この時期に朝廷儀式の再興も行われた。なお、仁孝天皇以来、閑院宮の血統が現在の皇室までの皇統として続いている。
海舶互市新例17157代将軍、徳川家継の代。新井白石による「正徳の治」の一環。輸出銅の不足によるトラブル解消のため、国際貿易額を制限するために制定した。また、密貿易取り締まりのため、信牌(通商許可証)の発給をした。実際の目的は、銅の輸出抑制により貨幣価値を安定させること、密貿易の防止、貿易から農業への回帰だったとされる。
享保の改革17161745年頃8代将軍、徳川吉宗の代。吉宗の幕政改革であり、寛政の改革(1787~1793年)・天保の改革(1841~1843年)に並ぶ三大改革の1つ。主な内容は、公事方御定書上米の制相対済令新田開発の奨励、漢訳洋書輸入の禁の緩和など。また、年貢の徴収が、検見法(年毎の収穫高に応じる)から定免法(10年または20年の平均収穫高に応じる)へ変更された。改革によって幕府財政は安定し、とくに終盤で勘定奉行に就任した神尾春央は徹底した税の増収を図り、江戸時代最高の収税石高となった。一方、改革により農民負担が増加(五公五民になった上、定免法で凶作時の負担増加)したことは反感を買い、人口の伸びもストップした。また一部では実社会と逆行する政策も見られた。
相対済令17198代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環金銀貸借関係の訴訟(金公事)を当事者間で解決(相対)させる事を命じた法令。背景として、武士と札差の間での金銭トラブルが多発していた(民事裁判のほとんどがこれだった)ことで、裁判が停滞していたことが上げられる。発令後、借金を踏み倒す事案が多発し、相対済令は廃止された。
目安箱17218代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環。庶民の意見を投書してもらうことで、政策立案や社会情勢の調査に役立てるため設置した箱とされる。これにより、町火消や小石川養生所や整備された。しかし、箱を設置した実際の目的は、政治・役人への批判を役所の前に捨てる「捨て文」対策であり、庶民のガス抜きや、役人による統制に利用された。そのため投書のほとんどは無視されていった。ちなみに、過去にも同様の意見募集を行う制度はあったが、「目安箱」というと一般に享保の改革で設置されたものを指す。
小石川養生所17228代将軍、徳川吉宗の代。江戸に設置された無料の医療施設。幕末まで貧民救済施設として機能した。明治政府の漢方医廃止の方針によって閉鎖され、1877年に東京帝国大学に払い下げられ、理学部に組み込まれた。なお、設立には目安箱の投書が影響している。
上米の制17228代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環領地1万石につき100石を納める代わりに、参勤交代で江戸に滞在する期間を1年から半年に減らす制度幕府の増収に貢献したが、幕府権威の低下、江戸での経費削減による諸大名の経済力の拡大にもつながり、1730年には廃止された。
足高の制17238代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環江戸幕府の各役職に就く際に、禄高が基準以下の者は、在職中のみ不足分の禄高を幕府から支給される制度。優秀な人材を登用することを目的としたが、幕府財政が逼迫する要因にもなった。
懐徳堂17248代将軍、徳川吉宗の代。大阪商人が設立した学問所富永仲基・山片蟠桃・草間直方などが学んだ。
青木昆陽の登用17398代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革において、飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培の研究を命じられた人物。甘藷先生とも呼ばれた。なお、薩摩国では当時既にサツマイモが普及していたと推測され、飢餓から人々を救っていたといわれる。
公事方御定書17428代将軍、徳川吉宗の代。享保の改革の一環幕府の司法に関する基準を定めた法典。刑罰の基準を定めることで、刑事裁判の公平性と迅速化に寄与した。ちなみに、この法典ではじめて更生の概念が取り入れられた。
宝暦事件17589代将軍、徳川家重の代。尊王論者の竹内式部が、天皇や公家に対して神書・儒書を講義したことが密告され、京都追放の処分を受けた事件。尊王論者を弾圧した事件としては、最初の事件とされる。ちなみに、竹内式部が学んだ尊王論は、山崎闇斎の垂加神道であり、「山崎闇斎」と「垂加神道」は神社検定2級でもよく出題される用語である。
御三卿17599代将軍、徳川家重の代。徳川将軍家の一門で、田安家・一橋家・清水家の三つ藩は形成せず、将軍家の身内(部屋住み)の扱いであり、将軍家に後嗣がない場合に御三卿から後継者が出されることもあった。なお、類似したものに、御三家があるが、御三家は藩を持っている(尾張藩・紀州藩・水戸藩)などの違いがある。なお、各家の成立は8代将軍徳川吉宗~9代将軍徳川家重の時期で、田安家が1731年、一橋家が1740年、清水家が1759年。
寄席18世紀中頃~技芸を見せる興行小屋。18世紀中頃の演目は、浄瑠璃・小唄・講談・手妻(手品)など。18世紀後半以後は落語が主流となった。常設小屋になったのは19世紀初頭頃から。享保の改革(1841~1843年)による政治批判や風紀取締によって強制的に閉鎖されるが、19世紀後半には急増した。
田沼政治(田沼時代)1767178610代将軍、徳川家治の代。老中田沼意次が幕政に関わっていた時代の政治重商主義で、主な政策は、株仲間の公認、印旛沼手賀沼干拓(農地開発)、新貨の鋳造(東西で違う通貨が使われていたものを統一した)など。当時、幕府は年貢収益が頭打ちになった状況で赤字財政を改善する必要があった。田沼が商品生産・流通・金融からの収益を得ようと多くの大胆な政策を行った事は評価されるが、失敗も多かった。また、当時から汚職政治として認識されていたが、実態はそれほど酷くはなく、政敵で後に寛政の改革を行った松平定信などが田沼の汚職を誇張した影響とする意見もある。
南鐐二朱銀177210代将軍、徳川家治の代。重商主義をとった田沼意次が導入した目方をはかる必要のない計数貨幣の銀貨。従来、江戸時代の銀貨は丁銀・小玉銀などの質・重さを調べる必要がある秤量貨幣であった。また、当時は東日本では金貨、西日本では銀貨が主に使われており、金貨と銀貨の交換比率が変動していたことから、両替が不便であった。そんな中で、金貨の二朱と交換できるとする南鐐二朱銀を作り、為替レートを固定。金貨を基軸とした事実上の通貨統一を行った。また、通貨発行益を得る事も目的の一つとされる。
解体新書177410代将軍、徳川家治の代。日本語で書かれた解剖学書で、『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳した書物。著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。医学の発展に寄与するだけでなく、オランダ語への理解が進む事にもつながり、西洋の文物を理解する下地を作った。
アメリカ独立宣言177610代将軍、徳川家治の代。北米13植民地が独立した際の宣言。当時の日本はアメリカとの直接の外交・貿易はなく、独立宣言が持ちこまれることもなかった。
天明の大飢饉1782178810代将軍、徳川家治の代~11代将軍、徳川家斉の代。江戸四大飢饉の1つで、近世最大の飢饉天候の悪化に加え、1783年の浅間屋化の噴火も影響した。そこに、田沼政治の重商主義政策で、稲作の行きすぎた奨励(当時のイネの品種は冷害に弱い)が行われていたことや、備蓄米を江戸へ回送するなど失政も重り、米価が上昇。飢饉は全国規模に拡大した。
浅間山の噴火178310代将軍、徳川家治の代。天明大噴火とも呼ばれる大規模噴火。天明の大飢饉の原因の1つにもなり、百姓一揆や打ちこわしも頻発した。ちなみに、同年アイスランドのラキ火山などでも大規模噴火が発生したため、北半球では寒冷化による凶作が世界的に発生し、フランス革命の遠因にもなっている。
田沼意知の暗殺178410代将軍、徳川家治の代。江戸城中にて、若年寄の田沼意知が斬りつけられ、治療の遅れのために死亡した。この事は、反田沼派であった松平定信らが台頭するきっかけとなった。
寛政の改革1787179311代将軍、徳川家斉の代。老中松平定信による政治主な政策は、囲米七分積金旧里帰農令棄捐令人足寄場寛政異学の禁など。また、民衆の思想をコントロールするために出版統制が行われ、山東京伝、林子平などが処罰された。次第に家斉や大奥と対立するようになり、定信は6年で老中を解任された。田沼政治と寛政の改革は、庶民の歌でも比較され「田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水」と期待されていたが、最終的には「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」と歌われるくらいに、庶民からも不満が出ていた。
寛政の三博士17891801年頃11代将軍、徳川家斉の代。昌平坂学問所の教官を務めた儒官3名で、柴野栗山・尾藤二州・岡田寒泉(または古賀精里)の事。
尊号一件1789179311代将軍、徳川家斉の代。光格天皇が、父の閑院宮典仁親王への尊号贈与を行おうとした際、松平定信にと揉めた事件光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇崩御した際に養子となって即位した。これに伴い「父よりも自分の位が上になってしまった」「禁中並公家諸法度での父の序列が、臣下である摂関家よりも下」という状況に不満を抱く。その為、光格天皇は典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとした。これに対し、定信は「皇位についていない人に皇号を贈るのは先例がない」と反対。朝廷と幕府の間で論争となった結果、天皇側に1000石の加増などの待遇改善を行い、尊号贈与は行わない事で終結した。しかし、同時期に家斉が、実父の一橋治済に「大御所」の尊号を贈ろうしており、これが定信による尊号拒否のため、同様に拒否せざるを得ない状況に置かれた。更に、定信にとって治済は政敵であったため、治済への尊号拒否が家斉の不興を買う。結果、家斉と定信の関係が悪化し、定信の老中解任につながった
棄捐令178911代将軍、徳川家斉の代。松平定信寛政の改革の一つ金銭的に困窮していた旗本・御家人を助けるため、札差に債権放棄・債務繰延べをさせた法令。背景として、当時の利率が年利18%と高いため一度借金をすると返せなくなる事、旗本・御家人の財政基盤が弱かったことがあげられる。天保の改革や文久年間でも同様の法令が出された。徳政令に似ているが、あくまで対象は旗本・御家人に限定された。ただし、札差の貸し渋りや廃業を招き、結局旗本・御家人からも不満が出た点では徳政令と似ている。なお、幕府のみならず、松江藩加賀藩佐賀藩などでも棄捐令が出された。
旧里帰農令179011代将軍、徳川家斉の代。松平定信寛政の改革の一つ田沼政治で没落した地方の本百姓が、江戸へと大量流入し、治安の悪化にもつながっていた事から農民の帰農を奨励し、また出稼ぎを制限した。しかし、強制力が弱く、多くの農民は江戸にとどまった。
人足寄場179011代将軍、徳川家斉の代。松平定信寛政の改革の一つ無宿人(軽犯罪者や、勘当され戸籍から外された人)の養成所。職業訓練などの教育的・自立支援的なアプローチを取り入れようとしたことは世界でも画期的であった。享保の頃から無宿者達が増加し、また天明の飢饉から治安が悪化していたことが背景にある。
寛政異学の禁179011代将軍、徳川家斉の代。松平定信寛政の改革の一つ幕府直轄の『昌平坂学問所』における学問を朱子学のみとし、他の学問を禁じた。上下関係の秩序を重んじた朱子学は、徳川家康の林羅山登用から江戸幕府に重要視されてきた。しかし、徳川吉宗が朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したことで、朱子学は不振となってきていた。なお、幕府の教育機関での異学は禁じられたが、その他は異学派の学問が禁じられたわけではない。ただし、寛政の改革では民衆の思想をコントロールするための出版統制は行われた
古事記伝1790年頃11代将軍、徳川家斉の代。本居宣長の『古事記』に対する註釈書。後の古代文学研究・古代史研究にも大きな影響を与えた。
七分積金179111代将軍、徳川家斉の代。松平定信寛政の改革の一つで、囲米の一種町入用(町の運営の為、町人から徴収するお金)を削減し、災害・飢饉対策として削減分の7割を積み立て、一部は米で保存した。単に備蓄するだけでなく、徴収したお金を低金利で貸し出して利益も上げ、それにより貧困者対策も行った。明治になり、七分積金を管理していた江戸町会所が廃止された後は、東京府と東京市に接収され、学校・水道・道路などの建設費に充てられたと言われる。

江戸時代の文化・芸術まとめ

江戸時代全体の文化・芸術関係についてまとめます。なお、学問関連については、江戸時代後期の記事でまとめます。

寛永文化

  • 時期:16世紀末~17世紀後半頃(慶長(1596~1615年)または元和(1615~1624年)~寛文(1661~1673年))
  • 特色:中心は京都で、町衆と朝廷勢力が、幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出した。また後には、江戸においても儒学・武家を中軸とした文化が形成され、互いに影響しつつ各地に広がった。
主な人物・建築物

  • 千宗旦:茶人。利休の孫で、千家再興を行った。
  • 俵屋宗達:画家。本阿弥光悦と並び琳派の祖とも呼ばれる。主な作品は『風神雷神図』
  • 本阿弥光悦:画家、工芸家。俵屋宗達と並び琳派の祖とも呼ばれる舟橋蒔絵硯箱』。
  • 狩野探幽:狩野派の画家で、幕府の御用絵師として活躍した。
  • 住吉如慶具慶父子:幕府の御用絵師として活躍した。
  • 桂離宮:『日本庭園の最高傑作』とも言われる
  • 日光東照宮:権現づくりで有名。

なお、本阿弥光悦の『舟橋蒔絵硯箱』と、尾形光琳の『八橋蒔絵螺鈿硯箱』は、2級の過去問で度々登場しているため、混同しないように確実に覚えましょう。

元禄文化の頃

  • 時期:元禄年間の前後(1688~1704年頃
  • 特色:都市町人の台頭に伴い、上方を中心に数多くの作品が生み出され、民衆の現実に根差した表現がされた(ただし、武士階級出身の担い手も多かった)。文化の中心が京都から大坂へと移り、また、元禄文化以降では江戸・東国が与える影響力も高まっていった。
主な人物・建築物

宝暦・天明文化

  • 時期:宝暦~天明期1751~1789年)
  • 特色:正徳の治と享保の改革で、武士の文化活動が引き締められる一方、武士の中に中国の文人に影響され文学・芸術活動が現れ、町人を取り込みながら江戸を中心に広まった。
  • 代表的な作品:与謝蕪村池大雅の『十便十宣図』。

また、寛政の改革による取り締まりにより、洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町が処罰された。

化政文化の頃

時期:文化文政時代(1804-1830年)頃

特色:江戸を中心に発展した町人文化で、元禄文化と対比し享楽的色彩が強いとされる。

主な人物・建築物

なお、写楽の「役者絵」と歌麿の「美人画」により、大首絵がより洗練された。

参考にしたサイト

この記事は、以下のサイトを参考にしました。より深く歴史を学びたい方は、こういった学習サイトを活用することをおすすめします。

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11月 14, 2023歴史能力検定(日本史2級)